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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

初冬の浅草金龍山「浅草寺境内」~黄金と朱の絶妙な色景色~

2011年12月13日 15時54分54秒 | 台東区・歴史散策
師走も半ばの今日、下町浅草寺はクリスマスを飛び越えてもう新年の飾りつけが始まっています。賑やかさを取り戻しつつある仲見世の軒先にはお正月の縁起物である「羽子板」や「大入り袋」などのデコレーションが備え付けられています。

仲見世飾りつけ
仲見世飾りつけ

仲見世通りと交差する「伝法院通り」に並ぶ江戸風情漂う店先もはやお正月の準備が始まっています。

伝法院通り

平日にもかかわらず多くの参拝者や観光客で賑わう仲見世通りを抜けて宝蔵門に辿り着きます。いつ来ても宝蔵門から見る五重塔の姿は絵になります。雲ひとつない紺碧の空の下で、宝蔵門と五重塔の朱色がくっきりと映えています。

宝蔵門と五重塔
黄葉と五重塔
境内の黄葉

境内にある銀杏の木が12月半ばだというのに見事な黄金色に染まり、空の碧、ご本堂をはじめ境内の堂宇の朱と絶妙なコントラストを見せています。この黄金の色模様も師走の寒風でここ数日内で落葉してしまうのではないでしょうか。

ご本堂と黄葉
ご本堂
五重塔とスカイツリー

そしてご本堂の右に目を移すと、三社祭の祭祀で有名な「浅草神社」の鳥居と黄金色に染まる銀杏の木が飛び込んできます。さらに浅草神社の脇にたつ二天門も美しい黄葉に彩られていました。

浅草神社鳥居と黄葉
浅草神社鳥居
二天門と黄葉
二天門と黄葉

境内東南隅の小高い丘の上に構える弁天堂と「時の鐘」を彩る銀杏の黄葉は訪れる人もない静かな空気の中で、散り行く葉音だけが寂しく響いていました。

時の鐘と黄葉
時の鐘
弁天堂

お江戸・浅草金龍山はほんとうに遅い秋を惜しむように全山色付いています。境内は初冬の寒風の中で黄金色に染まった葉がとめどなく地表に舞い落ち、舞い落ちた葉がサラサラと心地よい音色を奏でています。

猛暑の中の浅草四万六千日御祈祷礼~浅草寺ほおづき市
浅草寺僧坊・伝法院庭園の枝垂れ桜も満開ですよ!
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めったに見られない!浅草浅草寺の寺宝「大絵馬」と伝法院庭園の拝観
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見つけた!上野桜木・浄名院に鎮座する六番目の江戸六地蔵

2011年12月09日 12時49分30秒 | 台東区・歴史散策
先日、秋色に染まる上野桜木の寛永寺の裏通りの寺町の散策を楽しみました。寛永寺境内の銀杏の木は今を盛りと黄金色の葉でおおわれ、去り行く秋を惜しむように色付いた葉が木漏れ日の中を一枚、また一枚と舞い落ちていきます。

そんな寛永寺境内からさほど離れていない場所に静かに佇むのが東叡山三十六坊の古刹・浄名院なのです。言問通りに面して寺領が広がっているのですが、山門は通りから石段を降りた位置に構えています。ちょうど上野の山の北側にあたる場所で、この辺りから根津、千駄木の谷あいへと下り始める地勢となっています。

言問通りから見る山門

この浄名院は寛文6年(1666)創建の古刹ですが、もともとは浄円院という院号でしたが享保8年(1823)に現在の浄名院に改称しています。歴史を感じる山門は享保年間に建立されたものです。

浄名院山門
浄名院山号

当院は地蔵信仰の聖地として知られており、境内には夥しい数の地蔵が祀られています。当院の由緒書によると、明治9年の頃、当院の三十八世妙運大和尚がインドの阿育王が建立した八万四千体の石宝塔に習い、これと同数の石地蔵建立の発願を行い、和尚はなんと八万四千体分の地蔵尊の真影を拝写し、八万四千人に授与したのです。そしてこの真影を授けられた人は地蔵一体を建立できるよう誓願されたのです。地蔵を奉納した方々の中には近衛、一条、小松の各宮家に始まり徳川、毛利の旧殿上人、更には陸奥宗光、大山元帥、三井や安田の財閥、梨園の花形などが名を連ねています。

夥しい数の石地蔵

境内の左手一帯にそれはそれは夥しい数の石地蔵が並んでいます。実際に八万四千体の地蔵が並んでいるのかは定かではありませんが、奉納された方々のなみなみならぬ仏への帰依を肌で感じます。

総本尊地蔵

そんなお地蔵様が並ぶ中にひときわ高みに鎮座する大きな地蔵一体があります。このお地蔵様こそ江戸六地蔵第六番の生まれ代わりなのですが、実は江戸六地蔵六番は深川にあった富岡八幡宮の別当寺の永代寺に鎮座していました。しかし明治の神仏分離令によって永代寺が廃寺となり、その際に永代寺に鎮座していた六番地蔵尊も破壊されてしまったのです。その後、明治39年に日露戦争の戦没者を慰霊するために、ここ浄名院境内に新たに建立されたものです。現在残る他の五体に比べ、やや小振りに造られたお地蔵様です。

江戸六地蔵六番
江戸六地蔵六番
台座に刻まれた六番の文字

江戸時代に建立された六地蔵はすべて、街道筋(東海道、甲州街道、日光奥州街道、中仙道、千葉街道)の寺院の境内に鎮座しています。これは街道を往来する旅人の安全を祈願するものだったのですが、ここ浄名院の地蔵六番は街道筋とはいっても言問通りで、本来の目的とは異なりその役割も薄れてしまっているような気がします。廃棄されてしまった江戸六地蔵六番の生まれ変わりのお姿を拝見できたことは個人的に喜ばしいことなのですが……。





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めったに見られない!浅草浅草寺の寺宝「大絵馬」と伝法院庭園の拝観

2011年11月22日 16時55分46秒 | 台東区・歴史散策
お江戸下町の最大の行楽地である浅草には個人的には数え切れないほど訪れています。名古屋から久しぶりにお江戸に戻り、大好きな浅草へふらりと出掛けてみました。

伝法院大書院

相変わらずの賑わいを見せる仲見世通りには、震災後激減した外国人観光客(特に中国人)がいくらか戻ってきたような気がします。そんな仲見世通りを抜けて奥山地区へ足を向けると、なにやら特別なイベントが開催されているような雰囲気が漂っています。近づいてみると、浅草寺に奉納された歴史的な大絵馬の特別展示と、なんと普段では絶対に入ることができない伝法院の庭園が特別に公開されているではありませんか!

大絵馬寺宝展入口

この特別公開は本年12月5日(月)までで、たまたま浅草にやってきた甲斐があったというものです。拝観料はわずか300円。一度は見てみたかった伝法院の僧坊と庭園の見学チャンスを見逃してなるものか、とまずは特別展示館で開催されている「大絵馬寺宝展」へ入場しました。

大絵馬と寺宝の展示スペースでは写真撮影が禁じられていましたので画像はありません。展示されている絵馬は私たちが願掛けのために寺社に奉納する小さなものではなく、「巨大」なと表現したほうがいい位の大きなもので、武者絵、伝説絵、歌舞伎絵など江戸時代の著名な絵師が描いた力作が多数展示されています。中でも、浅草寺を祈願寺として庇護した徳川将軍家の二代将軍秀忠公と三代将軍家光公が寄進した金蒔絵仕立ての神馬の絵馬はさすが将軍家といわしめる精巧な造りで一見の価値があります。これまで知らなかった浅草寺の寺宝と間近に対面できたことに感動しながら、伝法院の庭園へと向かうことにします。

五重塔とスカイツリー
五重塔とスカイツリー

特別展示館から出て参観順路に従って進んでいきます。この順路を進んですぐのところから見える光景はここからしか見られない浅草寺五重塔とスカイツリーのコラボレーションです。典型的な日本建築の五重塔と現代高層建築の代表格のスカイツリーが並んでアングルに収まっています。

梢越しに見る五重塔

順路をさらに進むと、左手に浅草寺本坊に属する「大書院」建物が現れます。なだらかな屋根の傾斜と長い廊下、畳の間と廊下を隔てる真っ白い障子を持つ大書院の建物が庭園の池の水に映えています。

大書院の廊下と障子
大書院の掛け軸

伝法院の庭園は寛永年間に幕府の作事奉行を勤めた、あの築庭の名手である小堀遠州の手によるものと伝えられています。池を囲むように回遊できる庭園は、賑やかな浅草のど真ん中にあることを忘れさせるような豊かな緑と閑静な佇まいを見せています。

庭園と大書院
庭園
庭園
庭園

池を回りこむと五重塔とスカイツリーを左右に従える大書院の素晴らしい景色を撮ることができました。こんなアングルは伝法院のお庭に入らなければ絶対に見ることはできません。

五重塔とスカイツリー
大書院と五重塔

あらためて伝法院が浅草寺の本坊として特別な存在であり、そのお庭も限られたものしか入ることができなかった秘園であったことを窺い知ることができました。

猛暑の中の浅草四万六千日御祈祷礼~浅草寺ほおづき市
浅草寺僧坊・伝法院庭園の枝垂れ桜も満開ですよ!
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江戸っ子たちの桃源郷「長編・吉原今昔物語」

2011年10月15日 16時10分16秒 | 台東区・歴史散策
お江戸の文化を語る中で、良い悪いは別として避けて通れない場所が「吉原」なのですが、これまで当ブログで取り上げた記事中に度々「旧吉原と新吉原」に関わるは話題を補足的にさまざま記述してきました。

そうであればこの際、吉原(現在は吉原という地名はありません)に焦点をあてて詳しく紹介してみようと取材を試みました。歴史散策を目的にこの地を訪れても、かつての妓楼や揚屋の建物、そして吉原の傾城全体を囲んでいた「おはぐろどぶ」も忘却の彼方へ消え去り、その昔、この場所が江戸っ子、いや全国的に名を馳せた桃源郷であったことを偲ばせるものがほとんどないことを予め申し上げておきます。

それでは「吉原」の歴史を紐解いてみましょう。
そもそも吉原の始まりは、浅草裏ではなく現在の日本橋・人形町に元和4年(1618)11月から遊女屋17軒、揚屋24軒で営業が開始されたのです。この人形町に傾城町を作ったのが「庄司甚右衛門」なる御仁です。先見の明があった御仁と言えば確かにそうかもしれませんが、実は甚右衛門が傾城町を作る下地が当時の江戸にあったのです。

天正18年(1590)8月1日(八朔の日)、小田原北条氏を滅ぼした後に関八州を任されることになった家康公が江戸に初入府してから、それまで江戸湾に面した寒村に過ぎなかった江戸はこの日を境に一変していきます。関ヶ原合戦後、開幕を経て家康公は文化の中心を京から江戸へと移すため、将軍家の居城である江戸城の普請を精力的に推し進めていきます。

この普請には日本全国の諸大名が将軍家のために、資材はもちろんのこと多くの労役を提供したのですが、その労役を担ったのがほとんどが「男性」であったことで、遅かれ早かれ江戸の各地に娼館ができるのは自然の成り行きだったのです。

これに目をつけたのが「庄司甚右衛門」だったのですが、甚右衛門は慶長10年頃(1605)にはすでに江戸市中で遊女屋を営んでいたのです。この時期、甚右衛門の遊女屋以外にも江戸には散在していたのですが、幕府は江戸城増築を理由に遊女屋の移転を命令を出します。これを好機と見た多くの遊女屋ははじめて幕府に対して公許遊郭の創設を請願しましたが、このときは不許可となっています。その後、慶長17年(1612)にも同様の請願をしていますが、これも却下となります。そして元和2年(1616)に家康公が亡くなった翌年の元和3年(1617)にやっと公許遊郭の陳述が幕府に取り上げられ、条件を受け入れる代わりにめでたく公許の傾城町が誕生することになります。

幕府はこの傾城町のために現在の日本橋・人形町界隈の葦が生い茂る湿地帯を提供するのですが、手を加えなければとても使える土地ではなかったのです。甚右衛門をはじめとする遊女屋たちは1年余りかけて土地の整備を終え、元和4年(1618)11月に目出度く江戸唯一の幕府公認の遊里として営業開始にこぎつけたのです。

「吉原」の名の由来は、この場所が一面の葭(よし)の原で「葭原」と呼ばれていたのを、寛永3年(1626)に葭を「吉」に変えて「吉原」にしたという説が一つ、別に葦の茂る野原であることから「葦の原」、これが転じて「悪の原」では縁起が悪いということで「悪」を「吉」に変えて「吉原」にしたとも言われています。

しかしここ人形町の吉原はわずか40年余りで幕を閉じてしまいます。というのはあの江戸の大火で有名な明暦の大火により吉原は全焼してしまいます。この年、明暦3年(1657)の頃の江戸の町はほぼ完成し、江戸城を中心に武家地、寺社地、町屋が整然と区分けされ、特に人形町界隈は武家地として整備されていました。そんな武家地に近い場所に「悪所」と呼ばれる遊里があることに快く思っていなかった幕府は、この大火を機会に吉原をもっと江戸の端っこへ追いやることを目論んで、吉原の名主に隅田川の東の本所か浅草寺の裏の田圃のど真ん中への移転を命じたのです。
吉原の名主は幕府の命令に思案するのです。この当時はまだ両国橋が完成していないので、本所はとても不便であるということで、同じ地続きの浅草裏の田圃のほうがまだましであるという考えでしぶしぶ了承した場所こそ現在の「吉原」なのです。これが新吉原となるのですが、便宜上、それまでの日本橋の吉原は「元吉原」と呼ばれるようになったのです。この新吉原が本格営業を始めたのは明暦3年(1657)の8月からと言われています。

さて、この浅草裏手の田圃にできた新吉原への登楼の方法は主に4つで、裕福なものは舟、駕籠、馬を利用したのですが、一般の人たちは「徒歩」での通いだったのです。現在でも浅草に「馬道」という名が残っていますが、馬に乗って吉原に通った道の名残りなのです。



一方、舟での通いの場合のルートとしては、一般的に浅草橋、柳橋界隈の船宿から隅田川(大川)を遡り、「竹屋の渡し」があった今戸から山谷堀に漕ぎいれ、俗に言う「土手八町」の終点である大門口へ至るのです。

今戸橋

かつての山谷堀は今はなく、流れていた川は暗渠となり現在はその跡地は緑濃い細長い公園に姿を変えています。緑道を進むと一つの句碑が立っています。

山谷堀公園

正岡子規が詠んだ「牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな」が刻まれています。

正岡子規の句碑

この「牡丹」はおそらく遊郭の女郎の名前ではないでしょうか。身請けし晴れて大門を抜け自由の身となった女郎「牡丹」を載せた小舟が山谷堀を進み今戸口へ向かっている様子を詠ったものなのでしょう。

緑道を進むと、かつてこの山谷堀に架かっていた小さな橋の橋柱がそのまま残っています。そんな橋柱の中に「紙洗橋」と刻まれた橋柱を見つけました。実はかつて山谷堀にそって「紙漉き屋」が店を構えており、特に使い古しの和紙を漉きなおしして再生紙をつくっていました。こんなことから紙を漉く店、すなわち紙を洗う店があった場所に架かっていたので「紙洗橋」と名付けられたのでしょう。

紙洗橋の橋柱

ところで紙を漉くときに古紙をいったん煮詰め、どろどろに溶かさなければなりません。そしていま一度漉くまでに「冷やかさなければ」ならないのだそうです。これがお店で買うこともなく、ただ見るだけのことを「ひやかし」と言う語源になったといいます。というのは、山谷堀の紙漉き屋の職人たちが、紙を冷やしている間に吉原妓楼の張見世前によく掛けていたといいます。遊ぶ金もない職人たちはただみるだけで買おうともしません。そこで女郎たちはどうして買わないのか?と職人たちに聞くと、「俺たちは紙漉きやの職人で、いま紙を冷やかしている時間を利用して見にきているだけなんだ」と。今、私たちがよく使う「ひやかしで…を見る」という言葉はここからきているのです。

さて、かつての吉原遊郭へはたった一つの入口しかありませんでした。どの通い方であっても必ず導かれる入口が「大門」と呼ばれる入口です。その大門は日本堤と呼ばれる街道筋から少し入ったところに構えているのですが、この日本堤に吉原を代表する名所が残っています。

見返柳碑
見返り柳

それは一夜を吉原で過ごした客が大門を出て現実の世界へ戻っていくとき、さまざまな思いを胸に込めて吉原を振り返ると、そこに一本の柳の木が。まるで一夜を一緒に過ごした遊女が別れを惜しんで手を振っているかのように枝を揺らす柳の木。それが「見返り柳」なのです。今見ることができる「見返り柳」は7代目ということですが、柳の木の根元には「見返り柳」の石碑がもの言わぬ歴史の証人のように静かに佇んでいます。

この見返り柳から吉原の正門である「大門」へと道が続いているのですが、当時から見返り柳がある土手道(日本堤)から大門が直接見えないように道が三曲がりになっており、現在でもその通りにS字型に道が湾曲しています。これは将軍が鷹狩りや日光への参詣の際に吉原遊郭のシンボルである大門が見えては恐れ多いとの配慮からこのような道の作り方になったといいます。

衣紋坂

見返り柳から最初のカーブはかつて「衣紋坂」と呼ばれ、遊客が遊女と会うために着物の衣紋を直しながら下ったことに因んでいます。そして衣紋坂を下るとかつての「五十間道」へとさしかかります。その名のとおり道の距離が50間あったからという説と、この道に沿って編笠茶屋が50軒並んでいたからとも。

五十間道

この五十間を過ぎると、大門は目と鼻の先。その入口を示すように現在でも大門を模した門柱が立っています。ここがかつての吉原遊郭の唯一の出入り口「大門」があった場所なのです。江戸時代にはこの大門を入った左側に町奉行所配下の番所、右側には吉原側が運営した「四郎兵衛番所」が置かれていました。現在は大門手前の右側に交番が置かれています。

現在の大門
現在の大門

大門を抜けると、そこはかつて吉原遊郭のど真ん中を走る中央大通り「仲之町」。大門を入った右側には一流の茶屋が七軒並び、俗に「七軒茶屋」と呼ばれていました。大見世に行くためには必ず茶屋を通さなければならなかったのですが、上客はこの茶屋を通じ、花魁を指名し、指名された花魁はこの茶屋まで客を迎えにくるのですが、この迎えにいく風景が吉原の「花魁道中」なのです。

そんな世界が繰り広げられていた現在の仲之町には現代の遊郭であるソープランドが派手な色使いの建物が軒を連ねています。

現在の仲之町

仲之町は大門からかつて水道尻(みとじり)と呼ばれ、遊郭のどんつきとなっていた場所まで真っ直ぐに延びています。このかつての水道尻があったそばにあるのが吉原神社です。

吉原神社
社殿

明暦3年に浅草裏に移ってきた吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られていました。この五社が明治5年に合祀され「吉原神社」として創建されたのがその起源です。

鳥居の左側に鎮座する狛犬の目に赤い石、そして右側の狛犬には透明の石が嵌め込まれているのに気がつきましたが、なぜ色のついた石が嵌め込まれているかの理由は定かではありません。

赤目の狛犬

吉原神社を辞して、吉原弁財天へ進んでいきましょう。吉原弁財天には大正12年の関東大震災で亡くなった吉原の遊女の方々を供養するために造られました。当時、この辺りには湿地が多く、池が多く点在していました。震災の際にその火炎から逃れるために多くの遊女たちがこの池に飛び込んで、溺死したということからこの場所に弁財天を祀り、亡くなった遊女の方々を供養しています。その供養塔が境内の真ん中に置かれています。

吉原弁財天
弁財天祠
震災供養塔

境内を囲む玉垣には当時有名な吉原の妓楼の屋号と主の名前が刻まれていることから、亡くなった遊女がこれら妓楼に属していたことがわかります。境内には江戸時代に吉原遊郭を作った代表的人物である「庄司甚衛門の碑」と「花の吉原名残の碑」が並んで置かれています。

妓楼三浦屋
妓楼角海老楼
庄司甚衛門の碑

それではかつての遊郭を囲んでいた「おはぐろどぶ」の痕跡を見つけにいきましょう。とはいっても「どぶ」がそのままの姿で残っているわけではありません。かつての「どぶ(堀)」はすべて舗装道路に姿を変えています。ただ1ヶ所だけ、かつて遊郭からドブ(堀)につながる石段があったと思われる段差が残っていました。下の写真の階段上は吉原公園になっています。この吉原公園のある位置がかつての遊郭の建物があった位置で、そして階段を下りきった位置に「おはぐろどぶ(堀)」があったのではと推測いたしました。

石段下が「おはぐろどぶ」

現在の吉原(千束という町名に変わっています)は、確かに風俗営業のお店が並ぶ場所に住宅街が隣接する奇妙な場所です。だからといって一大繁華街といったギンギン、ギラギラの町でもないのです。冒頭で申し上げたように、かつての吉原を感じる歴史的建造物も歴史的な佇まいが残っているわけでもありません。ただ娑婆から隔離されたように堀で囲まれた区画が現在も生きつづけていることが、僅かながらかつての吉原を感じる唯一のものといっていいでしょう。

吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~





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幕末三舟の一人「高橋泥舟」が眠る谷中大雄寺と周辺の趣きある建物

2011年07月01日 17時51分15秒 | 台東区・歴史散策
谷中全生庵から谷中霊園を左に見ながら東京芸術大学方面に道を下ると、まもなく上野桜木の交叉点にさしかかります。ちょうどこの交叉点の手前左手に幕末三舟の一人「高橋泥舟」が眠る大雄寺の山門が構えています。



当大雄寺はそもそも慶長9年に神田土手下に創建された日蓮宗の古刹で、万治元年に当谷中に移ってきた歴史在るお寺です。境内はそれほど広くはありませんが、参道を進むと境内を覆うように葉を茂らせているクスノキの大木がここ大雄寺のシンボルになっています。樹齢は推定で200年から300年と言われる巨木で都内では最大のクスノキだそうです。

このクスノキの大きな幹に守られるように置かれているのが泥舟の墓なのですが、自然石と思われるような墓石が置かれ、「これがあの泥舟のお墓?」と首を傾げたくなるような地味な佇まいが印象的です。

泥舟の墓

さてこの泥舟ですが、幕末に活躍した勝、山岡の二人に比してそれほどメジャーな人物として扱われていないのが現状です。しかも泥舟はさきの山岡鉄舟とは義理の兄弟なのですが、鉄舟が華々しい功を上げた反面、槍術の名手であった泥舟は最後の将軍である慶喜公の護衛役としてその責をまっとうし、維新後は新政府任官の誘いにものらず、栄達や叙爵を求めることなく後半生を過ごしたといいます。明治36年2月13日に69歳で亡くなっています。

ちなみに勝海舟は泥舟を表してこう言っています。「あれは大ばか者だよ。何しろ物凄い修行を積み、槍一本で伊勢守にまでなった男さ。あんな馬鹿は近頃見かけないね。」と勝流に泥舟を賛辞しています。

さて大雄寺の周辺には趣きのある古い建造物がいくつか点在しています。その一つが大雄寺の入口の脇にたつ豆大福の「谷中岡埜栄泉」です。ほんとうに古めかしい木造家屋で大きな硝子が入った木枠のガラス戸が懐かしい雰囲気を漂わせています。この岡埜栄泉は明治33年創業とのことです。

谷中岡埜栄泉

そして上野桜木の交叉点の両角にも古い木造の建造物が並んでいます。2階建ての可愛らしい建物で昭和13年から営業しているという「カヤバコーヒー」というコーヒーショップです。しばらく休業していたようですが、最近になって営業を再開したそうです。

カヤバコーヒー

このカヤバコーヒーの反対側の角に建つのがこれまた趣きのある商家で、「旧吉田屋酒店」です。現在は下町風俗資料館の付設展示場となっているのですが、酒店の店構えと店舗内部がディスプレイされ、過ぎ去った時代の店の風情を十分に感じ取ることができます。

旧吉田屋酒店
店舗内部
昔懐かしいポスター類

谷中にはこのほか古い建物が幾つも残っています。下町風情がただよう谷中は日本人だけでなく外国からやってくる多くの外国人の間でも人気のスポットになっています。

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あの山岡鉄舟が建立発願した寺「谷中の全生庵」に幕末を偲ぶ~8月は円朝の幽霊画が公開~

2011年07月01日 16時14分29秒 | 台東区・歴史散策
地下鉄千駄木の駅を降り、地上へとつづく階段を上がるにつれムッとするような外気が襲ってきます。千駄木駅から谷中墓地へと繋がる「三崎坂(さんさきざか)」のなだらかな勾配をゆっくりと進んで行くと、すぐ左手に谷中銀座へとつづく夜店通りの入口が現れます。そんな下町風情が漂う坂道を進むと左手に「全生」と刻まれた大きな石標がふいと目に飛び込んできます。

全生庵石標
全生庵ご本堂

谷中といえば上野寛永寺そして感応寺(現天王寺)のお膝元の地で、大多数の寺が寛永寺又は感応寺の塔中、子院として江戸時代から続く古刹が多いのですが、ここ全生庵は明治16年に建立された寺なのです。しかも当寺を建立発願した人物はかの山岡鉄舟居士という幕末を語る上でも切っても切れない人物なのです。
彼、鉄舟が建立したいきさつは幕末から明治維新にかけて国事に殉じた人々の菩提を弔うために ここ谷中の地を選んだと言われています。

私の個人的な見解ですが、谷中を選んだ理由としては上野彰義隊戦争の戦死者を弔い供養する場所として好都合であったこと、そして最後の将軍慶喜公が恭順、蟄居した寛永寺の子院である大慈院にも近いこと、そして何にも増して徳川家の菩提寺であり、六人の将軍が眠る寛永寺が近いことなのではないかと推察しています。

さて、鉄舟なる人物について簡単に紹介しておきましょう。時は幕末、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で幕府軍は惨めな敗北をきすこととなり、ついには朝敵の汚名を下されることとなってしまいます。討幕の号令の下、錦の御旗を掲げる官軍は東征軍を率いて江戸を目指します。幕府方総督の勝海舟をはじめ、あの篤姫様や和宮様は東征軍総督に対して江戸総攻撃を回避させるべく懇願したことは周知の事実です。

勝海舟の鉄舟を賛じる石碑

いよいよ東征軍が静岡に至るや、鉄舟は慶喜公の命を受けて単身静岡に陣取る東征軍の大本営に赴き、総参謀西郷南州に面接し江戸総攻撃の中止を請願するとともに、あの歴史に残る西郷と勝の会談の段取りを決めたのです。最終的には西郷・勝の2度に渡る会談で江戸無血開城が決まったことはご存知のことと思います。

明治に入り、幕臣であった鉄舟は明治天皇の侍従となり、明治大帝をお世話する事となります。この鉄舟ですが剣、禅、書の奥義を極め、剣の無刀流を開いた文武両道の達人であったことで知られていますが、この御仁は幕末から明治にかけての落語家の大看板である三遊亭円朝(1839~1900)と非常に懇意で、円朝は鉄舟の導きによって禅をよく修し、その淵源を極めたと言われています。また円朝は、「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「文七元結」などの原作者としても広く知られており、全生庵には円朝が所蔵した幽霊画が保存され毎年、円朝忌の行われる8月の1ヶ月間、幽霊画50幅を公開しています。(有料)
今年は大幅な節電を心がけなければなりません。肝を冷やす意味で暑い最中のひとときを、怖い幽霊がを見ながら一時の涼を体感してみてはいかがでしょうか?
※毎年8月11日の円朝忌は当寺で「円朝まつり」が開催されます。

三遊亭円朝碑

ところで鉄舟居士の眠っているここ全生庵の墓地はご本堂の裏手に広がっています。開基である鉄舟居士の墓は墓地の一番奥に堂々とした造りで置かれています。幕末ばやりの昨今、幕府方の主要人物にはあまり取り上げられない鉄舟居士ですが、是非NHK大河ドラマの主人公として、今一度脚光を浴びてほしいと墓前でお願いしてきました。




尚、墓地には前述の三遊亭円朝の墓が鉄舟居士の墓とそれほど離れていない場所に置かれています。

円朝の墓

全生庵の訪問の後、「幕末三舟」と謳われた一人である「高橋泥舟」が眠る谷中の大雄寺へと向かうことにしました。

幕末三舟の一人「高橋泥舟」が眠る谷中大雄寺と周辺の趣きある建物
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上野池之端・三菱創始者岩崎家本邸と無縁坂の古刹「講安寺」

2011年02月18日 13時05分52秒 | 台東区・歴史散策
土佐の地下浪人の階級の家に生まれ、幕末の激動期に下士の身分でありながら土佐藩執政の吉田東洋の下で、甥の後藤象二郎との交友を深めた岩崎弥太郎は当時としては先進的な「武家の商法」をいち早く取り入れた逸材だったのです。

龍馬が設立した亀山社中は土佐藩肝いりの土佐商会が一緒になって海援隊となっていくのですが、土佐商会は後藤象二郎の放漫経営で大赤字。そんな時に、土佐藩内では「土佐商会の救済には岩崎弥太郎以外に、この任に当たるべきものなし」といわれるほど、弥太郎は経営感覚を身に付けていたのです。

龍馬が殺され、海援隊は鳥羽・伏見の戦いの後に解散するのですが、その事後処理も土佐商会を任された弥太郎が引き受けたのです。

維新後、後藤象二郎が大阪府知事になるや弥太郎も大阪に移り、明治3年(1870)に「大阪土佐商会」の運営を任されます。この時点で土佐商会は民営的経営へと移行し、社名も「九十九商会」となります。

九十九商会は土佐藩から汽船4隻を借り入れて「海運業」を始めますが、この船を借りっぱなしのまま明治6年(1873)に完全な民営会社「三菱商会」へと移行します。

その後の三菱商会は明治新政府の国策と密接に絡みながら、日本の海運を独占する財閥へと成長していったのです。

旧岩崎邸洋館正面

そんな大財閥となった岩崎家は江戸時代の大名家の庭園を買い取り、私邸や三菱商会の厚生施設に造り変えています。都内に残る代表的な岩崎家のお屋敷や庭園は六義園と清澄庭園そして上野池之端の旧岩崎邸なのです。

冬晴れのこの日、久しぶりに上野池之端の旧岩崎邸を訪れました。江戸時代には、越後高田藩榊原家の中屋敷だったところです。正門を入り、木々の間から木漏れ日が射すなだらかな坂道を進むとすぐに旧岩崎邸の洋館正面に出てきます。



洋館正面の車寄せ広場には椰子の木が植えられ、異国情緒を漂わす洋館と妙にマッチしています。邸内へは靴を脱いで、備え付けのビニール袋に靴を入れて持ちながらの見学です。寒い冬の日の邸内見学は絨毯が敷かれているにもかかわらず、足元から冷えがじわじわと伝わってきます。



邸内の見学は順路に従って1階と2階を巡っていきます。邸内の写真撮影は禁止されているので画像がありませんが、当時の岩崎家の栄華を偲ばせる贅沢なインテリアはいつ見ても目を見張るものがあります。
足元からの冷えを我慢しながら1階から2階へと移動すると、やっと外光が降り注ぐベランダに出ることができます。燦燦と降り注ぐ陽射しを受けながら、しばしベランダで暖をとる始末。ベランダからは広々とした園内を俯瞰できます。

このあと2階から1階へと移動し、隣接する和館の廊下を進みます。和館には喫茶室があるのですが、暖房もなく冷えきった空気の中でお茶や菓子を食べるという気持ちの余裕はありませんでした。
※冬季の訪問の際には、厚手の靴下を持参されることをお薦めいたします。

和館

和館を退出して冬日射す園内を散策しながら和館や洋館の外観をゆっくりと鑑賞しました。ジョサイア・コンドルが設計し、明治29年(1896)に完成した洋館は全体的にイギリス・ルネサンス様式で洋館南側は列柱を持つベランダが設けられています。1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾を持ち、米国・ペンシルべニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられているとのことです。庭の一角に大名庭園の名残りを感じさせる巨大な灯籠が一基置かれています。

 
 


園内の端には三角屋根を持つ撞球室(ビリヤード)が別棟で置かれています。この建物もジョサイア・コンドルが設計したものですが、一見すると西部劇に登場するファームハウスに似ています。

撞球室
撞球室内部

洋館前の広場の脇に袖塀(そでべい)が残っています。袖塀には岩崎家の家紋の「三階菱」が描かれています。そもそも海援隊のマークは土佐藩の紋所である「三つ柏」によったものだったのですが、弥太郎はその柏の部分を自らの家紋「三階菱」に入れ替えたのです。これが現在の三菱の社章スリー・ダイヤのマークの誕生の謂れです。

袖塀

旧岩崎邸の塀沿いに伸びる坂は「無縁坂」と呼ばれています。命名の由来は「さだまさし」が名付け親ではなく、坂の上に「無縁寺」があることからなのですが、現在の無縁坂は瀟洒なコンドミニアムが並ぶ閑静な住宅地となっています。この無縁坂の途中に小さいながらも古い歴史を持つ古刹が静かな佇まいを見せています。

講安寺山門


黒門の山門を持つ講安寺は将軍徳川家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方が明治5年77歳で亡くなるまで住んでいたそうです。溶姫は前田家12代藩主前田斉泰公に嫁いだ方です。その輿入れの際に前田家に建てられたのがあの東大の「赤門」なのです。ここ池之端からはかつての加賀前田家の上屋敷までは目と鼻の先の距離です。そんな立地にある講安寺ゆえ、お美代の方は可愛い娘が嫁いだ前田家に近いこの場所を選んだのではないでしょうか?

講安寺の本堂は、外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りが特徴です。「火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵」とのことです。建造から300年経った今も健在なのはこの土蔵造りのお陰なのです。



小さな境内は訪れる人もなく、無縁坂の響きと相まって静かな空気が流れていました。

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お江戸淺草歳の市~お江戸の風情「羽子板市」の賑わい~【淺草浅草寺境内】

2010年12月17日 17時35分49秒 | 台東区・歴史散策
師走の風物詩とも言える行事が今日17日から淺草浅草寺境内で始まりました。年の瀬の冷たい風が吹く中で、真っ青な冬晴れの空のもと、恒例の「羽子板市」が賑やかに開催されています。

雷門前の賑わい

今日から19日までの3日間行われる羽子板市の歴史は古く、お江戸の時代の万治元年(1659)に始まったと言われています。万治元年はあの明暦の大火(1657)の2年後のこと。大災害からやっと復興なった頃で、併せてお江戸の府内に初めて架橋した「両国橋」が完成した年です。
そんなこともあって、当時は大火のあとの復興記念又は両国橋の完成記念を祝って、翌年の家内安全、五穀豊穣を祈念して「羽子板市」が開催されたのではないでしょうか。

当時は花鳥風月や殿上人、左義長(悪魔を払う正月の儀式)を描いた羽子板が主流で、その後、江戸時代後期になると歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵を用いて取りつけるようになり、その技法が今に至っています。

雷門から淺草の代名詞「仲見世通り」へ入ると、人、人、人の大賑わい。やはり外国人旅行者の数がはんぱじゃない。仲見世の店先にはお正月のお目出たい飾り付けが施され、師走の雰囲気を盛りだてています。
真っ青な空を背景にお正月らしい飾り付けが映えています。

 
 


宝蔵門まで人ごみの中をゆっくりと進み、目の前に浅草寺本堂が見えてきます。本堂前もこれまた多くの参詣客で賑わっています。

宝蔵門前までの賑わい
宝蔵門
浅草寺本堂

そして宝蔵門をくぐり、左手に並ぶのが羽子板市の座敷店です。どの店にも色とりどりの華やかな羽子板が並び、艶やかさを競っています。あちらこちらの店から商談なった景気のいい手拍子が聞こえ、さすがお江戸の粋な世界が繰り広げられています。

 
 
 


数ある羽子板の中でも、今年は例の「海老蔵事件」のためか、「助六」を描いた羽子板には海老蔵を揶揄した文言が張られ、笑いをとっていました。また、今年の人気ドラマであった「龍馬伝」をモチーフとして羽子板が結構多く並んでいました。

この不景気の最中、いずれの羽子板もかなり値のはるものばかりですが、それでも高価な羽子板が売れていく様を見ると、「あるところにはあるんだな~」と一人感心する次第です。私自信、買うつもりはまったくないのですが、もし買ってかえったら、女房に何を言われるかと思うと絶対に手が出ない代物です。

雷門

帰路、仲見世通りから吾妻橋袂へと抜け、例のスカイツリーを拝みにいきました。今日も少し背が高くなっているような気がします。

吾妻橋袂からスカイツリー遠望

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お江戸といったら浅草、浅草といったら今や人種のるつぼの国際的観光地【何度来ても飽きない浅草】

2010年11月20日 16時43分45秒 | 台東区・歴史散策
お江戸の風情を残すさまざまな名所、名跡をとりあげてきた私のブログではありますが、浅草だけがスコーンと抜けていたのです。とは言っても、浅草を紹介する切り口があまりに多岐にわたり、掴みどころがないことが悩みの種でございまして、これまでブログに登場することがなかったのです。本日は淺草街区の紹介第一弾ということで、徒然なるままに書き連ねてみました。

下町を代表する大観光地「浅草」には、あのスカイツリーへのアクセス拠点としてここ最近これまでに増してたくさんの人が訪れているようです。雷門の前ではさまざまな言語が飛び交い、ここは一体どこの国なのかと戸惑うくらい賑やかな光景を呈しています。

色とりどりの小さなお店が軒を連ねる「仲見世通り」はそれこそ芋洗い状態の人出で賑わい見せています。きっとお江戸の時代にも同じような光景が繰り広げられていたのではないかと想いを馳せながら、その賑わいを楽しめるのが仲見世通りです。江戸の川柳で「仲見世は お六どこやに 聞き飽きる」と詠われたように、お江戸の時代に茶屋の看板娘お六を探しまわるたくさんの庶民の姿が、仲見世を歩いていると頭によぎってくるのです。

そこでお江戸の時代から今に伝わる伝統的なからくり玩具「どんだりはねたり」が仲見世で売っているのを先日見つけました。お江戸の文化を調べているうちに、この「とんだりはねたり」の絵柄を見たのですが、実物がどういうものだかは分からなかったのです。そこで浅草なら、ということで仲見世通りの江戸玩具を扱う店に行ってみることにしました。確かにありました。

とんだりはねたり玩具

仲見世通りを雷門から進んで、そろそろ通りが終わる右側の小さなお店「助六」には江戸時代の可愛らしい玩具が並んでいます。「とんだりはねたり」は竹の台座の上に被り物をかぶった人形が置かれ、バネの力で人形が跳ね上がると、その勢いで被り物も飛びはねて、中から人形が顔をだす」というからくり人形です。この仕草を見て、笑い転げるといったものではないのですが、デジタル化された現代のおもちゃに比べ、なんともアナログチックな素朴さを感じる逸品ではないかと思います。ただちょっと値段が高いので購入は諦めました。

浅草にはいくつもの「通り」がまるで碁盤の目のように縦横に走っています。仲見世通りはその代表的な通りなのですが、私が好きな通りの一つに「伝法院通り」があります。

仲見世側から見た伝法院通り

仲見世通りの途中から左へはいる道なのですが、この通りの両側にはお江戸の町並を再現したかのような造りのお店や、戦後の闇市のような佇まいをみせる屋台の店などが並び、なんでもありの浅草を象徴しているかのような雰囲気が感じられるのです。

伝法院通りの店

かつてお江戸の時代にはこの辺りに「二十間茶屋」が並んでいたらしいのですが、明和の三大美人の一人で水茶屋『蔦屋』の「お芳」や宝暦の美人・櫛巻のお六がいた場所なのです。

そして伝法院山門前の角にあるのが浅草公会堂ですが、この建物の前には昭和を飾ったスター達の「手形」が埋め込まれているんです。米国ハリウッドのグローマンズ・チャイニーズシアター前のものを真似たものなのでしょう。平成生まれの若い方にはそれほど馴染みがないスターが多いかもしれませんが、昭和生まれの私にとってはそれはそれは懐かしいスターの手形が並び、ついスターの手形に自分の手を重ねてしまいます。

伝法院門前
ビートたけしの手形

伝法院通りを抜けて、これまた浅草らしいホルモン通り、そして場末の演芸劇場が並ぶ奧山通りへと進むと、浅草寺本堂と五重塔、宝蔵門が目の前に現れてきます。
やはり淺草の象徴はこの3つの建物でしょう。ご本堂の屋根はチタン製の瓦に葺き替えられ堂々とした姿を見せています。そしてこれまた堂々とした居ずまいの宝蔵門と美しい五重塔が見る者を圧倒するかのように迎えてくれます。

宝蔵門
五重塔
浅草寺ご本堂

また正観音とは切っても切れない「三社様」も忘れてはならない存在です。浅草寺ご本堂のちょうど右手奥に置かれている「三社様」にも是非参詣されてください。

三社様鳥居
三社様狛犬

三社様の鳥居を出て、左へ進むと二天門。もともとは浅草寺境内に建立された東照宮の随身門だったもので、国の重要文化財に指定されています。

東照宮の石橋
二天門

お江戸の時代には、吉原への道筋を教えるのにこんな風に言われていました。「二天門出ては左、左へ大門へ」
これは二天門を出るとすぐに馬道。馬道を左へ進み、そして土手八丁に付き当たり、それを左へ行くと見返り柳が見えてくる。といった具合に道筋を教えてくれたのです。

まあ、本日のところはこのへんでお開きにしたいと思います。また近いうちに淺草の裏話を紹介いたしましょう。

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お江戸今戸の聖天様は「娘の拝む神でなし」の意味【浅草猿若・日本三大聖天待乳山】

2010年11月19日 11時44分03秒 | 台東区・歴史散策
日本三大聖天とは、熊谷市の妻沼聖天と浅草の待乳山聖天 と奈良県の生駒聖天の3ヶ寺であると言われてます。そして関東三大聖天なるものもあるんですね。関東では前述の妻沼聖天と平井聖天そして今戸の待乳山聖天であると言われています。

お江戸の時代の庶民の人気の遊山地を調べていると、まず出てくるのが「隅田川」です。長谷川雪旦(せったん)による絵画「江戸名所図会」の中には53の小見出で隅田川沿いの各地を紹介しています。そしてこの江戸名所図会を編纂を行ったのは斉藤月岑(げっしん)で、彼の書いた小見出しでは吾妻橋から千住大橋までの上流部分について、隅田川そのものを名所と考えていたことがうかがえます。
そして月岑のかいた日記「斉藤月岑日記」の中で記述された江戸の名所としてもっとも多く登場するのが、浅草寺と待乳山聖天への参詣です。

山門

さて今日のお題「浅草猿若・日本三大聖天待乳山」ですが、ご本尊の聖天さまは「歓喜天」とも呼ばれ、お姿は象頭人身で男女2体の像が抱擁しているという特異なものなのです。このため男女の秘め事を連想させる故に、お江戸の時代には「聖天は娘の拝む神でなし」と川柳に詠まれているくらいです。

しかしこの場所はあのお江戸の桃源郷「新吉原」の入口にあたり、大川端から猪牙船にのって今戸橋にやってきた旦那衆は、この場所で船を下り、土手八丁を徒歩で吉原大門を目指したのです。その際に、男女和合の聖天様に今宵の首尾の願掛けを心の中で祈っていたと言われています。

浅草裏にあたるこの辺りは浅草寺界隈の賑わいはまったく感じない閑静な土地柄です。墨堤を下り道を隔てたところに聖天様の山門が見えてきます。山門を入ると深閑とした佇まいのお庭が現れます。それほど広い庭ではないのですが、なにやら聖天様への願掛けの前に「心静めよ」と訴えかけられるような雰囲気を醸し出しています。

庭園

お庭からは奥の石壇にそって続く築地塀に沿って高台に置かれているご本堂へと行く事ができるのですが、私はいったんお庭を退出し、右へ進んだ階段を登る事にしました。
この階段に沿って趣ある築地塀が続いています。江戸時代の名残を今に伝えるもので、全長二十五間(約45m)に渡って続いています。

築地塀

実はこの聖天様のシンボルは「大根」と「巾着」なのですが、大根は身体を丈夫にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護するという功徳を表しているといいます。一方、巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益が大きいことを示したものと言われています。
このため、境内の至る所に大根と巾着のレリーフやそれを形どった置物が目に飛び込んできます。

階段に彫られた大根
同じく巾着

特に大根のモチーフはまさに男女和合をシンボライズしているかのように、二股の大根が交差しているというなんとも意味ありげなものまであるんですね。男女の性をおおらかに表現するなんとも楽しい聖天様です。
余談ですが、この聖天さまはもともとインドのヒンドゥ教の絶対神「ガネーシュ」にあたり、「産めや増やせよ」を標榜するヒンドゥーの教えからすれば、さして不思議ではないのかもしれません。
かつてインドを旅した時にヒンドゥ寺院を訪れると、例外なく寺院に置かれていたのが男根と女陰を形どったリンガとヨーニ。更にはカジュラホの寺院群の壁面にはなんと男女和合の姿が写実的に彫られている有様。まあ~、これに比べれば聖天様のシンボルはそれほど刺激的ではありませんが……。

こんなことはどうでもいいのですが、
本堂へと向かう階段にも大根と巾着のレリーフが施されています。階段を上り左手にはお地蔵さまが沢山並んでいます。歓喜地蔵尊と呼ばれています。古くから「子育て地蔵」として伝授され、霊顕あらかたな尊として信仰されています。

歓喜地蔵尊

そして少し歩を進めると右手に台座に置かれ見上げるように祀られているのが「出世観音像」です。昭和11年の境内整地の時に、頭の部分だけ出土し、ここに再建したことが伝えられています。足利末期(千六百年頃)の作と鑑定された学業・芸道に志す者の尊信をあつめています。

出世観音像

最後にご本堂に到着。このご本堂の至る所に「大根」と「巾着」があしらわれています。本堂内を覗くと生の大根が山積みになって備えられていました。

本堂

ご本堂は一番高い場所に置かれています。ここから眺める風情は今でこそ、周辺には高層のビルが立ち並び、更には隅田川の堤防が邪魔をして、かつて「隅田川の名所」と謳われた風向明媚な装いはまったく感じられませんでした。

錦繍の隅田墨堤秋巡り~三囲社・待乳山聖天・時の鐘~
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