お江戸の文化を語る中で、良い悪いは別として避けて通れない場所が「吉原」なのですが、これまで当ブログで取り上げた記事中に度々「旧吉原と新吉原」に関わるは話題を補足的にさまざま記述してきました。
そうであればこの際、吉原(現在は吉原という地名はありません)に焦点をあてて詳しく紹介してみようと取材を試みました。歴史散策を目的にこの地を訪れても、かつての妓楼や揚屋の建物、そして吉原の傾城全体を囲んでいた「おはぐろどぶ」も忘却の彼方へ消え去り、その昔、この場所が江戸っ子、いや全国的に名を馳せた桃源郷であったことを偲ばせるものがほとんどないことを予め申し上げておきます。
それでは「吉原」の歴史を紐解いてみましょう。
そもそも吉原の始まりは、浅草裏ではなく現在の日本橋・人形町に元和4年(1618)11月から遊女屋17軒、揚屋24軒で営業が開始されたのです。この人形町に傾城町を作ったのが「庄司甚右衛門」なる御仁です。先見の明があった御仁と言えば確かにそうかもしれませんが、実は甚右衛門が傾城町を作る下地が当時の江戸にあったのです。
天正18年(1590)8月1日(八朔の日)、小田原北条氏を滅ぼした後に関八州を任されることになった家康公が江戸に初入府してから、それまで江戸湾に面した寒村に過ぎなかった江戸はこの日を境に一変していきます。関ヶ原合戦後、開幕を経て家康公は文化の中心を京から江戸へと移すため、将軍家の居城である江戸城の普請を精力的に推し進めていきます。
この普請には日本全国の諸大名が将軍家のために、資材はもちろんのこと多くの労役を提供したのですが、その労役を担ったのがほとんどが「男性」であったことで、遅かれ早かれ江戸の各地に娼館ができるのは自然の成り行きだったのです。
これに目をつけたのが「庄司甚右衛門」だったのですが、甚右衛門は慶長10年頃(1605)にはすでに江戸市中で遊女屋を営んでいたのです。この時期、甚右衛門の遊女屋以外にも江戸には散在していたのですが、幕府は江戸城増築を理由に遊女屋の移転を命令を出します。これを好機と見た多くの遊女屋ははじめて幕府に対して公許遊郭の創設を請願しましたが、このときは不許可となっています。その後、慶長17年(1612)にも同様の請願をしていますが、これも却下となります。そして元和2年(1616)に家康公が亡くなった翌年の元和3年(1617)にやっと公許遊郭の陳述が幕府に取り上げられ、条件を受け入れる代わりにめでたく公許の傾城町が誕生することになります。
幕府はこの傾城町のために現在の日本橋・人形町界隈の葦が生い茂る湿地帯を提供するのですが、手を加えなければとても使える土地ではなかったのです。甚右衛門をはじめとする遊女屋たちは1年余りかけて土地の整備を終え、元和4年(1618)11月に目出度く江戸唯一の幕府公認の遊里として営業開始にこぎつけたのです。
「吉原」の名の由来は、この場所が一面の葭(よし)の原で「葭原」と呼ばれていたのを、寛永3年(1626)に葭を「吉」に変えて「吉原」にしたという説が一つ、別に葦の茂る野原であることから「葦の原」、これが転じて「悪の原」では縁起が悪いということで「悪」を「吉」に変えて「吉原」にしたとも言われています。
しかしここ人形町の吉原はわずか40年余りで幕を閉じてしまいます。というのはあの江戸の大火で有名な明暦の大火により吉原は全焼してしまいます。この年、明暦3年(1657)の頃の江戸の町はほぼ完成し、江戸城を中心に武家地、寺社地、町屋が整然と区分けされ、特に人形町界隈は武家地として整備されていました。そんな武家地に近い場所に「悪所」と呼ばれる遊里があることに快く思っていなかった幕府は、この大火を機会に吉原をもっと江戸の端っこへ追いやることを目論んで、吉原の名主に隅田川の東の本所か浅草寺の裏の田圃のど真ん中への移転を命じたのです。
吉原の名主は幕府の命令に思案するのです。この当時はまだ両国橋が完成していないので、本所はとても不便であるということで、同じ地続きの浅草裏の田圃のほうがまだましであるという考えでしぶしぶ了承した場所こそ現在の「吉原」なのです。これが新吉原となるのですが、便宜上、それまでの日本橋の吉原は「元吉原」と呼ばれるようになったのです。この新吉原が本格営業を始めたのは明暦3年(1657)の8月からと言われています。
さて、この浅草裏手の田圃にできた新吉原への登楼の方法は主に4つで、裕福なものは舟、駕籠、馬を利用したのですが、一般の人たちは「徒歩」での通いだったのです。現在でも浅草に「馬道」という名が残っていますが、馬に乗って吉原に通った道の名残りなのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/58/82b9f5a755ec92b94394537a476d5cd0.jpg)
一方、舟での通いの場合のルートとしては、一般的に浅草橋、柳橋界隈の船宿から隅田川(大川)を遡り、「竹屋の渡し」があった今戸から山谷堀に漕ぎいれ、俗に言う「土手八町」の終点である大門口へ至るのです。
今戸橋
かつての山谷堀は今はなく、流れていた川は暗渠となり現在はその跡地は緑濃い細長い公園に姿を変えています。緑道を進むと一つの句碑が立っています。
山谷堀公園
正岡子規が詠んだ「牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな」が刻まれています。
正岡子規の句碑
この「牡丹」はおそらく遊郭の女郎の名前ではないでしょうか。身請けし晴れて大門を抜け自由の身となった女郎「牡丹」を載せた小舟が山谷堀を進み今戸口へ向かっている様子を詠ったものなのでしょう。
緑道を進むと、かつてこの山谷堀に架かっていた小さな橋の橋柱がそのまま残っています。そんな橋柱の中に「紙洗橋」と刻まれた橋柱を見つけました。実はかつて山谷堀にそって「紙漉き屋」が店を構えており、特に使い古しの和紙を漉きなおしして再生紙をつくっていました。こんなことから紙を漉く店、すなわち紙を洗う店があった場所に架かっていたので「紙洗橋」と名付けられたのでしょう。
紙洗橋の橋柱
ところで紙を漉くときに古紙をいったん煮詰め、どろどろに溶かさなければなりません。そしていま一度漉くまでに「冷やかさなければ」ならないのだそうです。これがお店で買うこともなく、ただ見るだけのことを「ひやかし」と言う語源になったといいます。というのは、山谷堀の紙漉き屋の職人たちが、紙を冷やしている間に吉原妓楼の張見世前によく掛けていたといいます。遊ぶ金もない職人たちはただみるだけで買おうともしません。そこで女郎たちはどうして買わないのか?と職人たちに聞くと、「俺たちは紙漉きやの職人で、いま紙を冷やかしている時間を利用して見にきているだけなんだ」と。今、私たちがよく使う「ひやかしで…を見る」という言葉はここからきているのです。
さて、かつての吉原遊郭へはたった一つの入口しかありませんでした。どの通い方であっても必ず導かれる入口が「大門」と呼ばれる入口です。その大門は日本堤と呼ばれる街道筋から少し入ったところに構えているのですが、この日本堤に吉原を代表する名所が残っています。
見返柳碑
見返り柳
それは一夜を吉原で過ごした客が大門を出て現実の世界へ戻っていくとき、さまざまな思いを胸に込めて吉原を振り返ると、そこに一本の柳の木が。まるで一夜を一緒に過ごした遊女が別れを惜しんで手を振っているかのように枝を揺らす柳の木。それが「見返り柳」なのです。今見ることができる「見返り柳」は7代目ということですが、柳の木の根元には「見返り柳」の石碑がもの言わぬ歴史の証人のように静かに佇んでいます。
この見返り柳から吉原の正門である「大門」へと道が続いているのですが、当時から見返り柳がある土手道(日本堤)から大門が直接見えないように道が三曲がりになっており、現在でもその通りにS字型に道が湾曲しています。これは将軍が鷹狩りや日光への参詣の際に吉原遊郭のシンボルである大門が見えては恐れ多いとの配慮からこのような道の作り方になったといいます。
衣紋坂
見返り柳から最初のカーブはかつて「衣紋坂」と呼ばれ、遊客が遊女と会うために着物の衣紋を直しながら下ったことに因んでいます。そして衣紋坂を下るとかつての「五十間道」へとさしかかります。その名のとおり道の距離が50間あったからという説と、この道に沿って編笠茶屋が50軒並んでいたからとも。
五十間道
この五十間を過ぎると、大門は目と鼻の先。その入口を示すように現在でも大門を模した門柱が立っています。ここがかつての吉原遊郭の唯一の出入り口「大門」があった場所なのです。江戸時代にはこの大門を入った左側に町奉行所配下の番所、右側には吉原側が運営した「四郎兵衛番所」が置かれていました。現在は大門手前の右側に交番が置かれています。
現在の大門
現在の大門
大門を抜けると、そこはかつて吉原遊郭のど真ん中を走る中央大通り「仲之町」。大門を入った右側には一流の茶屋が七軒並び、俗に「七軒茶屋」と呼ばれていました。大見世に行くためには必ず茶屋を通さなければならなかったのですが、上客はこの茶屋を通じ、花魁を指名し、指名された花魁はこの茶屋まで客を迎えにくるのですが、この迎えにいく風景が吉原の「花魁道中」なのです。
そんな世界が繰り広げられていた現在の仲之町には現代の遊郭であるソープランドが派手な色使いの建物が軒を連ねています。
現在の仲之町
仲之町は大門からかつて水道尻(みとじり)と呼ばれ、遊郭のどんつきとなっていた場所まで真っ直ぐに延びています。このかつての水道尻があったそばにあるのが吉原神社です。
吉原神社
社殿
明暦3年に浅草裏に移ってきた吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られていました。この五社が明治5年に合祀され「吉原神社」として創建されたのがその起源です。
鳥居の左側に鎮座する狛犬の目に赤い石、そして右側の狛犬には透明の石が嵌め込まれているのに気がつきましたが、なぜ色のついた石が嵌め込まれているかの理由は定かではありません。
赤目の狛犬
吉原神社を辞して、吉原弁財天へ進んでいきましょう。吉原弁財天には大正12年の関東大震災で亡くなった吉原の遊女の方々を供養するために造られました。当時、この辺りには湿地が多く、池が多く点在していました。震災の際にその火炎から逃れるために多くの遊女たちがこの池に飛び込んで、溺死したということからこの場所に弁財天を祀り、亡くなった遊女の方々を供養しています。その供養塔が境内の真ん中に置かれています。
吉原弁財天
弁財天祠
震災供養塔
境内を囲む玉垣には当時有名な吉原の妓楼の屋号と主の名前が刻まれていることから、亡くなった遊女がこれら妓楼に属していたことがわかります。境内には江戸時代に吉原遊郭を作った代表的人物である「庄司甚衛門の碑」と「花の吉原名残の碑」が並んで置かれています。
妓楼三浦屋
妓楼角海老楼
庄司甚衛門の碑
それではかつての遊郭を囲んでいた「おはぐろどぶ」の痕跡を見つけにいきましょう。とはいっても「どぶ」がそのままの姿で残っているわけではありません。かつての「どぶ(堀)」はすべて舗装道路に姿を変えています。ただ1ヶ所だけ、かつて遊郭からドブ(堀)につながる石段があったと思われる段差が残っていました。下の写真の階段上は吉原公園になっています。この吉原公園のある位置がかつての遊郭の建物があった位置で、そして階段を下りきった位置に「おはぐろどぶ(堀)」があったのではと推測いたしました。
石段下が「おはぐろどぶ」
現在の吉原(千束という町名に変わっています)は、確かに風俗営業のお店が並ぶ場所に住宅街が隣接する奇妙な場所です。だからといって一大繁華街といったギンギン、ギラギラの町でもないのです。冒頭で申し上げたように、かつての吉原を感じる歴史的建造物も歴史的な佇まいが残っているわけでもありません。ただ娑婆から隔離されたように堀で囲まれた区画が現在も生きつづけていることが、僅かながらかつての吉原を感じる唯一のものといっていいでしょう。
吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~
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そうであればこの際、吉原(現在は吉原という地名はありません)に焦点をあてて詳しく紹介してみようと取材を試みました。歴史散策を目的にこの地を訪れても、かつての妓楼や揚屋の建物、そして吉原の傾城全体を囲んでいた「おはぐろどぶ」も忘却の彼方へ消え去り、その昔、この場所が江戸っ子、いや全国的に名を馳せた桃源郷であったことを偲ばせるものがほとんどないことを予め申し上げておきます。
それでは「吉原」の歴史を紐解いてみましょう。
そもそも吉原の始まりは、浅草裏ではなく現在の日本橋・人形町に元和4年(1618)11月から遊女屋17軒、揚屋24軒で営業が開始されたのです。この人形町に傾城町を作ったのが「庄司甚右衛門」なる御仁です。先見の明があった御仁と言えば確かにそうかもしれませんが、実は甚右衛門が傾城町を作る下地が当時の江戸にあったのです。
天正18年(1590)8月1日(八朔の日)、小田原北条氏を滅ぼした後に関八州を任されることになった家康公が江戸に初入府してから、それまで江戸湾に面した寒村に過ぎなかった江戸はこの日を境に一変していきます。関ヶ原合戦後、開幕を経て家康公は文化の中心を京から江戸へと移すため、将軍家の居城である江戸城の普請を精力的に推し進めていきます。
この普請には日本全国の諸大名が将軍家のために、資材はもちろんのこと多くの労役を提供したのですが、その労役を担ったのがほとんどが「男性」であったことで、遅かれ早かれ江戸の各地に娼館ができるのは自然の成り行きだったのです。
これに目をつけたのが「庄司甚右衛門」だったのですが、甚右衛門は慶長10年頃(1605)にはすでに江戸市中で遊女屋を営んでいたのです。この時期、甚右衛門の遊女屋以外にも江戸には散在していたのですが、幕府は江戸城増築を理由に遊女屋の移転を命令を出します。これを好機と見た多くの遊女屋ははじめて幕府に対して公許遊郭の創設を請願しましたが、このときは不許可となっています。その後、慶長17年(1612)にも同様の請願をしていますが、これも却下となります。そして元和2年(1616)に家康公が亡くなった翌年の元和3年(1617)にやっと公許遊郭の陳述が幕府に取り上げられ、条件を受け入れる代わりにめでたく公許の傾城町が誕生することになります。
幕府はこの傾城町のために現在の日本橋・人形町界隈の葦が生い茂る湿地帯を提供するのですが、手を加えなければとても使える土地ではなかったのです。甚右衛門をはじめとする遊女屋たちは1年余りかけて土地の整備を終え、元和4年(1618)11月に目出度く江戸唯一の幕府公認の遊里として営業開始にこぎつけたのです。
「吉原」の名の由来は、この場所が一面の葭(よし)の原で「葭原」と呼ばれていたのを、寛永3年(1626)に葭を「吉」に変えて「吉原」にしたという説が一つ、別に葦の茂る野原であることから「葦の原」、これが転じて「悪の原」では縁起が悪いということで「悪」を「吉」に変えて「吉原」にしたとも言われています。
しかしここ人形町の吉原はわずか40年余りで幕を閉じてしまいます。というのはあの江戸の大火で有名な明暦の大火により吉原は全焼してしまいます。この年、明暦3年(1657)の頃の江戸の町はほぼ完成し、江戸城を中心に武家地、寺社地、町屋が整然と区分けされ、特に人形町界隈は武家地として整備されていました。そんな武家地に近い場所に「悪所」と呼ばれる遊里があることに快く思っていなかった幕府は、この大火を機会に吉原をもっと江戸の端っこへ追いやることを目論んで、吉原の名主に隅田川の東の本所か浅草寺の裏の田圃のど真ん中への移転を命じたのです。
吉原の名主は幕府の命令に思案するのです。この当時はまだ両国橋が完成していないので、本所はとても不便であるということで、同じ地続きの浅草裏の田圃のほうがまだましであるという考えでしぶしぶ了承した場所こそ現在の「吉原」なのです。これが新吉原となるのですが、便宜上、それまでの日本橋の吉原は「元吉原」と呼ばれるようになったのです。この新吉原が本格営業を始めたのは明暦3年(1657)の8月からと言われています。
さて、この浅草裏手の田圃にできた新吉原への登楼の方法は主に4つで、裕福なものは舟、駕籠、馬を利用したのですが、一般の人たちは「徒歩」での通いだったのです。現在でも浅草に「馬道」という名が残っていますが、馬に乗って吉原に通った道の名残りなのです。
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一方、舟での通いの場合のルートとしては、一般的に浅草橋、柳橋界隈の船宿から隅田川(大川)を遡り、「竹屋の渡し」があった今戸から山谷堀に漕ぎいれ、俗に言う「土手八町」の終点である大門口へ至るのです。
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かつての山谷堀は今はなく、流れていた川は暗渠となり現在はその跡地は緑濃い細長い公園に姿を変えています。緑道を進むと一つの句碑が立っています。
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正岡子規が詠んだ「牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな」が刻まれています。
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この「牡丹」はおそらく遊郭の女郎の名前ではないでしょうか。身請けし晴れて大門を抜け自由の身となった女郎「牡丹」を載せた小舟が山谷堀を進み今戸口へ向かっている様子を詠ったものなのでしょう。
緑道を進むと、かつてこの山谷堀に架かっていた小さな橋の橋柱がそのまま残っています。そんな橋柱の中に「紙洗橋」と刻まれた橋柱を見つけました。実はかつて山谷堀にそって「紙漉き屋」が店を構えており、特に使い古しの和紙を漉きなおしして再生紙をつくっていました。こんなことから紙を漉く店、すなわち紙を洗う店があった場所に架かっていたので「紙洗橋」と名付けられたのでしょう。
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ところで紙を漉くときに古紙をいったん煮詰め、どろどろに溶かさなければなりません。そしていま一度漉くまでに「冷やかさなければ」ならないのだそうです。これがお店で買うこともなく、ただ見るだけのことを「ひやかし」と言う語源になったといいます。というのは、山谷堀の紙漉き屋の職人たちが、紙を冷やしている間に吉原妓楼の張見世前によく掛けていたといいます。遊ぶ金もない職人たちはただみるだけで買おうともしません。そこで女郎たちはどうして買わないのか?と職人たちに聞くと、「俺たちは紙漉きやの職人で、いま紙を冷やかしている時間を利用して見にきているだけなんだ」と。今、私たちがよく使う「ひやかしで…を見る」という言葉はここからきているのです。
さて、かつての吉原遊郭へはたった一つの入口しかありませんでした。どの通い方であっても必ず導かれる入口が「大門」と呼ばれる入口です。その大門は日本堤と呼ばれる街道筋から少し入ったところに構えているのですが、この日本堤に吉原を代表する名所が残っています。
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それは一夜を吉原で過ごした客が大門を出て現実の世界へ戻っていくとき、さまざまな思いを胸に込めて吉原を振り返ると、そこに一本の柳の木が。まるで一夜を一緒に過ごした遊女が別れを惜しんで手を振っているかのように枝を揺らす柳の木。それが「見返り柳」なのです。今見ることができる「見返り柳」は7代目ということですが、柳の木の根元には「見返り柳」の石碑がもの言わぬ歴史の証人のように静かに佇んでいます。
この見返り柳から吉原の正門である「大門」へと道が続いているのですが、当時から見返り柳がある土手道(日本堤)から大門が直接見えないように道が三曲がりになっており、現在でもその通りにS字型に道が湾曲しています。これは将軍が鷹狩りや日光への参詣の際に吉原遊郭のシンボルである大門が見えては恐れ多いとの配慮からこのような道の作り方になったといいます。
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見返り柳から最初のカーブはかつて「衣紋坂」と呼ばれ、遊客が遊女と会うために着物の衣紋を直しながら下ったことに因んでいます。そして衣紋坂を下るとかつての「五十間道」へとさしかかります。その名のとおり道の距離が50間あったからという説と、この道に沿って編笠茶屋が50軒並んでいたからとも。
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この五十間を過ぎると、大門は目と鼻の先。その入口を示すように現在でも大門を模した門柱が立っています。ここがかつての吉原遊郭の唯一の出入り口「大門」があった場所なのです。江戸時代にはこの大門を入った左側に町奉行所配下の番所、右側には吉原側が運営した「四郎兵衛番所」が置かれていました。現在は大門手前の右側に交番が置かれています。
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大門を抜けると、そこはかつて吉原遊郭のど真ん中を走る中央大通り「仲之町」。大門を入った右側には一流の茶屋が七軒並び、俗に「七軒茶屋」と呼ばれていました。大見世に行くためには必ず茶屋を通さなければならなかったのですが、上客はこの茶屋を通じ、花魁を指名し、指名された花魁はこの茶屋まで客を迎えにくるのですが、この迎えにいく風景が吉原の「花魁道中」なのです。
そんな世界が繰り広げられていた現在の仲之町には現代の遊郭であるソープランドが派手な色使いの建物が軒を連ねています。
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仲之町は大門からかつて水道尻(みとじり)と呼ばれ、遊郭のどんつきとなっていた場所まで真っ直ぐに延びています。このかつての水道尻があったそばにあるのが吉原神社です。
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明暦3年に浅草裏に移ってきた吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られていました。この五社が明治5年に合祀され「吉原神社」として創建されたのがその起源です。
鳥居の左側に鎮座する狛犬の目に赤い石、そして右側の狛犬には透明の石が嵌め込まれているのに気がつきましたが、なぜ色のついた石が嵌め込まれているかの理由は定かではありません。
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吉原神社を辞して、吉原弁財天へ進んでいきましょう。吉原弁財天には大正12年の関東大震災で亡くなった吉原の遊女の方々を供養するために造られました。当時、この辺りには湿地が多く、池が多く点在していました。震災の際にその火炎から逃れるために多くの遊女たちがこの池に飛び込んで、溺死したということからこの場所に弁財天を祀り、亡くなった遊女の方々を供養しています。その供養塔が境内の真ん中に置かれています。
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境内を囲む玉垣には当時有名な吉原の妓楼の屋号と主の名前が刻まれていることから、亡くなった遊女がこれら妓楼に属していたことがわかります。境内には江戸時代に吉原遊郭を作った代表的人物である「庄司甚衛門の碑」と「花の吉原名残の碑」が並んで置かれています。
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それではかつての遊郭を囲んでいた「おはぐろどぶ」の痕跡を見つけにいきましょう。とはいっても「どぶ」がそのままの姿で残っているわけではありません。かつての「どぶ(堀)」はすべて舗装道路に姿を変えています。ただ1ヶ所だけ、かつて遊郭からドブ(堀)につながる石段があったと思われる段差が残っていました。下の写真の階段上は吉原公園になっています。この吉原公園のある位置がかつての遊郭の建物があった位置で、そして階段を下りきった位置に「おはぐろどぶ(堀)」があったのではと推測いたしました。
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現在の吉原(千束という町名に変わっています)は、確かに風俗営業のお店が並ぶ場所に住宅街が隣接する奇妙な場所です。だからといって一大繁華街といったギンギン、ギラギラの町でもないのです。冒頭で申し上げたように、かつての吉原を感じる歴史的建造物も歴史的な佇まいが残っているわけでもありません。ただ娑婆から隔離されたように堀で囲まれた区画が現在も生きつづけていることが、僅かながらかつての吉原を感じる唯一のものといっていいでしょう。
吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~
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