大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

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お江戸幕末・尊皇攘夷の尖兵「梅田雲浜」が眠る海禅寺【台東区・松が谷】

2010年11月08日 17時11分17秒 | 台東区・歴史散策
NHK大河ドラマ「龍馬伝」も終盤を迎え、慶応3年11月17日の龍馬暗殺まで残すところあと僅かのところまで迫ってきました。江戸から明治へと時代が変わるあの大政奉還までの間に、元号は天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応とまるで猫の目が回るように変わっていきました。そんな時代の変遷の中でもとりわけ安政の大獄はその後の尊王運動をさらに激化させる大きな要因となった時期だったのではないでしょうか。

井伊直弼が大老に就任した安政5年には懸案の日米修好通商条約が調印され、併せてもう一つの問題である将軍継嗣が紀州慶福(よしとみ)に決定し、第14代将軍として家茂(いえもち)が宣下されました。
一方、条約調印を朝廷の勅許なく締結したことで、時の天皇である孝明天皇は激怒し、幕府を無視してなんと水戸藩に攘夷の勅諚を降下したのです。
この幕府の面目を失すべき大事件に遭遇した井伊直弼は水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、安政5年(1858)の9月7日に雲浜を捕縛することとなったのです。この梅田雲浜捕縛によって「安政の大獄」の端緒が開かれたのです。その後、橋本佐内、頼三樹三郎そして松下村塾の吉田松蔭が断罪されたのは皆様方はよくご存知のはずです。

この梅田雲浜の墓が台東区松が谷の海禅寺にあるんです。どの辺りか、というと浅草からそれほど離れていない「かっぱ橋商店街」から上野方面に少し入った所なのですが、賑やかな商店街の歩道脇に寺の入口があります。立派な石造りの門柱に「海禅寺」の文字。その門柱の傍らに「梅田雲浜の墓」の説明書が立てられているのですぐにわかります。

海禅寺門柱

門柱から山門まで約50~60m。真新しい山門をくぐると静まり返った境内とご本堂が目の前に。そして左へ進むと墓所が現れます。比較的整備された墓所のちょうど真中あたりに雲浜の墓が置かれています。

海禅寺山門
ご本堂


雲浜は捕縛された後、安政6年(1859)9月14日に小倉藩江戸邸の獄中で病没しました。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久2年(1862)に現存の墓石が建てられました。墓石の前面に「勝倫斎俊巌義居士」と、戒名が刻まれています。

右:梅田雲浜 左:藤井尚弼
雲浜の墓
雲浜の戒名

雲浜の墓の左隣には藤井尚弼なる人物の墓があります。藤井は雲浜同様、尊皇思想に厚く、多くの志士たちと交流したことで知られています。そのために安政5年(1858)の安政の大獄によって捕えられ、翌安政6年(1859)に雲浜同様、江戸小倉藩邸に送致され、その後、重度の脚気に冒されて獄死したと伝えられています。。

尚、千住の小塚原回向院にも雲浜をはじめ幕末に処刑されたり、獄死した志士たちの供養碑があります。機会があれば一度、千住の小塚原回向院にお参りをしたいと考えています。





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