平岡町をゆく(22) 鴨波里(あわわのさと)
『風土記』は奈良時代、元明天皇の命令により、国ごとに産物・伝説などをまとめた当時の地理・歴史書です。
現在、完全な形で残っている風土記は、『出雲風土記(いずもふどき)』だけで、そのでほか常陸(ひたち)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)・播磨(はりま)の風土記が残っているだけです。
『播磨風土記』の「鴨波里」の部分を現代訳で読んでみましょう。
◇鴨波里(あわわのさと)◇
・・・鴨波(あわわの)の名のいわれは、昔、大部造(おおとものみやつこ)たちの始祖、古理売(こりめ)が、この野を耕して、粟を多くまきました。故に(ゆえに)粟々の里(あわわのさと)といいます。・・・
真偽はおいておくとして、鴨波里がどこであったかについては、その存在も含めて、さまざまな議論があります。
ところが、平城宮から、「禾々里(あわわのさと)」と書かれた木簡が出てきて、存在が確かめられました。
それでは、次は「アワワの里はどこか」と言うことですが、加古川市粟津であるとする説、内陸部の加古郡稲美町とする説、木簡にある「蛸」から加古郡播磨町付近から北の地であるとする説などがあります。
ともかく、播磨町から平岡町にかけての地域が「鴨波里」であったことは確かなようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます