お寺さんぽ Ver.03

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興福寺 (奈良)

2006年04月19日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、重文・国宝のひしめく奈良の超・有名寺院「興福寺」です。
ここは古都奈良の文化財で世界登録されているそうで。
さっすが興福寺!


藤原鎌足(ふじわらのかまたり)…って藤原氏の祖は覚えてますか?
あるいは、中臣鎌足(なかとみのかまたり)って、こっちの名前のが分かりやすいですか?
あの中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に「大化の改新」で活躍した人ですよー。
おそらく歴史とかで勉強したのではないか、と思いますがどうでしょう?

その鎌足ん(注:かまたりん)が関係する興福寺。
元々は鎌足んの私邸に建てられたお寺「山階寺」を起源としております。
和銅三年(710)都が奈良平城京へ移されると、鎌足んの息子不比等(ふひと)くんはそれを現在の場所へ移動し、興福寺と名付けたそうです。
(はしょりましたが、実際は一度厩坂に移って「厩坂寺」となっています。その次が上のとおり「興福寺」ですね)

「なんと(710)ステキな平城京」って覚えたでしょ?そのへんの時代の事ですね。

さて、その藤原氏や天皇家の庇護を受けた興福寺は次々に堂塔が建てられ、七堂伽藍の大寺院となりました。
これは見事にお寺の繁栄パターンですよ。
そんなこんなで奈良・平安時代は藤原氏の氏寺として栄え、なんと!鹿でお馴染みの「春日神社」をも支配するなど、勢力を拡大しました。
この時代ではほぼ、大和国の国主のような感じであったそうです。
…なんだか政治ちっくでいやらしい感じですねぇ。

鎌倉・室町時代にも幕府はここに守護を置かず、そのまま興福寺がその任に当たっていたそうです。(置かず、というより置かせなかったんでしょう)
知行にすると、なんと二万一千石だそうで!
…イヤーな感じでしょう?

そんな流れで戦国時代になっても大和国は寺社勢力が強く、非常に支配が難しいとされていました。
(ちなみに、この当時にはだいぶ興福寺の勢力は衰えていたようですが…)
そのため、ここの支配者は神社系の「筒井順慶」とか、教養人として知られる「松永久秀」などでした。

豊臣政権下では、秀吉の弟で温厚誠実な人柄で知られる「羽柴秀長」の支配となりました。
秀長は寺社などの要求を根気良く聞き、平和に治めることに成功しております。
…おっと、寺の説明から離れちゃいましたね。

源平合戦時の兵火や江戸時代の火災、また明治の神仏分離令などで一時はここ廃寺同然にまでなりますが、明治三十年頃からようやく修復が開始され、現在に至っているようです。
(なんと復興以前は奈良公園の一部となっていたんだって。鹿まみれですよ)

とまぁ、長い歴史に色々あった興福寺。
その国宝館は一般公開されており、物凄い重文・国宝の仏像がひしめく現代のパラダイスのようなところです。(※写真参照。あんなのがずらーっと並んでいるんですね)
メチャすごいですよ!おっきくて、かっちょえーですよ!!
……あれ、皆さんついて来てますか?

誰でも一度は見かけたことがあるであろう「国宝・阿修羅像」もココにあります。
生きているうちに是非直接見て欲しい、美しい像です。
きっと貴方も仏像の虜になるでしょう!


[住所] 興福寺 奈良市登大路町48

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※どうすか、”魅惑の仏像”ですよ!

魅惑の仏像 阿修羅―奈良・興福寺

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