お寺さんぽ Ver.03

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関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)

2006年04月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は関東(鎌倉)公方と関東管領についてです。

また室町時代なんであちこち複雑でしんどいですが、ネタで「北条早雲」をやりたい
ので先に説明しておこうと思いました。
だって、早雲の文中にコレ入れたらものすごーく長くなっちゃうんだもん。
まぁ、それに戦国時代が好きな人も「ある程度聞くけどよくわからん」という方多いと
思うので。
ひでるさんの頭を経由した時点で間違えなどがあるかもしれませんが、だいたいこん
なんな筈です。
…という訳で前置き長くなりましたが、どうぞ。

関東公方は室町幕府が関東の出先機関として鎌倉に設置したものです。「鎌倉」は
前に幕府開かれていた重要拠点ですからね。
役職的には「鎌倉御所」といい、留守となる鎌倉を将軍の代理として守るのが本来の
意味合いでした。(※ちなみに、これが九州だと「九州探題」になります)
でね、その公方さまを補佐する役職が「関東管領」です。
これ当初は二人体制で斯波・畠山などの家が交替で職に関わっていましたが、いつ
しか上杉家の独占・世襲となっていました。
ちなみに、管領の任命権はなぜか、というかやはり、京都の幕府が握っていました。
混乱の原因のひとつですね。

以上、基本的にはそういった目的で設置されていたんですが、これがまた代を重ねる
ごとに京都幕府・関東公方・関東管領という三者の関係は急速に冷え込み、いつしか
対立するまでになっていました。
四代関東公方「足利持氏」は幕府(当時はくじびき当選した六代足利義教)と対立し、
さらに補佐するべき管領「上杉憲実」とも対立した結果、争いが勃発。
持氏は敗れて自害すると、関東公方は一時断絶となります。
これが「永享の乱」(えいきょうのらん)です。

後に持氏の子足利成氏が幕府から御所就任を許されて復活。ですが、この成氏も管領家
や幕府と対立をし、本拠を下総国古河へ移しました。
これが「古河公方」

また、八代義政将軍は関東で暴れる先に紹介↑しました「足利成氏」の対抗馬として弟の
「足利政知」を”幕府お墨付き・関東公方”としてちゃっかり下向させますが、これが関東で
激しい抵抗にあい(←そりゃそうだ)、鎌倉入りすることができませんでした。
そこで、仕方なく伊豆の堀越に居を構えることとしました。
これが「堀越公方」

そして関東管領は、先に述べたように上杉氏の独占状態となっていました。
その上杉家も緒家あり、実質最も力があって管領職を独占していた「山内上杉家」以外に、
「犬懸上杉家」、「扇谷上杉家」、などがありました。
んで案の定、彼らもまたそれぞれが対立関係にあったんですね。
中でも「扇谷上杉家」は名将「太田道灌」の補佐で大いに勢力を広げていましたが、当主
「上杉定正」はこの道灌を謀殺(※重きをなす道灌を恐れたとか、山内上杉の計略にかかっ
たとか…)自ら衰退の切っ掛けを作ってしまいます。
ああ、お馬鹿さん。

そんな訳で関東公方が古河、堀越、関東管領が山内、扇谷など…。
これら同族の醜い争いは、やがて下克上の風潮にのった北条家によってことごとく壊滅させ
られることとなるのです。
結果、実は北条家に、そして名は長尾家(上杉謙信)へと引き継がれるのでした。
ややこしいですねぇ。


※本日の写真は堀越公方の住んだ「堀越御所跡地」です。
 [住所] 静岡県田方郡韮山町四日町及び寺家地区

※関連 室町時代 (歴史さんぽ)


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