お寺さんぽ Ver.03

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暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」(1)

2006年04月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「戦国三梟雄」の一角、松永久秀さまです。
前に北条早雲をやったので、せっかくだから三人揃えてみようと思ったの。


「この男は滅多に人ができないことを三つもやった珍しい男だ」


それが織田信長の「松永久秀」評として知られています。
これは信長に恭順した後、同盟者の徳川家康へ紹介される際の台詞で、大抵の説明では
皮肉を込めた酷評である、となっています。
ですが、「これはほめ言葉ではないか?」という論もありました。
ひでるさんはその説を支持しています。

※ちなみに、滅多にできないこととはなんでしょう?

①東大寺を焼き払った。(大仏ごと。うわぁ)
②将軍家に刃を向け、十三代「足利義輝」を殺害した。
③主家の三好家を衰退させ、乗っ取った。

以上の三点を冒頭の台詞後に告げ、それで久秀は赤面した、という話が伝えられています。
ただ、そう説明した信長自身が彼と似たようなことをやってるんですね。

①比叡山延暦寺を焼き払った。(下で紹介してる天台宗の総本山ですよ~)
②足利将軍家を事実上滅亡させた。
③主家の織田家、さらにその上の守護「斯波家」を乗っ取った。

…ね。同じような、というより雰囲気的にはより悪化してますね(笑)
信長さまああああっ!

さて、南蛮渡来の最先端を吸収し、当時当たり前だった常識をことごとく無視した革新的な
織田信長。なにしろ、宣教師の説明する「地球は丸い」を理解し、神はいないと堂々と言い
放つ様は通常の感覚では到底信じられないんですね。
伊達にうつけと呼ばれていませんよ!

この「松永久秀」は信長より遥かに年上(二十歳くらいの差です)なんですが、彼が追い詰め
られた際に、偶然接近したハレー彗星を民衆は「弾正星(※)」とかなんとか命名し、悪事を働
いた久秀の凶星であると噂したのに対して、「あれは何年かの周期で接近するものだから、そん
なんじゃない」とかなんとか現代人のようなことを言ってるんですね。
こちらも見事なまでに進んだ思考の持ち主なんですよ。

それらを踏まえれば、信長の久秀評は「ああなるほど、これは褒めてるのかもしれないかも」
と解釈できます。いわゆる信長ジョーク、ですよ。質悪いですけどね。

なにしろ、あの当時はそんな思考の持ち主なんてごくごく稀なことですから、信長としては大し
た奴だ、という風に感じていたことでしょう。
…まぁ、批評された久秀自身がどう感じたか、はまた別なんですが。
うふふ…。


 ⇒ つづく。
   なんだかえらく長いので数回に分けています。お寺・仏像を期待している方、ごめんなさい。

(※)松永久秀の官位:従四位下弾正忠より命名。

   ちなみに今回写真は信長に焼き討ちされた「比叡山延暦寺」
   その国宝・根本中堂です。


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こまいぬ[狛犬] (赤山禅院)

2006年04月14日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はよく見かけるけど詳しく知らないシリーズ(そんなのない)
とってもキュートな神社のアイドル「狛犬」です。

神社・お寺などにはほぼ確実におられますよね。
これが稲荷神社だとその眷属であるキツネになるんですが、
狛犬ってのはどうなんでしょうか?


まず、大前提として狛犬は想像上の生き物です。世界中の何処を探しても見つかりません。
ああ、それくらい知ってますか、そうですわね。
でも、本当はあれ「狛犬」じゃないってことは知ってますか?
↑なーんて偉そうに書いてますが、ひでるさんもずっとあれを狛犬と信じて疑わなかったんで
す。…まあ、疑おうとも思わなかったですけど。
やっぱ教育って大事ですね(笑)

岐阜の日吉神社にある重文の狛犬は正式名称「高麗の犬」これで「こま国という異国にいる
犬」となります。ちなみに、その原形はインドライオンであるよう。
そんなんがいるらしいよー、というところでしょうか?
大陸から伝わったため、狛犬の作例としては当然中国にもあるんですが、何故か日本に来て
から大ブレイクしたようです。
まあ、日本人犬好きだから…。

さて、ブレイクした狛犬ですが、そこらの神社で狛犬像を左右とも見てもらうと、片方は口を開け
ていて、片方は閉じていることに気づくと思います。
これは、ほぼ日本独特の形態らしく「阿吽」で作成される仁王様の影響を受け、こうなったよう
です。(※)
なんと、平安時代頃にはもう阿吽の狛犬が作成されていたそうですよ。
(おそらく、それ見て次を作るから、延々違うものがコピーされてくこととなるのね)

で、先の問題に戻りまして、実際座っているのは何者だ?
…ということなんですが、正式名称は「獅子」でした。
ああ、なんのこっちゃ分かりづらいですよね。そうですねぇ…ほら、有名な「唐獅子屏風」とか、
身近なところだと「獅子舞」を思い出してくださいな。
神社で座っている方と似てる、というか同じでしょ?あれは獅子なんですよ。
狛犬ではないのでした。

本来では、正面から見て通常右側は「阿」で、口を開いている獅子。
左側は「吽」で、こちらは口を閉じていて、過去には角がありました。
なんと、これが狛犬。
実は獅子に角のついた、一角獣のようなのが本当の狛犬なんですねー。

だから、正式には「獅子・狛犬」像になるんですが、時代が新しくなるにつれ、いつしか左右とも
獅子で作られるようになっていました。
本来であれば「獅子」像となるんですが、日本に獅子がいないためかどうだか知りませんが、
「狛犬」という言葉だけが残ったようです。

そんな訳で、神社(神道)とは特に込み入った関係はないようですが、稲荷=キツネ、春日=鹿
のように、神様によって同様の役割を他の動物へ振り分けたりしています。
犬との縁は古いと聞きますから、なんというかおさまり良く、ぴったりハマったというのが真実では
ないでしょうか?


(※)阿吽(あうん)
仁王像などに見られる、口を開いた・閉じたもの。
実際は仏教の真言で、阿は口を開いて最初に出る音。吽は閉じる時の最後に出る音。
で、物事の始まりと終わりを表現しているそうです。
「阿吽の呼吸」ってのも共に行動する時に使いますよねー。

※ちなみに写真は赤山禅院の狛犬です。ね、角があるでしょ。


※関連記事 ⇒ お寺と神社
※関連記事 ⇒ 八幡大菩薩
※関連記事 ⇒ 稲荷神社 前編 後編

[住所] 赤山禅院 京都市左京区修学院関根坊町


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光悦寺 (京都)

2006年04月13日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都の北。鷹峰三山を見渡す景勝の地「光悦寺」です。
ちなみに鷹峰三山ってのは鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰だそうですよ。
…そうです、このあたり↑はパンフの文そのままです。
だって詳しく知らないんだもん。
と、本音を大暴露したところで「光悦寺」です。

むかーし、むかし「本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)」という人がおったそうな。
(※まんが日本昔ばなし風に。市原悦子、あるいは常田富士男の声でどうぞ)

…すみません、本当は戦国~江戸時代です。
光悦くんは刀剣などを扱う「京都本阿弥家」の嫡男として生まれました。
本阿弥家は加賀前田家の庇護もあり、将軍家から諸大名の御用までも受けておりました。
まさに家業はうはうは状態だったんですね!

ただ、光悦くんは商売そっちのけ(うそ。未確認)で趣味の世界に没頭してしまいます。
しかも単なる趣味人でなく、書道を中心に陶芸、漆芸、出版、茶の湯…など、そりゃあもう、
芸術家かよー、ってくらいにやっていたようです。
さすがにお金持ちは違いますね。

と、それらが単なる趣味で終わらなかったから、すごいんです。
各芸術面で光悦くんはその才能を発揮。さまざまな功績を残しました。パンフによると、

「そのいずれもが前人未到の斬新的な表現方法であり、驚嘆の目を見張らぬものはない」

とのこと。
ほんとぅ~??話半分としても(笑)とにかくすごい芸術家だったようです。
マルチアーティストですよ。

元和元年(1615)その才を認められた光悦は徳川家康より鷹ヶ峰の土地を拝領しました。
すると、彼は一族や職人などの仲間を率いてそこへ移住します。
自然、この一帯は工芸集落のようになっていきました。

そして中心であった光悦の死後、本阿弥家の位牌堂であった場所を「光悦寺」としたそうです。
やっと出てきました、光悦寺。

完全に茶室・庭中心のお寺でして、それぞれ趣の異なる七つの茶室、古池や豊富な緑に囲まれた、
ひっそり静かな大変風情のあるお寺です。
特に竹の垣根は「光悦垣」として知られており、徐々に高さの違う独特なものです。

…あれ、ひでるさん垣根の写真撮ってませんでした。
何せ庭中心のお寺だったんで…。
ちなみに光悦の木像とか多くの品がありましたが、仏像はなかったんですよー。
庭とか自然好きな人にはオススメですね。



[住所] 光悦寺 京都府京都市北区鷹峯光悦町29


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みうらじゅん・いとうせいこうのTV見仏記3 (DVD・CM)

2006年04月12日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
お寺さんぽニストひでるさんの絶対オススメDVD第三弾です。


みうらじゅん いとうせいこう TV見仏記3

ジェネオン エンタテインメント

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過去にを紹介しておりますので、今回は当然③ですね。

前作品からある程度時間がたったらしく、映像的に進化が見られるようになった
本作品。
これまではお二人の見仏(これでけんぶつと読んでね)風景を追っているだけの
イメージでしたが、今回から会話中に出てくる仏教用語解説テロップが表示さ
れたり、話題のネタ元が表示されるなど演出面にも大きく進歩がみられ、格段に
見やすくなっております。

このブログで、
 まだイマイチ仏像の楽しさがわからん。
 寺とか仏像がネタの場合は読み飛ばしている。
 というか、正直どうでもいい。       (←うわー  )
……そんな方にはオススメな一枚です。

また、仏像・寺好きな方には、普段暗かったり遠かったりしてイマイチ見づらい
仏像をドアップで見ることができる、滅多に無い機会を得ることができます。
きっと「お寺さんぽ」したくなるでしょう!

さて、リニューアルされた「3巻」は「南山城、宇治・伏見編」です。
付近への旅行を考えている人も事前学習として見ておくのも良いと思います。
ひでるさんも行きましたが、「醍醐寺」はすごいですよー。

(※ちなみに今回の写真は醍醐寺の山頂景色です。DVDでは上まで行かないのでー)


登場寺/禅定寺、岩船寺、神童寺、橋寺放生院、三室戸寺、醍醐寺



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重文ピョンちゃん天立像 (全国・薬局店頭)

2006年04月11日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は全国の薬局店頭で…あまり見かけなくなった、
重文「ピョンちゃん天立像」です。

以前「サトちゃん菩薩立像」なんてパロディー
というかおふざけをして遊んでみましたが、これが
意外に好評だった(本当)ので柳の下のどじょうを
もう一匹探してみました。(←もういないと思うよ)


ちなみにサトちゃんはよく見かけてなんだか修行中っぽいので菩薩。
(※あちこち外で雨ざらしですし…)
このエスエス製薬ピョンちゃんはなかなかいないレアキャラですし、
雰囲気的には海外っぽいので外部の神様を取り込んだ天部が近い
かな~ということで、語呂悪いですが「ピョンちゃん天立像」としてみ
ました。
…と、先にネタばらしたら面白味薄れるんですが、どうぞ。
実は結構文考えるのしんどいんですね、このネタは。

ピョンちゃん天(梵名:エスエスピョンチャンインゲルハイム)はエスエス
製薬の広告神にして兎絵図の変化体。
以前紹介の「サトちゃん菩薩」より歴史は古く、日本神話に登場する
因幡の白兎と融合し、広告神として世に広められた。
ちなみに姿が赤色(※写真)なのはその故事に由来している可能性が
高いと思われたが、時代によりまったく別色のパターンも多数存在する
ことが判明したため、色についての詳細は結局不明のままである。

さて、兎の絵図を用いたのは昭和二十七年。ただ、当時は無名のまま
であり、名前がつくまでになんと十一年の歳月を要することとなる。
「庶民生活に身近な製薬企業として飛躍する」
という思惑をのせて定着。一時期の流行か、薬局店頭に様々な像が置
かれ続ける中でこのピョンちゃん、正式名称「ピョンちゃん天立像」もサト
ちゃん像に遅れること昭和三十八年に店頭へ登場。

象・蛙など他企業製作の立像よりちょっとした憎らしさと可愛さとを含ん
だ容貌のピョンちゃん天は庶民の信仰を大いに集めることとなった。

この基本体である「ピョンちゃん天」の流行から様々な変化体を生み出し、
小型の像から幼児のぬりえ絵図など、多方面に広まっていった。
(※後述するが、種類があるもののその絶対数は多くなかったようである)

また、年代によりその造形は大きく様変わりし、現在では桃色で絵柄も
西洋漫画のような形態であり、調査でHPを訪れたひでるさんを大いに
驚かせている。
(※余談であるが、写真のピョンちゃん天は六代目、黄色のものは七代目
である。当初の原型は白色で赤いチャンチャンコを着た、兎そのものとい
う風情であった)

像は一面二臂で色は赤、白、黄、桃など多く、切り株を踏まえる。耳は
基本ぴんと上に伸びるが、可愛く折れていたりする画なども存在する。
おそらく、薬局像としてはこの六代目である赤色のタイプだけが製作され
たようである。(←こちらは未確認情報です。情報求む)

ちなみにピョンちゃん天はどれも基本的にレア度が高く、所持しておられる
方はマニアが高値で買ってくれる可能性が高いので、覚えておくように。

なお、上記の文面は一部冗談が含まれておりますが、だいたい本当です。


参考:
 エスエス製薬: エスエス製薬株式会社 公式HP
 
※エスエス製薬さま、無許可でリンクさせて頂きました。
 問題ある場合は即撤去しますんで御連絡下さい。
 いいですよね、ハイチオールCとか。(←フォロー)

[住所] 全国薬局店頭 …にあるかな?


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阿弥陀如来 (真正極楽寺)

2006年04月10日 | 仏像
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本日は釈迦如来と並んで最もポピュラーだと思う、阿弥陀如来
についてです。
とりあえず合掌。

阿弥陀如来、と聞いて皆が真っ先に思い出すであろうものが
「あみだくじ」ですね?(←違う?)
よくあちこちで語られることですが、過去にあみだくじは放射線
上に線が引かれており、それが阿弥陀様の後光と似ていたこ
とからそう名前がついたようです。

さて、阿弥陀様の梵名はその寿命が無限であることから無量
寿如来(あみたーゆす)、あるいはその光が無限に世界を照ら
す、電灯いらずなことから無量光如来(あみたーば)となります。
宗派によって違いますが、お葬式とか念仏聞く機会があったら
よく聞いてみて下さい。
おそらくこの↑単語がでてくると思います。
それがたぶん阿弥陀様のことですね。

おん、あみりたていぜい、から、うん。

ちなみに真言はそんなんです。
これを唱えると、死後は極楽浄土へ行けるそうですよ。浄土宗
で有名な「南無阿弥陀仏」の念仏と同じ効能だとか。
ひでるさんは生きたまま極楽へ行きたい(笑)気がするんですが。
どうでしょう?

ちなみに浄土、という言葉に濁音があるためか、雰囲気マイナス
に感じますが、実際の意味は「仏が住む清らかな世界」だそうです。
実はいいとこなんですね。
(※ちなみに対語は穢土(えど)です。意味は現世、だって。
  うわー、ここだよ!)

話を戻しまして、かなり早い時期にインドから伝えられた阿弥陀様は
平安時代の社会的混乱を末法(注)と解釈して広まった「末法思想」
のため、また阿弥陀仏に帰依することをすすめる浄土教の発展と共
に爆発的な大ヒットとなりました。

要するに今はあきらめて「それなら死後に救済してもらおうねー」と
考えられたのでしょう。
西方極楽浄土の教主で死後の安楽を約束してくれる阿弥陀様は時
代の思想とぴったりマッチしたんですね。

見分け方ですが、以前「仏像講座」でも書きましたように全体は釈迦
如来とそっくりさんなんですが、指で円を作っている「世の中銭やー」
という方が阿弥陀様です。
まじめにこれ↑を書きますと、座像の場合、両手を腹前で法界定印の
ように結ぶが、第二指を曲げた印が特徴。(阿弥陀定印)
立像の場合は施無畏・与願印と似ているが、第一指ともう一本の指を
捻る印が特徴。(来迎印)
…ほら、分かりにくくなっちゃったでしょ。
とりあえず印については「銭やー」の言葉と写真見て確認して下さい。

また、他の如来同様に脇侍でも見分けができます。
阿弥陀様の場合、両脇にいる方は聖観音と勢至菩薩となります。
もし周辺の方の数が多い時はおそらく二十五菩薩でしょう。
また、九品成仏の考えから、九体の阿弥陀様を並べた「九体阿弥陀
像」というのもあります。
特殊な作例としては宝冠をかぶっていたり(鎌倉・浄光明寺)、裸だっ
たり(奈良国立博物館)、振り返っていたり(→みかえり阿弥陀)、
頭でかい像(→五劫思惟阿弥陀)などがあります。


(注)末法(まっぽう)
   釈迦入滅後二千年以後の一万年間を指す。
   仏法が衰えると考えられていた。

[住所] 真正極楽寺 京都府京都市左京区浄土寺真如町82

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北条早雲 <後編> (神奈川県・小田原城)

2006年04月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も関東地方は小田原の大スター、北条早雲こと「伊勢新九郎長氏」
についてお送り致します。(以下は早雲で統一)
前編では、ふらりと東国へ現われた素浪人「北条早雲」が混乱していた
伊豆を横からちゃっかり奪ったところまででした。


さて、伊豆に入った早雲はすかさず領国の支配固めをします。豪族(武士)への方針は簡潔に、
逆らったら厳罰。従えば本領安堵(要するにそのままってこと)です。
領民に対しては、これまで六公四民だった税率を四公六民としました。
(60%から40%と大幅に引き下げたのね)
また、領内に病人がいればわざわざ医者を手配させるなど、どこかいやらしいほど人心掌握に
努めます。
彼の支配以前は税率の点からも分かるように苛酷な政策であったため、早雲は「よき殿様」と
隣国から領民が移住するほどの大変な人気を博したといいます。

ついでに細かいところまで書きますと、早雲は職人衆を重用しました。
それは、腕のある者をわざわざ遠隔地から呼び寄せるなど、彼らの能力を高く評価していました。
(まだ身分で分けられた社会ではないですが、職人の地位は当時決して高くなかったようです)
後に彼らは政治・軍事の両面で欠かせない存在となるのです。

こうして伊豆を完全な支配下とすると、目は自然広大な関東平野へと向きました。そこへ進出して
行くには、小田原城の大森氏が邪魔な存在です。
当時の小田原城は南関東に勢力を伸ばす「大森氏頼」の居城でした。氏頼は文武に通じた名将と
して知られ、さすがの早雲も彼の存在中は手を出すことなく誼を通じていました。なにせ合戦時には
援軍を送っていますので、両家は親しい間柄だったんですね。

しかし、その氏頼が亡くなり子の「大森藤頼」が継ぐと、早雲はここぞとばかりに行動を起こします。

「鹿狩りをしていたら鹿があなたの領国の山(箱根ね)に入ってしまったので、追い返すため勢子を
いれさせてほしい」

早雲は頭を下げ、そんなことを申し入れます。
父の代から面識ある早雲の申し出に、藤頼は「ああどうぞ、お構いなく」とかなんとか言って許可を
してしまうんですね。
おそらく疑いはなかったでしょう。…そこが命取りになります。

勢子に扮していた早雲の手勢は夜になると一斉に鬨の声を上げ、小田原城に攻め掛かりました。
この時、彼は「木曾義仲」が「倶利伽羅峠の合戦」で用いた「火牛の計(※)」を実施したようです。
この不意な急襲で小田原はあっさり陥落、早雲の大勝利となるのでした。

前編の伊豆への攻撃は「叛乱を起こした賊を討伐する」と、どうにか理由付けもできますが、この
小田原出兵は完全に領土拡大目的以外ありません。
間違いなく私利私欲です。
藤頼くんも味方、とまではないにしろ、少なくとも敵と思っていなかった相手から一夜で攻め滅ぼ
されるんだから、実に気の毒な話なんですよ。

戦国三梟雄中で、そんな風に結構ひどいことしている割に地元の方以外にも愛されたり、評価さ
れたりしている北条早雲。
彼に暗いイメージが薄いのは、暗殺など裏工作中心でなくちゃんと合戦して勝利してる点と、まっ
たくの新天地を自らの実力のみで獲得しているところでしょう。
(※他の二名は(斎藤道三、松永久秀)暗殺・謀略のかぎりを尽くし、恩人や主家を打ち倒して、
自ら戦国大名に取って代わっているのでした)

また、上にも書きましたが、領国経営についても当時の領民からすれば画期的なまでに優しく、
従いたくなる殿様だったんですね。

以後、北条家は早雲の築いた地盤を侵されることなく、関東で覇を唱えることとなるのでした。


(※)田単火牛の計(でんたんかぎゅうのけい)
   数頭の牛の角に松明をくくりつけ、敵中に放つ荒業。火に驚いた牛が敵中へ突進していき、
   混乱させる。(こちらの兵数を多く見せる効果もありそうです)
   中国は「史記」に登場する将軍「田単」が発案したようですが、火をつけたのは角でなく尻尾
   らしいです。…まぁ、どちらにしろ牛にとっては大迷惑な話でした。


[住所] 小田原城 神奈川県小田原市城内6-1


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北条早雲 <前編> (神奈川県・小田原城)

2006年04月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は関東地方の大スター、北条早雲こと「伊勢新九郎長氏」
さまについてお送り致します。
(※ややこしいから、以下は早雲で統一。写真が北条早雲です)


戦国三梟雄の三名を知ってますか?
それ以前に「梟雄(きょうゆう)」って言葉は知ってます?
辞書で調べると「残忍で強い人」だそうです。共同で所有すること、ではないですよー。
ただ、戦国時代の梟雄は辞書そのままの意味合いよりも、下克上の風潮にのってやや
強引な手段を用いて出世した人、が正しいと思います。
辞書の「残忍」もそうなんですが、クローズアップされるべき単語は「強い人」ですね。

室町後期の下克上思想から名だけでなく、真の実力者が台頭する時代。
室町時代から戦国時代の扉を開いた人物として、この「北条早雲」の名は広く知られて
います。歴史でもちょっとだけ勉強したかもしれませんね。

この戦国初期あたりの人物の特徴として、名はよく知られているのに出自がはっきりし
ないというのがあります。この北条早雲もしかり。
先の「戦国三梟雄」の他二名(斎藤道三、松永久秀)も同じように、歴史の表舞台に立つ
以前はどこで何をしていたのか、実に不確かなんですね。

さて、早雲もイマイチはっきりしてないんですが、駿河の今川氏へ嫁いだ妹の縁を頼って
食客になる、というのが初登場です。(※一説には幕府直属の部下であったらしい、とも)
まあ、妹さんが仮にも守護大名へ嫁いでいるくらいですから、そこそこの家柄ではあったよ
うです。ちなみに、食客というのは今で言う「いそうろう」になります。
「お兄ちゃん、しっかりしないとだめだよぉー」
みたいな。
こう書くとどこぞのギャルゲーにでもなりそうですが、早雲はただ飯食らって余生を安穏と過
ごすような人ではありません。彼は当時の感覚では中年期後半という年齢でしたが、実に
時代とアンマッチな、飛び抜けた感性の持ち主でした。

家督争いから分裂した駿河今川家。
食客であった早雲は第三者という立場だったこともあり、両派の橋渡しを成功させるなど混乱
終結に活躍しました。その褒美として興国寺城を与えられます。
無一文の素浪人(実際はそこまで酷くないですが)から、一城の主となったのです。
お兄ちゃん大出世ですよ!

さて、城持ちとなった早雲は関東の情勢に目を向けると、伊豆に注目します。
当時の伊豆…を語るためにどうしても必要なのが関東情勢なんですが、その関東については
先にやりました。うふふ…。
こちら(→関東公方と関東管領)を参照下さい。

当時の伊豆には鎌倉入りの叶わなかった「堀越公方・足利政知」が実質の支配者としておりま
したが、彼の没後幽閉されていた異母弟の「足利茶々丸」が叛乱を起こし子「潤童子」とその母
を殺害。強引に跡目を継いでしまいます。
この事件により、伊豆国内は大いに混乱しておりました。
逐一状況を伺っていた早雲はチャンスとみるや素早く行動します。
なんと、彼は伊豆に攻め込むと堀越御所を攻撃、伊豆一帯を支配下に置いてしまいます。

元来、戦を仕掛けるには大義名分という理由付けが必要(たとえそれが一方的なものでも)なん
ですが、早雲は大した理由もなく、ただ取れそうだから取っちゃうんですね。
鰹節目の前にした猫みたいに。
一応、幕府から反乱軍の追討を命じられた、というのもあるようなんですが…。
(※実は茶々丸が殺害した潤童子の母は十一代将軍「足利義澄」の母でもあるのでした)
まぁ、あったとしても、ひでるさんはどうも後付けっぽい気がするんですけどねぇ。

と、まぁ公然とルールを無視し、実力で一国を奪ったこの事件を”戦国時代の幕開け”とする見方
もあり、早雲が高く評価される理由となっています。
なにはともあれ、早雲は関東へ来てからたった数年で一国の主にまでのし上がったのでした。

→後編につづく

[住所] 小田原城 神奈川県小田原市城内6-1

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※ちなみに本日8日は「はなまつり」ですよ!皆さんお寺へ向かいましょう!
 「花祭」は釈迦の誕生を祝う行事です。…知ってますか?
 本来は灌仏会(かんぶつえ)と言うんだってー。


※たまには「光栄」以外の戦国ゲームを…。

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浄発願寺 (神奈川・伊勢原)

2006年04月07日 | お寺
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本日は神奈川県は伊勢原市の浄発願寺(じょうほつがんじ)、
その跡地です。
えっとここは「奥の院」というそうですね。
ちなみに現在の浄発願寺はもっと下の方に再建されています。


よく城址ではこんな雰囲気のところあちこちで見かけますが、お寺ってのはそう
見たことないでしょ?
…そんな訳で、今回の紹介をここにしてみました。

ちなみにひでるさんがここへお寺さんぽに来たときは当然ながら誰もおらず、
正直パラレルワールドちっくな雰囲気さえ感じました。
静まってはいますが、かさかさと羽音などが聞こえ、ちらほら日の光が差し込み、
崩れた人工物が点々としている…そんな情景ですよ。

なんというか、城址とはまた違ったいい風情よ。
オススメです。


さて、浄発願寺は天台宗は弾誓派の総本山です。総本山シリーズですね。
慶長十三年(1608)弾誓上人という方が開山。
時代は江戸時代のお寺ですね。

ここは徳川家康の庇護を受け、全盛期には広大な寺領をもっていました。
相模の三大十夜の一つで、昭和初期までは大いに賑わっていたようです。
また「男の駆け込み寺」として知られ、放火・殺人以外の罪ならば駆け込めば助かっ
たそうです。本堂に続く、五十三段の石段(いまは石でない)は、駆け込みをした五十
三名の罪人が自分の罪業を悔い改めながら造ったものなんだそうです。

んで、山なんで木食行(※)させられるようです。
安易ですね。
うふふふふ…。

時は流れて昭和十三年(1938)、台風による山津波で「浄発願寺」は壊滅。
それから再建までは約三十年の時間を要し、四十二年のことでした。

寺内の石仏のほとんどは住職らが背負ってえっちらおっちら奥の院から運び下ろした
そうです。
全国への托鉢(たくはつ)と寄付なども行ったようですねー。
ご苦労様です。

そんなこんなで、すっかり寂しげなここ「浄発願寺・奥の院」なんですが、現在でも石仏や
供養等などがちらほら立ち並び、当時の面影が偲ばれます。
ちょっとトリップしたい方、是非伊勢原までどうぞ!


(※)木食行(もくじきぎょう)木の実とかしか食べない修行。
   リスみたいな生活よ。


[住所] 浄発願寺 奥の院 伊勢原市日向
※小田急小田原線伊勢原駅北口3番乗り場から日向薬師行き神奈中バス
で終点下車(約20分)、終点から徒歩約50分。


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八幡大菩薩 (八幡社・全国各地)

2006年04月06日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日本の神様、南無八幡大菩薩でお馴染みの「八幡大菩薩」
さまです。

前回稲荷神社()をやりましたが、ダントツの数で広がる稲荷
様に対し、この八幡さまは日本第二位の多さでした。
すごいですね!
祀る神社は八幡神社(八幡社)と呼ばれています。

さて、八幡さまは本来北九州の「宇佐氏」の氏神で穀物・銅の神として信仰が
ありました。
天皇が誕生の際に八つの幡(はた)が空にたなびいたことから、八幡となった
そうです。

これが奈良時代、かの有名な東大寺大仏の造立時に「協力しなさいよ~」と
託宣(注)を発したことで、中央へと進出します。
この一件によって鎮護国家の神となり、仏教との関係も深くなるにつれて八幡
神は「八幡大菩薩」となりました。

…なんだか、ちょっと政治ちっくですね。
余談ですが、この方よく託宣をすることでも有名だそうです。
ますます胡散臭いですね……って、これまずいかな。
うそですよ、純粋なもんですよ。たぶん。

そして平安時代には”僧形の神像”が作られるんですが、本来像を作らない神道
において初めてのことでした。
さきがけですよ。
で、なぜか八幡さまはお地蔵さんみたいな僧形で表現されています。
菩薩だからでしょうか?
奈良の東大寺には国宝の像があるようですよ。
ぜひ見てみたいですね!

ちなみに皇室から分かれた源氏も八幡さまを氏神とし、有名な「源義家」は石清
水八幡宮(京都)で元服したことから、「八幡太郎義家」と呼ばれました。
歴史好きな方なら一度くらいは聞いたことありますよね?

当然ながら鎌倉の将軍「源頼朝」も八幡さまを鎌倉へ呼び寄せ、鶴岡八幡宮を
作りました。
その流れから八幡さまは武家の守護神となり、後にも多くの武将が崇拝すること
となるのです。
そうですね…戦国時代でも北条軍で無類の強さを見せた「北条綱成」は八幡大
菩薩の化身と呼ばれ、恐れられていました。
綱成は日々八幡大菩薩に戦勝を祈願していたようです。

あれーもともとは穀物・銅の神さまだったのに…さすが八幡さまですね!


※ちなみに写真は鎌倉・鶴岡八幡宮です。時期一月なんでそんな感じ。

(注)託宣(たくせん) 神がお告げをすること。意見や忠告。
            …ね、政治ちっくでしょ。


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信長の正妻「濃姫」 (京都・総見院)

2006年04月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は泣く子も黙る(かもしれない)織田信長の正妻、濃姫さまです。
発売されているアクション系戦国ゲーム↓では信長の影響か
”はちゃめちゃな性格”にされていてなんだか気の毒なんですが、
実際はどうだったんでしょうか?


美濃国(いまの岐阜県)を一介の油売りから奪取した戦国三梟雄の一角、斎藤道三
の娘、帰蝶さま。
帰蝶なんてなんだかやわらかな、儚げな、妖精のような美しい名前ですねー。
ただ、この「帰」が縁起悪いということで、織田家へ嫁いでからは濃姫と呼ばれるよ
うになりました。(※以後は濃姫で統一)

おそらく大抵の人が知っている有名なシーン。
当時は内外から「尾張の大うつけ」と評判になっていた織田信長の元へ嫁ぐ際、
父道三は濃姫に短刀を差し出し、こう言いました。
「信長が噂どおりのうつけなら、これで奴を刺し殺せ」
それを受け取った濃姫がほほ笑んで一言。

「あるいはこの刀がお父様に向くかもしれませんよ」

うわ、かっこえー。
…これ真意の程は定かでないですが、二人の性格から戦国時代の父娘・夫婦関係
をよくあらわしているエピソードだと思います。
道三はそうして下克上に成功してきた人ですし、濃姫もまた争っていた他家へ乗り込
む(嫁ぐ)自らの立場をよく理解していたと思います。

可愛がっていた(と思う)娘から刃を向けられる父親って、現代感覚では理解し難いこ
とですが、むろん本意でないとはいえお父さん的にはしっかり教育でき、よく育った、
というところでしょうか。
いいですね~、この二人。

後に道三が珍しく婿の信長に会見を申し込むこととなる(注)のは、おそらく濃姫から
の情報に興味を持ったからでしょう。
伝えられる情報は別れの際の発言そのまま、彼女が織田方の人間になったことを示唆
していたと想像されます。
濃姫も聡い女性だったようですが、信長のが上手であったのでしょう。
「娘が認めた婿殿に会ってみたいものだ」
おそらく、両者の会見はそんな道三の茶目っ気が起こしたと思われます。
そして、会見後の彼は信長をたいそう気に入り、美濃を進呈するという遺言を残すことと
なるのです。

この濃姫さま、嫁ぐ前後までは歴史に顔を見せていましたが、美濃攻略後あたりから、
ふと姿を見せなくなってしまいます。
最大の理由は子が生まれなかったためです。
子を生んでいれば「~の母」という具合に名が記録として残りますが、そうでない限り歴
史からは姿を消してしまうのが当然なんですね。

途切れた濃姫さまのその後には諸説あり、離縁・病死・出家などがあります。
信長は完全な合理主義者でした。
それゆえか、女性を大事にするエピソードがいくつか残っています。ここで注目すべきは、
子供が産めるという側面だけでなく「家において必要な存在」である(家庭を守るみたいな)
という認識があったらしいところです。

そんな信長だから、たとえ子供を産めないとはいえ正室の濃姫を遠ざけるようには思えま
せん。
そのため、可能性としては病死、出家というところですが、安土城炎上の際「蒲生氏郷」に
守られて脱出し、その後次男「織田信雄」の元で余生を過ごした「安土殿」こそ濃姫ではな
いか?という説もあり、織田家で生き続けた可能性も高いようです。

あるいは…。
本能寺が灰燼に帰した際、濃姫は信長と共にあり、そこで倒れた。
これは歴史小説などに見られる話ですが、そんな最後なら素敵ですね。


(注)聖徳寺の会見
行軍中はうつけな格好の信長が会見時には正装で現れたこと、織田軍の槍の長さ・鉄砲
の数に圧倒されたことから、道三は自分の死後息子たちが信長の軍門に下ると予言します。

…とまあ、そんなエピソードは置いといて、この時代はいちいち舅と対面したりしません。
だいたいは途中の国境まで護衛され、そこで嫁ぎ先へ引き渡して去るだけです。
ちなみにこの会見のエピソードなども史実かどうかは実際微妙ですが、特に真実を追求する
サイトではないので、無視します。↑この方が楽しいしね!


[住所] 大徳寺総見院 北区紫野大徳寺町
※総見院には濃姫さまの墓以外に信長の墓・徳姫の墓などがあります。
 通常非公開なので注意。(毎年10月第1日曜日~12月第1日曜日に公開)


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※”はちゃめちゃな性格”の濃姫さまが出てくるゲーム
戦国無双2(通常版)

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善峯寺 その2 (京都)

2006年04月04日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はJR東海のコマーシャルで一躍有名寺となった京都は西京区の
「善峯寺」です。

平安時代に、ここでなくてはいけないお堂がある…
わざわざ場所を選んでつくられたお寺でした。
だから、わざわざここへ来なければ逢えなかった秋でした。
おーい、来たよ

「そうだ、京都行こう」 (注1) 

いいですねーこのCMは。(ちなみに、当然ながら京都ではやってな
いんです。でも、なんだかそれ知ってほへーとか思いました)
↑上は去年の秋に流れていたCMの引用です。
ほら、あの散った紅葉で道が真赤な絨毯みたいになったシーンがでて
くるやつですわ。
ちなみに全然関係ないですが、最近のスイカのペンギン出てくるCM
は絶妙にかわいいですねー。駅をおなかですべってたりするとことか。
(※先ほどから関東ローカルな話題ばかりですいません)

えっと、そんなコマーシャル効果で去年秋は人でごったがえしていた
らしい、善峯寺をお送りします。
実はここ当ブログ開始当初に一度紹介してる(→記事)んですが、その
時はまだ方向性もきっちり定まっていなかった関係からひでるさんのどー
でもいい話題のみで終わってました。
…恥ずかしい限りです。

ちなみにここは紅葉だけでなく、桜の名所でもありますんで、これから
の季節でも楽しめますよ。
またCMやるんでしょうか?

さて、この善峯寺は平安時代中期に源算上人という方が建立しました。
源算上人は四十七歳というから中年期(この時代だと老年期ですか?)
に山へ入り、なんと自力で十一面観音を刻んで本尊とします。
すっごいですね!
これが起源でした。
しかも、なんとその五年後には「後一条天皇」より鎮護国家の勅願所(注2)
として定められたと言いますから、これまた大したものです。
当然ながらそれを切っ掛けに、大いに繁栄していくこととなります。

また、「青蓮院」の宮様が多く入山したため「西山宮門跡」と呼ばれます。
この青蓮院(しょうれんいん)ってのは三千院、妙法院と共に天台宗の三
門跡寺院で、皇室や摂関家用の特定寺院でした。特に青蓮院は多くの
法親王(注3)が住職を務めていたことで知られています。
わかりづらいでしょー。
要するに天皇家となかよしこよし、だった訳ですよ。
権力者と結びつくのはいいものですね(笑)

その後、鎌倉・室町時代とかわらず天皇家に優遇され、一時期にはなん
と僧坊五十二と拡大しておりましたが、応仁の乱でことごとく焼失。
でました応仁の乱。 (←これも早いうちにやらんといけませんねぇ)
この混乱のためどれだけの国宝・重文が失われたのか…。
嫌になりますねー。

それから時は進んで江戸時代となり、五代綱吉の生母「桂昌院」によっ
て復旧され、現在に至るという訳です。
そのため、残る建物は江戸時期のもので占められ、平安期の面影は残念
ながらすっかり失われております。

ちなみに、その桂昌院さまゆかりの品が公開される寺宝展は春・秋のみ
となりますんで、くれぐれもご注意を。
(※春は四・五月、秋は十月の土日祝日と十一月だそうです。ちなみに
ひでるさん、この時は偶然時期がぴったりあってましたよ![写真参照])



(注1)ぜひ、長塚京三の声でお読み・お楽しみ下さい。
   ちなみに上の文は一部どうしても聞き取れなかったので、間違ってる
   かもしれません。

(注2)勅願所(ちょくがんじょ)国家鎮護・玉体安穏などを祈願した社寺。
   [goo辞書]

(注3)皇室の男子で、出家後に親王宣下を受けた皇子のこと。
    親王、という位になったひとね。   [goo辞書]


[住所] 善峯寺 京都市西京区大原野小塩町1372


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天台宗 特別展 レポート (東京上野・イベント)

2006年04月03日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
早速行って来ました、上野公園「最澄と天台の国宝」展!
本日は、このイベントへ皆さんは行くべきか、そうでないか、潜入レポを書きま
すね。…と前に書いていたのでそのまま実行します。
まぁ、行くかどうかは皆さんコレ読んでどう思うかでご判断を~。





お花もちらほら咲いた土曜の当日は絶好の花見日和ということで、上野公園は
物凄い人でした。
会場である東京国立博物館の平成館も失礼ながら意外に人が多く(笑)、人気
の高さを思い知らされました。
さすが開宗千二百年・世界文化遺産ですねぇー。

ひでるさんは今回の記事を書くため手帳片手に回っていたんですが、当然なが
らそんな見方をしている人はほかにおらず、ちょっと浮いていたと思います。
偶然私の行った日と重なっていた方、メモとりながらうろうろしていた変なヤツが
ひでるさんですよー。見かけたあなたは幸運なのか、不幸なのか…。
うふふー。

展示品、特に仏像に関してはあった全ての仏像レビューを一応残していますが、
全部紹介してると前後編になりかねないので、その中でいくつかピックアップして
紹介します。
(※しかも、取っていたメモ見返すと実にくだらんことしか書いてない…。
  あ、全部見たい人は(いないか)メール下されば飛ばしますよぅ)
以下、箇条書きで駄文が続きますが、どうぞ。

●天台大師像
 中国は「隋」時代の方。頭に乗せた鍋蓋のようなものはなんと「いねむり防止」
でした。いいのか、そんなんで。
 しかしお顔は微妙にバランス取って寝てるんじゃねーか?とも見えました。

●智証大師像(ちしょうたいし)
 とんがった空豆のような頭をした、まるで漫画のような方。絵と像の両方があり
ました。絵はかなり誇張して極端でしたが、像はそれなりで普通。
 ただ、なんかふてぶてしい感じて嫌。

●普賢菩薩
 ネットにもあった注目の絵。象乗り普賢菩薩です。かなり傷んでいますが、白い
菩薩と象が浮かび上がるように目立ち、幽玄な美しさでした。素敵。

●2)聖観音像
 パンフで広告塔になっていた方。なんだか隠れ肥満のよう。やや前傾姿勢で、
足のならびとかがどことなくおカマっぽい風情。おそらく光背があったらしく、後ろ
にジョイント穴を発見しました。(※上のチケットの方です)

●5)五大明王像
 五大、と書いてますが、不動明王以外の四名が出張。また、一名は金剛夜叉
さまでなく、鳥枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が参加しておりました。
こじんまりとして雛人形のようです。

●7)毘沙門像 二体
 一方は兜跋毘沙門(とばつびしゃもん)なんですが、平安期と鎌倉期が並んで
いるため、時代の違いがよく分かります。鎌倉時代の毘沙門はかっこいいですよ!

●8)普賢延命菩薩像
 まず、二十臂でびっくり。んで光背とかが赤く彩色され、まるで愛染明王のよう
でした。でも、確かに象(小さい象が複数)に乗っておられましたから、普賢さま
なんでしょう。こんなのは初めて見ましたよ!めずらしい!

●13)魚藍観音像(ぎょらんかんのん)
 微妙に胸がふくよかでやや女性的な像です。ちょっとエロチック。頭には穴があり、
十一面の可能性もあったらしいですよ。背高くて見えなかったけれど。

●14)帝釈天・梵天像
 源頼朝の菩提を弔うために作成された二体。んな訳で当然鎌倉期。色が後付け
なため、非常に奇麗でした。外神を取り込んだ起源そのまま、実に立派。
 やや小さいですが、二人並んでいる様は見事です。作者はあの運慶・湛慶。

●16)阿弥陀三尊像
 両脇の二人はなんだか踊った風でちょっと異様。説明でも別かもしれない、と書い
てありましたが、これ別モノでしょー。
 中央の阿弥陀様はのっぺり顔で、どことなくフィギアの浅田真央風。(失礼)

●18)日吉大宮・白山大権現像
 日吉さまは本来は釈迦で表現されるそうですが、なぜか眷属であるお猿さんの
お姿になってました。これが絶妙なかわいらしさです。
 白山さまは十一面観音で表現されていました。

 ちなみに上の数字は入口からの見た順で、ひでるさんが適当につけたものです。
時期により展示品が変わるそうなので、ご注意を。
 仏像以外には絵や品物、書物などがありました。特に書物はどれも保存状態が
よく、文字もはっきり見えました。
 まぁ、見えたとしても意味まるでわかんないんですけど。

 …とまぁ、人がやたら多いのがやや難点ですが、普段見られないレア仏像など
間近で見れるまたとない機会だと思いました。
 所要時間はメモ取りながらで約二時間、というところです。後半は疲れました。
 展示変わったらまた行きたいですねー。


※おまけ※
この特別展用に作成されたらしい本を何故かひでるさん勧められたんですが、
(そりゃメモ取りながらだしねー)カラーページ多くて全四百ページのB4サイズ。
価格は「2500円」って、高い?安い?

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降三世明王 (仏像・明王)

2006年04月02日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日ば以前「仏像講座」でちらりと紹介しました、
ひでるさんが好きな仏像「降三世明王」です。

おん、にそんば、ばさら、うん、はった…。

この真言で天魔降伏、煩悩消滅の御利益があるそう
です。天魔を降伏する必要はないと思いますので、
とりあえず当ブログ来訪者の煩悩を消してみました。
合掌。(注1)

降三世(あるいは勝三世)の名前そのまま、三つの
世界、つまり過去・現在・未来を降伏する方です。
ちなみに、貧・瞋・痴の三つの煩悩(注2)も一緒に
降伏してくれます。
梵名はトライローキャヴィジャヤ。意味は↑それ。

シヴァ神は三つの世界を治める神としてヒンドゥー教
では最高神の位置づけでした。
そこに大日如来がヒンドゥー教世界を救うため、降三
世明王となって降伏、仏教へと改宗させたそうです。

…なんだか微妙に政治臭がただよってきて実に感じ
悪いですね(笑)

もともとはシヴァ神の妃、ウマーによって降伏されて
いた降三世明王なんですが、仏教に取り入れられた後
に逆襲したようですね。
後で説明しますが、像はその様を表現してるんですね。
やり返したんですよ、根に持つタイプ。
うわー。

ちなみに、そのシヴァ神と降三世明王は同一なーんて
説もあります。ややこしいんですが、どうなんでしょ
う。
このあたりは諸説さまざまなようで、イマイチはっき
りしませんでした。
まぁ、そんな感じである、と。

さて、注目の見分け方。
一般的には三面八臂(顔三つで手が八本ね)で火焔
光背を背負い、胸前において左右の手で降三世印を
結び、足元には先に紹介していたシヴァ神とその妃で
あるウマーを踏みつけています。
踏みつけるのでは四天王が有名ですが、明王部で踏
んでらっしゃるのはこの方だけ。
よほど頭にきてたんですかね。(←しつこい)
見分け方としてはそんなんです。

この方不動明王とは違い、単独で信仰されることな
かったようなので、一人ではいません。
たぶん。
日本ではあくまで五大明王の一人として作られてい
るようです。
あれよ、戦隊モノ。秘密戦隊ゴレンジャーですよ。
右から二番目なんでミドレンジャーですかねー。


(注1) おまけ
ザクロの枝もって「一万回」上の真言を唱え、男女の
人形の局部を打つと不倫を白状するそうです。
…って、これ実行した方いるんですかね!?

(注2) 三つの煩悩
貧 [どん] むさぼり 
瞋 [じん] 怒り
痴 [ち]  おろかさ


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関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)

2006年04月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は関東(鎌倉)公方と関東管領についてです。

また室町時代なんであちこち複雑でしんどいですが、ネタで「北条早雲」をやりたい
ので先に説明しておこうと思いました。
だって、早雲の文中にコレ入れたらものすごーく長くなっちゃうんだもん。
まぁ、それに戦国時代が好きな人も「ある程度聞くけどよくわからん」という方多いと
思うので。
ひでるさんの頭を経由した時点で間違えなどがあるかもしれませんが、だいたいこん
なんな筈です。
…という訳で前置き長くなりましたが、どうぞ。

関東公方は室町幕府が関東の出先機関として鎌倉に設置したものです。「鎌倉」は
前に幕府開かれていた重要拠点ですからね。
役職的には「鎌倉御所」といい、留守となる鎌倉を将軍の代理として守るのが本来の
意味合いでした。(※ちなみに、これが九州だと「九州探題」になります)
でね、その公方さまを補佐する役職が「関東管領」です。
これ当初は二人体制で斯波・畠山などの家が交替で職に関わっていましたが、いつ
しか上杉家の独占・世襲となっていました。
ちなみに、管領の任命権はなぜか、というかやはり、京都の幕府が握っていました。
混乱の原因のひとつですね。

以上、基本的にはそういった目的で設置されていたんですが、これがまた代を重ねる
ごとに京都幕府・関東公方・関東管領という三者の関係は急速に冷え込み、いつしか
対立するまでになっていました。
四代関東公方「足利持氏」は幕府(当時はくじびき当選した六代足利義教)と対立し、
さらに補佐するべき管領「上杉憲実」とも対立した結果、争いが勃発。
持氏は敗れて自害すると、関東公方は一時断絶となります。
これが「永享の乱」(えいきょうのらん)です。

後に持氏の子足利成氏が幕府から御所就任を許されて復活。ですが、この成氏も管領家
や幕府と対立をし、本拠を下総国古河へ移しました。
これが「古河公方」

また、八代義政将軍は関東で暴れる先に紹介↑しました「足利成氏」の対抗馬として弟の
「足利政知」を”幕府お墨付き・関東公方”としてちゃっかり下向させますが、これが関東で
激しい抵抗にあい(←そりゃそうだ)、鎌倉入りすることができませんでした。
そこで、仕方なく伊豆の堀越に居を構えることとしました。
これが「堀越公方」

そして関東管領は、先に述べたように上杉氏の独占状態となっていました。
その上杉家も緒家あり、実質最も力があって管領職を独占していた「山内上杉家」以外に、
「犬懸上杉家」、「扇谷上杉家」、などがありました。
んで案の定、彼らもまたそれぞれが対立関係にあったんですね。
中でも「扇谷上杉家」は名将「太田道灌」の補佐で大いに勢力を広げていましたが、当主
「上杉定正」はこの道灌を謀殺(※重きをなす道灌を恐れたとか、山内上杉の計略にかかっ
たとか…)自ら衰退の切っ掛けを作ってしまいます。
ああ、お馬鹿さん。

そんな訳で関東公方が古河、堀越、関東管領が山内、扇谷など…。
これら同族の醜い争いは、やがて下克上の風潮にのった北条家によってことごとく壊滅させ
られることとなるのです。
結果、実は北条家に、そして名は長尾家(上杉謙信)へと引き継がれるのでした。
ややこしいですねぇ。


※本日の写真は堀越公方の住んだ「堀越御所跡地」です。
 [住所] 静岡県田方郡韮山町四日町及び寺家地区

※関連 室町時代 (歴史さんぽ)


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