絵のタイトルは、「やっちまったぜ」です。
いろいろあんだよ。どちらかと言うと、楽しそうだな。
今日のタイトルは、「生きる」です。
1952年、黒澤明監督、志村喬主演で封切られた東宝映画が思い出される。
市役所の公園課課長の志村が、生い先短いことを覚り、自分がやりたいことを実現する映画である。
大真面目に、「生きる」ことを探るとこうなるのかと思わせる。
すべての人が生きている。それぞれの役目を背負って、日々務めている。
生きている価値を問われると、すべての人がはたと考えてしまう。
自分は、世の中の役に立っているのか。この仕事が、自分のやりたいことだったのか。
多くの人から注目される人ではないかもしれない、それでも生きている。
毎朝起きると、生きている、そして健康であるらしい。少なくとも風邪は引いていない。
さて、何をしよう。とりあえず欲求のままにトイレに行き、喉の渇きを癒す。
一服をし、コーヒーを飲む。とりあえずは終わった。さて、どうしよう。
「生きる」は、この後の行動のような気がする。
新聞を読む人もいるでしょう。
テレビを点ける人もいる。どちらも、情報をとりたい。
炊事をし、洗濯掃除を始める人もいる。
生き抜くための次の行動である。ここまでも必然である。
何のために生きる。
家族のため、会社のため、そして自分のためと生きて来た。今は違う。
しなければならないことは、何にもない。
何がしたい。この辺りから己の本性が見えてくる。
趣味であり、嗜好かもしれない。
目的かもしれない。夢と言ってもよいかもしれない。
自分がやりたいことがある。なんだろう。
地域は、廃れていく。色んな原因が考えられる。
どうしたら、活性化できるのか。自分でもできるのか。
こうして、移住した。
妻は、畑を耕して野菜を作り始めた。野菜を作って、私を食べさせてやると言った。
試しに、30種類の野菜を植えたが、ことごとく駄目だった。
虫にやられ、地力のなさで育たず、草に負けた。
竹の根を追い、セイタカアワダチソウの根を追い、山際に塹壕を掘った。補給路を断て。
陽があたらないと、森の高木を自ら伐ったり、持ち主にお願いした。
何をしなければならないか、志向が変化してきた。
すべてを己の感受性に委ねる。
庭に続く、森の借景が気に入らない。足立美術館とはいかぬまでも、森の下草だけでもと刈り始める。
畑の周りの草を刈る。空き家の草を刈る。耕作放棄地を耕す。どこまでも侵食する竹を伐る。
美しくないから。
地力をつけるために、カフェで出た食物残渣とコイン精米所でいただく糠を混ぜコンポストを作る。
広大な畑に順繰りに施肥をする。化学肥料に頼らない。
虫がつけば初めはピンセットで、今は手でとる。虫にも飛来虫と地面内に住む歩行虫がいると知る。
剪定をすれば、クリーンセンターに90円/kgで捨てた。友人が、持山に捨てても良いと許可してくれた。
少しならと、風のない日に燃やしてしまう。灰は畑に。
何が楽しいか。これが「生きる」なのかな。
何でも分ける。もらってくれる人がいないと、「分ける」は成立しない。
欲しい人に、満腹にならない程度に分ける。
それもその人が欲しい時に。
顔色を窺い、信用してもらうまで付き合いがなければ、欲しいのかどうかさえ判らない。
こっち都合の商売を恥じる。生きざまを反省する。
色んなことが分かってくる。知識欲が洗われる。
筋肉が、自ずとついてくる。野菜中心の食事でありながら、たんぱく質を欲しがる身体になっていく。
自分は何ができると、問うようになる。頭が澄んでくる。
生きていて楽しい。
もっと試したいことがある。
これも、「生きる」であろう。もう少し生きたいとなる。
残念ながら、先は長くはない。少し光が見えた。生きているうちに見えたような気がする。
もうできぬ 頭で犯す 年頃さ
2020年12月22日
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