貴方といるときの方が、より孤独を感じました。
「花子とアン」の一節です。奥の奥で通い合わなくなった時の孤独感は、一人の時より強いのかもしれません。
子供が、旅立つときは嬉しさ半分、寂しさ半分でしょうか。
子供のペースに合わそうとすると、じれったくなる時があります。子供にしてみれば、うっとうしい時もあるでしょう。
案外、身内や家族は意外と相手の気持ちが分からない場合があるように思います。
かえって、かつては他人であった夫だったり、永年の友人のほうが解りあえるかもしれません。生きてる時代と苦労の振幅が同じだからでしょうか。同じ時代を生きている安心感がそうさせるのでしょうか。
親子は、何か既得権のような関係があるのではないのかと考えます。自分の味方になってくれるのが当然というような甘えとでもいいましょうか。他人との関係は、感動して相手を認めて尊敬するから、常に緊張感があるような気がします。
寂しさとは、相手が分かってくれない。どう言っても理解してもらえそうにないと感じた時に起こるのではないでしょうか。あきらめに似た感じなのに一緒に過ごさなければならない。子供とは、年齢差もありどこかであきらめることができます。これは、寂しくありません。他人同士の場合、常に緊張感を持って相手を観察しなければなりません。注意深くなるのです。そして、どこかで分かってくれていると実感した時に信頼感が生まれるのではないでしょうか。信頼感の持続こそ寂しさから逃れられる道筋ではないかと思います。小さなできごと、言葉の端に現れる優しさを実感できるためには、注意深く観察し、何かを感じなければなりません。向き合わなければなりません。他人であれば、尚、親子と一緒のように既得権で生活していると思わないことです。
愛情は、進化します。過去愛してくれたから、また愛していたからでは、続かないのです。友達であれ、恋人であれ、また家族であれ常に進化しているのです。既得権のような愛情は、存在しないように思います。
解ってくれる人がいれば、何かほかほかして楽しいものです。寂しいと感じたら、ほかほかのシェルターに逃げ込めば良いのです。そのシェルターを持つためには、努力しかないのです。薄っぺらい言葉より、にこっと微笑む笑顔のほうこそ勇気づけられます。
2014年8月8日
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