
絵のタイトルは、「雪道」です。
あるプロフェッショナルが、「それでも行かなくては」と出かけていきました。
道理とは 言って試して 日本人
(フランシスコ・ザビエルの日本観です)
今日のタイトルは、「今が大切」です。
過去の栄光にすがるべくもない。
思えば、穴に入りたいことのオンパレードでしょう。
今も恥ずかしいことを日々やらかしています。
でも、明日はまともに暮らせるのではないかと信じている。
仮に、借金をしても、誠実さを貫けば、それなりに生きていける。
自分に嘘をつく。
これだけは避けたい生き方です。
だって、楽しくない。
どんな苦境であっても、一縷の望み(自分なりの楽しみ)は鉄板です。
他人に裏切られてもよい。
それは、自分じゃない他人です。
他人が何をやらかそうと、他人の自由です。
自分にも危害が及んで(影響があって)、初めて向かい合うことになる。
それじゃあ遅い。
だから先手を打つ。
危害が及ばないユートピアなんて存在しない。
周囲を観察し、自分なりの行動をする。
そして、面と向かい合い試される。
それも、楽しい。
お前はその程度かと、高所安全の場所にいる自分が言う。
やってみなはれと、もう一人の自分が嘯く。
毎日試される。
それが今です。
昨日できたことが、今日はできない。
逆に昨日できなかったことが、今日はできた。
一進一退。
新しいことに挑戦する勇気が試される。
こんなに長く生きたのに、知らないことばかりです。
もっとも不明なことは、自分自身です。
どうするの。
朝起きて眠るまで、自分を律することなんて不可能です。
それでも生きている。
つまり、思いつめても何も解決しないことばかりです。
だったら、点数なんてどうでもよい。
ふと、外を見れば気分が変わる。
気分転換ができれば、マイナスや加点などどうでもよくなる。
勝つことが、生きる証ではないと気づく。
自分がまともかどうかが問われます。
認知症になっても生きています。
それって自分と思うことでしょう。
多分、まともな時間が少しだけあれば、身体のどこかが意志どおりに動けばよい。
レベルを下げても生きていける。
だから、誰かの世話になりながら生きていこうと思う。
そこに行けば母に会えた。
私のことが認知できなくても、母がいた。
それだけが、訪ねる理由でした。
生きる意味など、とうに忘れた母がいる。
残ったものの勝手な言い分です。
自分で無くなっても、存在価値がある。
母はもういない。
温かい思い出を共有できる。
もっと生きたい。
もっと、自分を知りたい。
生きる評価は、自分がするものです。
だから、今を一生懸命生きたい。
2024年10月17日