楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

リンデンバウムの話2

2017年02月11日 05時46分46秒 | つれづれなるままに考えること
ドイツ語のリンデンバウムは和訳すると菩提樹。

学生時代、ドイツの著名な声楽家ゲルハルト・ヒッシュが母校にやって来て、
一曲歌うと言う。
在学生全員が、講堂に集められた。
千人は優に超える。

学園の校長がドイツ人、カソリックの神父様であることが幸いしたと思われる。
世界的に有名なドイツのバリトン歌手である。

ピアノの伴奏も無く、壇上で紹介があったのみで、独唱を始めた。
その曲がシューベルトの「リンデンバウム」(菩提樹)である。

マイクもなく、朗々と歌ったその声は講堂の隅々にまで響き渡り、
満場の学生を一瞬にして魅了し、講堂内は水を打ったように静まり返った。

ボクのように音楽の解らない者にも、その歌声は心に響いた。
終わった時は、講堂が割れんばかりの拍手だったことは忘れられない。


ボクは当時、部活でサッカー部に所属して居たが、
そのサッカー部の同級生に独文(ドイツ語)科の友人がいて、
ちょうどドイツ語を「菩提樹」で教わっている最中であった。
心打たれていたボクは、この「菩提樹」をゲルハルト・ヒッシュのように、
ドイツ語で歌いたいと思い、その友人にドイツ語の歌詞を教えてくれと頼んだ。

そんな事で「リンデンバウム」と言う言葉が、
シューベルトの「菩提樹」の曲であることを知っているのだ。

Dietrich Fischer Dieskau Der Lindenbaum Die Winterreise


この曲を聴いていて、音痴であるが、まだ半分くらいはドイツ語で「菩提樹」が歌える。




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リンデンバウムの話

2017年02月08日 06時13分36秒 | つれづれなるままに考えること
題名を見て、すぐに音楽の名曲「菩提樹」を思い出された方を、
ボクは尊敬します。

なぜならボクは戦争のお陰で、
音楽の授業が受けられず、音楽たるや何もわからないで、卒業して来た。

息子や娘たちには、音楽が理解できなくて、
恥ずかしい思いをしないように、
しっかり音楽を教えたつもりである。
ボクの二の舞をさせたくないと思ったからだ。

子供たちには幼稚園に入るころからピアノを買い与え、
先生について音楽を習わした。
他に習わしたのは水泳、ボクは水泳が出来ないから、
これも泳げなくて恥ずかしい思いをさせないためである。

話を戻そう。

先の昭和天皇がヨーロッパ旅行をされた時、
ドイツで菩提樹の花が咲いているのを指さして、
「あれは何という木ですか?」
と侍従長に聞かれた。

侍従長は、ドイツ人のガイドさんに訊ねて答えた。
「はい、あれは菩提樹でございます。」と。

昭和天皇はさらにお訊ねになった。
「菩提樹と言うことは解っています、なんという菩提樹ですか?」
と重ねてお訊ねになったのだ。

昭和天皇のご趣味は植物学で、著名な植物学者として知られる。
侍従長は、それを思い出し、はたと弱ってもう一度ドイツ人のガイドさんに訊ねたが、
ガイドさんはそれ以上は知らなくて、侍従長ともども黙り込んでしまった。

しばらくして、一計を案じた侍従長が答えたそうだ。
「陛下、あれは西洋菩提樹でございます」と。

事情を察知して、天皇が、
「あっ そう」
と答えられたと言う。

有名なエピソードだ。

この回答の、
「あっ そう」
は天皇の口癖であることは国民がみんな知っている。


その天皇がイタリアに巡行された晩さん会で、
イタリアより饗応されたワイン、
「モンテプルチアーノ」

その後、

イタリア旅行をしたとき酒屋を訪ね、
見つけたこのワイン「モンテプルチアーノ」を自分の土産に買って帰った。
一国の主に饗応されたワイン、Royal of Japan とラベルに書いてある。
余程おいしいに違いない、そう思って・・・・。

旅行から帰り、落ち着いたところで、
このワインを飲んでみたが、ロイヤルと思い過ぎてか、
ワインに飲まれてしまったようで、味がよく解らなかった。

カミさんに言わせると、
「ワイン好きでなくても口当たりが良くていただけます」
との事であった。

イタリアで一番美味しいワインはこれだ、と言うのではなく、
ひょっとすると昭和天皇にも飲み易いように、
イタリアのシェフが選んだのかもしれない。

そう思ったとたん、急に気軽になって、
次の夜、そのワインの残りを気持ちよく平らげてしまったのは言うまでもない。



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さくら

2017年02月04日 05時52分12秒 | 日記
ついこの間、蝋梅が咲いて良い香りを楽しんだと思ったら、

1月30日(月)異常な高気温で、
桜の木が勘違いしたのか、一気に花開いたようだ。

気が付いたのが翌日(1/31)いつもの散歩道での出来事。
1月中の開花するなんてボクにとっては大ニュース。

その次の日(2/1)写真を撮ろうと持ち出したデジカメが電池不足で機能しない。

やっと写真をものにしたのが2/2日。

ご覧ください。

(河津さくら)

(河津さくら2)


場所は子供を毎朝送って来るお父さん、お母さん、
時にはお爺ちゃん、お婆ちゃんの姿が見える保育園、日の基保育園入り口。

(日の基保育園)


保育園の入り口には左右に二本の桜が植えられている。

(河津さくら3)

(河津さくら4)



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気楽にいこうよーおまけの人生

2017年02月01日 05時25分20秒 | つれづれなるままに考えること
血液のガンで「三年間生存率 30%」と告知された話は前回書いた。

この時、抗がん剤治療は苦しいから、治療しない場合は?と尋ねたら、
担当教授が「生存できるのは一年と考えてください」と言われた。

そこで「三年間生存率 30%」に賭けることにした。
なぜなら三年間のうちに医学が進歩して、
完治できる方法が発見されるかもしれないと思ったからである。

自分で勝手に「自分は30%の中に入るもの」と決めてかかっていた。
この病気は10万人に一人か二人しか発症しないらしく、
同じ病気の入院患者はほとんど居ないものと思っていた。

ところが、入院してみると、ナースセンターを挟んで右側に6室、
左側に6室の四人部屋が、左右にそれぞれ男女の患者が入院していた。
他に一人部屋が2室、二人部屋が2室あった。

全部で患者は約50人は居たと思う。
ボクは四人部屋の一室に入れられたが、先に三人の患者が入っていた。
名前を名乗り、「よろしくお願いします」と言って廊下側北西のベッドに陣取った。
しかし、どなたも返事はなかった。

後で聞くと、ボクが陣取ったそのベッドには二日前までいた患者が昨日亡くなっていた、と言うのだ。
しかもその前の患者も、その前の前の患者も、またその前も亡くなっていたのだ。
つまり、このベッドに入る患者は今まで全部亡くなっていたらしい。
(きっとボクも同じようになりそうだと思って)
誰も返事をしなかったのだ。

ここでボクは「生存率 30%」を考え直して、
「三年間で死亡率70%」に置き替えた。
置き替えて見るとどうだ、違った世界が見えてきた。

その昔、居酒屋でも、バーでも、キャバレーでも、
「ビール!」って注文すると、必ずキリンが出てきた、
その頃新聞で見た記事によれば、キリンは50%のシェアを誇っていた。

つまり50%だと、ビールと言えばキリンであった。
そう思うと死亡率70%と言えば、ほとんど誰も死んでしまう事なのだ。

それなら、死ぬまで治療の経過を残してみようと、
日記をつけ始めた。

これがこのブログを始めたきっかけになった。
所がどういう神様の思し召しか知らないが、
満16年経過し、17年目に入り、生き残ってしまった。

退院後は、神様が下さった「おまけの人生!」

仕事も終わったし、「気楽にいこうよ!」

そう思うようになった。







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