楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

旅を歩く

2016年07月20日 05時03分56秒 | つれづれなるままに考えること
旅には、乗り物によって、さまざまな旅行がある。

飛行機、電車、汽車、船、バス、車、自転車、
そして足で、と言うのもある。

それぞれの乗り物も、グレードにより感じ方が違うであろうが、
ボクの貧乏旅行を考えると、飛行機、船、列車の一等には縁遠い。

こうした乗り物があるから、日本全国は元より世界を股にかけて、
旅が出来る世の中になった。

しかし、自分の足で旅するのは、
各地の細かい所に目をつけて見ることが出来るので、
考えようによっては、贅沢な旅行と言える。

歩きながら考え、景色の佳い所で感激し、
和歌に残した有名な武人・歌人のお墓や、戦争の傷跡、
そんな所を歌枕と言っているが、
これを訪ね歩いた芭蕉や曽良の旅日記、
そこへ感動の俳句を残した「おくのほそ道」、
「野ざらし紀行」「笈の小文」など。

芭蕉は文才があるから旅行記も面白いが、
文才は無くても、人は旅をするとその感動を残したい、自慢したいのである。
そんな人の自慢話や旅行の写真など、
興味がなければ観たくも聞きたくもないのが、
これまた人間。

世の中で一番白けるのは、
他人が行った旅行話を聞かされることと、
その旅行の写真を見せられることだ。

しかし旅行をすると何かを残したくなる。
馬鹿馬鹿しくて白ける旅行記を、
夢中になって読ませるような傑作写真やその説明文を書くことは、
とても難しいと言える。


そんなことを承知で旅行記を書いている馬鹿がここに居る。
恥ずかしいことだが・・・

それでも

・旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡り

芭蕉ではないが、いつどこで死んでも良い、

そんな思いをしてまで旅をしたい。

ボクは・・・。



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都立の9庭園その1-旧岩崎邸庭園(ムービー)

2016年07月18日 14時22分18秒 | 東京の庭園
旧岩崎邸庭園をムービーにしました。


都立庭園 旧岩崎邸庭園
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太田道灌 山吹の里(2)

2016年07月16日 05時17分44秒 | ひとり歩き旅
(山吹の里の碑)


山吹の里は新宿区にあった。
東京に残る唯一の路面電車都営荒川線は江東区三ノ輪~新宿区早稲田を走っているが、
その終点早稲田駅の一つ手前の面影橋駅に「山吹の里」の碑はあった。

(都電 早稲田方面)

(早稲田方面の電車)


駅を降りると駅名の由来となった面影橋があるが、
その橋を渡った橋のたもとに「山吹の里」の碑がある。
今は道一本隔てて会社の入口に表題の碑がある。

(面影橋交差点)


(面影橋交差点2)

(面影橋の橋)

(面影橋下の神田川、姿を映せる)


(面影橋の橋名の由来は、高名な歌人である在原業平が、
鏡の様な水面に姿を映したためと言う説、
鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けた説、
近くに居た於戸姫(おとひめ)が、数々起こった悲劇を嘆き、
水面に身を投げた時、詠んだ和歌から名付けられたなどの説がある。)と言う。

そもそも新宿区には山吹町なる町名がある。
面影橋に隣接する町が早稲田、その隣が山吹町である。
ところが面影橋のある神田川の反対側は、
豊島区である。神田川が区境になっているようだ。

したがって山吹の里については、
豊島区教育委員会の説明になります。
(―前の部分省略―
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、
横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではない。
ただ神田川対岸の新宿区一帯は、
昭和63年(1988)発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、
鎌倉街道の伝承地などが集中しており、
中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、
面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると、
「山吹の里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、
この碑が貞享三年(1686)に建立された供養塔を
転用したものであることが解っています。)とある。

(碑面の細かい文字が読める)


上部には梵字の三文字が、「山吹之里」の文字にも重なって小さな文字が見え、
両横には家紋の下に、右側は(××丙寅 歳)、左側は(十一月)の文字が、
下部には弥勒菩薩であろうか半跏思惟像が刻まれている。

さて、太田道灌は江戸城築城で知られる。そして主(あるじ)であった。
と言うことは東京都知事みたいなものである。
だから、東京都の旧都庁には太田道灌の銅像が置かれている。
旧都庁は、ボクが東京に出てきたころは東京駅丸の内口、有楽町寄りにあった。
そして旧庁舎を写真で見る限り、東京駅(丸の内口)にそっくりである。

今は東京国際フォーラムガラス棟になっており、
その中に狩り姿の太田道灌が威厳を見せている。

(東京府庁舎跡ー旧都庁の跡の碑)

(戦前の東京府庁ー写真)

(参考:現在の東京駅丸の内口)

(東京国際フオーラムガラス棟の太田道灌―外から写す)

(内側の道灌)

(内側の道灌2)


東京都も旧庁舎にあった太田道灌の痕跡は残してあるが、
新庁舎、つまり新宿の新しい庁舎の方はどうだろう。
調べてみたら、都庁の隣にある中央公園の中に、太田道灌は居た。
滝のある広場を右の方に入った雑木林の中にあった。
しかも山吹をささげている女性もいるではないか。

(太田道灌のと狩り場で山吹をささげる女性)

(太田道灌の狩り装束)

(山吹をささげる女性)


しかも、太田道灌に差し出した山吹の一枝も扇の上に乗っているではないか。
山吹をよくよく見るとそれは八重山吹であることに間違いない。
彫刻をした人は、山吹が八重山吹だということを知っていたに違いない。

(ささげられた山吹)


・七重八重 花は咲けども 山吹の 
        実の(蓑)一つだに 無きぞ悲しき


この古歌の「七重八重」はやっぱり八重山吹で間違いなかった、と安堵した。

ところで、太田道灌の像は、東京にはこれだけに留まらず、
JR日暮里駅の前にも、これは馬上姿があると言うので、行って来た。

(日暮里駅前 馬上の道灌)


最後に、今話題の東京都庁の新宿にある庁舎の写真を掲載して置きたい。

(新宿にある東京都庁舎)


新宿の庁舎は太田道灌に負けない勇姿を見せている。

昔は太田道灌が都知事だったが、今度の都知事は誰が成るのだろうか?

興味深い・・・

新都知事に、山吹の一枝をプレゼントしようかしら・・・・





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太田道灌の山吹の里(1)

2016年07月13日 05時39分25秒 | ひとり歩き旅
七重八重(五月二日のブログの追加)
五月二日のブログで、次のように披露した。【(一重の山吹の花が七つ八つと咲いた一枝)・七重八重 花は咲けども 山吹の          実の(蓑)一つだに 無きぞ悲しき ...



さて、この話は実話なのだろうか、もし実話なら太田道灌が狩りをした
「山吹の里」がどこかにあるはず。
探してみたら、ありました。以外にも我が家からそんなに遠くないところのようだ。

そこで表題の「山吹の里」を尋ねてみた。

(山吹の里の石碑)


つづく
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喜沢の追分から新田(しんでん)宿へ(旧日光街道・奥州街道を歩く 52)

2016年07月08日 05時38分21秒 | ひとり歩き旅
旧日光街道が国道四号線と交差し、さらに鹿沼・壬生方面へ抜ける交差点に出た。

この交差点を喜沢の追分と言い、鹿沼・壬生方面へ進めば、
先の方で日光例幣使街道と合流し、日光へ行くにはこの方が近道となる。
この喜沢の追分を今では(喜沢分岐点)の信号となっている。

(喜沢の分岐点)


往時の追分を象徴する追分の碑が交差点の中に建っている。
昔はここに茶屋や立場があり、将軍が日光社参の時は、
警備の場所となり交通の要衝であった。

追分の碑を眺めているうちに、旧日光街道を踏み間違えてしまった。
旧日光街道から喜沢分岐点の信号で、
左へ行くのは壬生方面、追分の碑の左側は国道四号線、
追分の碑の右側は旧街道から国道四号線への道路で直ぐ四号線に合流する。

(喜沢追分の碑 馬頭観世音碑(中央)

(日清 日露 日支 出征馬碑)


旧日光街道は追分の碑の右側の道路のさらに右側の、
道路(見落としやすい)を進まなければならない。

うっかりして国道四号線の方へ入ってしまった。
合流したときに気がつけば良かったが、気付かず進んでしまった。
いずれ国道四号線に合流すのだからと気安く考えて・・・・

ところがこれが大間違い、間違ったお陰で喜沢の一里塚を見落としてしまった。
この一里塚は雑木林の中にあって、
日光街道にしては、珍しくよく保存されていると資料に記されているのだ。
いかにも残念でした。

しばらくして(羽川)の交差点に出て、300mも歩くと、
右側から旧街道が合流してくる。

(羽川の信号)

(旧街道の合流地点)


ここから新田宿(しんでんじゅく)に入る。
新田宿は旧日光街道沿いが整備されていて、
旧街道時代の屋号が家の前に張り出してある。

(奥州街道 大町新田宿 車屋の屋号)

(下の兵庫屋)

(何屋だったのか大島屋)


道路を一本隔てて、門の跡が見える。ご想像通り新田宿本陣家の門の跡。
往時の面影を残している。

(本陣の門の跡)

(本陣家は左奥の家らしい)

(油屋)


昔は、食料や灯明の明かりに必需品で、どの宿場にも「油屋」があった。
奥に見える立派な建物が、よく物語っている。

東京から84km地点の先に、幕府代官陣屋跡の看板があり、
その先に日光街道十三番目の宿場「新田宿」羽川ののぼり旗もある。

(東京から84km地点)

(幕府代官陣屋敷跡の看板)

(日光街道十三番目の宿場「新田宿」羽川ののぼり旗)


資料によると、新田宿は芋柄新川・大町新田・大町村とも呼ばれた。
日光街道が置かれてから新田宿または新田町ともいわれたが、
明治六年(1873)からは羽川宿と改称され、今は小山市羽川となっている。
天保十四年の記録では、
家数 39軒
人口 244人
宿内の街並みの長さ三町余(400m)と、
日光街道では最も小さい宿場であった。(後略) 

陣屋跡の看板を左折、少し入った所に薬師堂がある。

(幕府代官陣屋敷跡・薬師堂)


この薬師堂の南側に、この地域の天領を支配した代官所はあったという。

国道四号線に戻り、100mほど進むと、右手に「郷社 橿原神社」の石柱がある。
江戸時代には星宮と称しましたが、
明治五年(1872)神武天皇を鎮座崇敬したいとの村役人の願いにより、
「橿原神社」になったと言われる。
参道はJRの線路横まで長くつながっている。

(橿原神社の石柱)

(長い参道)

(橿原神社の神殿)


さらに100mほど進むと左へ入る道路があるが、
ここが旧日光街道で少し左へ入った所に石造物群がある。

(石造物群のある一角)


覆い屋にあるのは道標を兼ねた馬頭観世音で「左おざく道」とある。
外に並ぶ石造物、左端は馬頭観音、右三つは青面金剛の庚申塔のようである。

(覆い屋の馬頭観世音)

(外にある庚申塔など)


旧街道はこの先で無くなっているようで、国道四号線に戻る。

少し進むと(下野市/しもつけし)に入り、ここから小金井宿に入る。
まもなくJR小金井駅右の標識がある。
時計を見るとPM16:40で、ここから帰路につく事にした。

(下野市の看板)

(JR小金井駅の案内)


駅前には、蒸気機関車C57の車輪が展示してあった。
後ろの駅舎は修理中で養生シートをかぶっていた。

(C57 蒸気機関車の車輪)


本日は、JR小山駅より歩いて、直線で歩けば新田宿まで2.5km、
新田宿から小金井宿まで約6kmであるが、
あっちこっち見て歩いたから合計35770歩、約22kmであった。

日光まで残り八宿である。


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