旧日光街道が国道四号線と交差し、さらに鹿沼・壬生方面へ抜ける交差点に出た。
この交差点を喜沢の追分と言い、鹿沼・壬生方面へ進めば、
先の方で日光例幣使街道と合流し、日光へ行くにはこの方が近道となる。
この喜沢の追分を今では(喜沢分岐点)の信号となっている。
(喜沢の分岐点)
往時の追分を象徴する追分の碑が交差点の中に建っている。
昔はここに茶屋や立場があり、将軍が日光社参の時は、
警備の場所となり交通の要衝であった。
追分の碑を眺めているうちに、旧日光街道を踏み間違えてしまった。
旧日光街道から喜沢分岐点の信号で、
左へ行くのは壬生方面、追分の碑の左側は国道四号線、
追分の碑の右側は旧街道から国道四号線への道路で直ぐ四号線に合流する。
(喜沢追分の碑 馬頭観世音碑(中央)
(日清 日露 日支 出征馬碑)
旧日光街道は追分の碑の右側の道路のさらに右側の、
道路(見落としやすい)を進まなければならない。
うっかりして国道四号線の方へ入ってしまった。
合流したときに気がつけば良かったが、気付かず進んでしまった。
いずれ国道四号線に合流すのだからと気安く考えて・・・・
ところがこれが大間違い、間違ったお陰で喜沢の一里塚を見落としてしまった。
この一里塚は雑木林の中にあって、
日光街道にしては、珍しくよく保存されていると資料に記されているのだ。
いかにも残念でした。
しばらくして(羽川)の交差点に出て、300mも歩くと、
右側から旧街道が合流してくる。
(羽川の信号)
(旧街道の合流地点)
ここから新田宿(しんでんじゅく)に入る。
新田宿は旧日光街道沿いが整備されていて、
旧街道時代の屋号が家の前に張り出してある。
(奥州街道 大町新田宿 車屋の屋号)
(下の兵庫屋)
(何屋だったのか大島屋)
道路を一本隔てて、門の跡が見える。ご想像通り新田宿本陣家の門の跡。
往時の面影を残している。
(本陣の門の跡)
(本陣家は左奥の家らしい)
(油屋)
昔は、食料や灯明の明かりに必需品で、どの宿場にも「油屋」があった。
奥に見える立派な建物が、よく物語っている。
東京から84km地点の先に、幕府代官陣屋跡の看板があり、
その先に日光街道十三番目の宿場「新田宿」羽川ののぼり旗もある。
(東京から84km地点)
(幕府代官陣屋敷跡の看板)
(日光街道十三番目の宿場「新田宿」羽川ののぼり旗)
資料によると、新田宿は芋柄新川・大町新田・大町村とも呼ばれた。
日光街道が置かれてから新田宿または新田町ともいわれたが、
明治六年(1873)からは羽川宿と改称され、今は小山市羽川となっている。
天保十四年の記録では、
家数 39軒
人口 244人
宿内の街並みの長さ三町余(400m)と、
日光街道では最も小さい宿場であった。(後略)
陣屋跡の看板を左折、少し入った所に薬師堂がある。
(幕府代官陣屋敷跡・薬師堂)
この薬師堂の南側に、この地域の天領を支配した代官所はあったという。
国道四号線に戻り、100mほど進むと、右手に「郷社 橿原神社」の石柱がある。
江戸時代には星宮と称しましたが、
明治五年(1872)神武天皇を鎮座崇敬したいとの村役人の願いにより、
「橿原神社」になったと言われる。
参道はJRの線路横まで長くつながっている。
(橿原神社の石柱)
(長い参道)
(橿原神社の神殿)
さらに100mほど進むと左へ入る道路があるが、
ここが旧日光街道で少し左へ入った所に石造物群がある。
(石造物群のある一角)
覆い屋にあるのは道標を兼ねた馬頭観世音で「左おざく道」とある。
外に並ぶ石造物、左端は馬頭観音、右三つは青面金剛の庚申塔のようである。
(覆い屋の馬頭観世音)
(外にある庚申塔など)
旧街道はこの先で無くなっているようで、国道四号線に戻る。
少し進むと(下野市/しもつけし)に入り、ここから小金井宿に入る。
まもなくJR小金井駅右の標識がある。
時計を見るとPM16:40で、ここから帰路につく事にした。
(下野市の看板)
(JR小金井駅の案内)
駅前には、蒸気機関車C57の車輪が展示してあった。
後ろの駅舎は修理中で養生シートをかぶっていた。
(C57 蒸気機関車の車輪)
本日は、JR小山駅より歩いて、直線で歩けば新田宿まで2.5km、
新田宿から小金井宿まで約6kmであるが、
あっちこっち見て歩いたから合計35770歩、約22kmであった。
日光まで残り八宿である。
この交差点を喜沢の追分と言い、鹿沼・壬生方面へ進めば、
先の方で日光例幣使街道と合流し、日光へ行くにはこの方が近道となる。
この喜沢の追分を今では(喜沢分岐点)の信号となっている。
(喜沢の分岐点)
往時の追分を象徴する追分の碑が交差点の中に建っている。
昔はここに茶屋や立場があり、将軍が日光社参の時は、
警備の場所となり交通の要衝であった。
追分の碑を眺めているうちに、旧日光街道を踏み間違えてしまった。
旧日光街道から喜沢分岐点の信号で、
左へ行くのは壬生方面、追分の碑の左側は国道四号線、
追分の碑の右側は旧街道から国道四号線への道路で直ぐ四号線に合流する。
(喜沢追分の碑 馬頭観世音碑(中央)
(日清 日露 日支 出征馬碑)
旧日光街道は追分の碑の右側の道路のさらに右側の、
道路(見落としやすい)を進まなければならない。
うっかりして国道四号線の方へ入ってしまった。
合流したときに気がつけば良かったが、気付かず進んでしまった。
いずれ国道四号線に合流すのだからと気安く考えて・・・・
ところがこれが大間違い、間違ったお陰で喜沢の一里塚を見落としてしまった。
この一里塚は雑木林の中にあって、
日光街道にしては、珍しくよく保存されていると資料に記されているのだ。
いかにも残念でした。
しばらくして(羽川)の交差点に出て、300mも歩くと、
右側から旧街道が合流してくる。
(羽川の信号)
(旧街道の合流地点)
ここから新田宿(しんでんじゅく)に入る。
新田宿は旧日光街道沿いが整備されていて、
旧街道時代の屋号が家の前に張り出してある。
(奥州街道 大町新田宿 車屋の屋号)
(下の兵庫屋)
(何屋だったのか大島屋)
道路を一本隔てて、門の跡が見える。ご想像通り新田宿本陣家の門の跡。
往時の面影を残している。
(本陣の門の跡)
(本陣家は左奥の家らしい)
(油屋)
昔は、食料や灯明の明かりに必需品で、どの宿場にも「油屋」があった。
奥に見える立派な建物が、よく物語っている。
東京から84km地点の先に、幕府代官陣屋跡の看板があり、
その先に日光街道十三番目の宿場「新田宿」羽川ののぼり旗もある。
(東京から84km地点)
(幕府代官陣屋敷跡の看板)
(日光街道十三番目の宿場「新田宿」羽川ののぼり旗)
資料によると、新田宿は芋柄新川・大町新田・大町村とも呼ばれた。
日光街道が置かれてから新田宿または新田町ともいわれたが、
明治六年(1873)からは羽川宿と改称され、今は小山市羽川となっている。
天保十四年の記録では、
家数 39軒
人口 244人
宿内の街並みの長さ三町余(400m)と、
日光街道では最も小さい宿場であった。(後略)
陣屋跡の看板を左折、少し入った所に薬師堂がある。
(幕府代官陣屋敷跡・薬師堂)
この薬師堂の南側に、この地域の天領を支配した代官所はあったという。
国道四号線に戻り、100mほど進むと、右手に「郷社 橿原神社」の石柱がある。
江戸時代には星宮と称しましたが、
明治五年(1872)神武天皇を鎮座崇敬したいとの村役人の願いにより、
「橿原神社」になったと言われる。
参道はJRの線路横まで長くつながっている。
(橿原神社の石柱)
(長い参道)
(橿原神社の神殿)
さらに100mほど進むと左へ入る道路があるが、
ここが旧日光街道で少し左へ入った所に石造物群がある。
(石造物群のある一角)
覆い屋にあるのは道標を兼ねた馬頭観世音で「左おざく道」とある。
外に並ぶ石造物、左端は馬頭観音、右三つは青面金剛の庚申塔のようである。
(覆い屋の馬頭観世音)
(外にある庚申塔など)
旧街道はこの先で無くなっているようで、国道四号線に戻る。
少し進むと(下野市/しもつけし)に入り、ここから小金井宿に入る。
まもなくJR小金井駅右の標識がある。
時計を見るとPM16:40で、ここから帰路につく事にした。
(下野市の看板)
(JR小金井駅の案内)
駅前には、蒸気機関車C57の車輪が展示してあった。
後ろの駅舎は修理中で養生シートをかぶっていた。
(C57 蒸気機関車の車輪)
本日は、JR小山駅より歩いて、直線で歩けば新田宿まで2.5km、
新田宿から小金井宿まで約6kmであるが、
あっちこっち見て歩いたから合計35770歩、約22kmであった。
日光まで残り八宿である。