楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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泉岳寺(忠臣蔵を歩く 9)

2014年01月17日 09時00分00秒 | ひとり歩き旅
(泉岳寺山門)


(泉岳寺)
JR田町駅の手前左手にある第一田町ビル、三菱自動車のビル前に、
勝海舟と西郷南州会見の碑がある。

碑には、西郷吉之助書とあり、
「江戸開城 西郷南州 勝海舟 會見之地」と揮毫されている。

ここで江戸城 無血開城への相談がなされた田町薩摩藩邸のあった場所である。
当時は、すぐ海につながっており、
国許の薩摩より船で運ばれてくる米などを陸揚げした場所であると同時に、
一旦事ある時には、すぐさま海に逃れることが出来るように、
海辺近くに藩邸を選んだようである。
(勝海舟と西郷南州会見の碑)

(勝海舟と西郷南州会見の碑2)

(JR田町駅への案内看板)

(JR田町駅入り口)

話は余談になるが、同じような理由で、
各国公使館も海辺の寺院を選んだようである。
街道筋の本陣(諸大名の宿泊施設)も、
逃げ出すことが出来る裏口があることが絶対要件であったらしい。

話を戻して、赤穂義士四十七士は第一京浜を、
浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向った。

やがて左側に高輪大木戸跡が見える。
ここは東海道経由で江戸に入る入り口で、
高札場があり江戸町内における定めなどが張り出されていた。
五街道のうち、東海道、甲州道中の大木戸跡が残されている。
大木戸跡は無いが、中山道にも大木戸があった事は、資料上解かっている。
(高輪大木戸跡)

(高輪大木戸跡の石垣)

(地下鉄泉岳寺駅)

(泉岳寺中門)


まもなく地下鉄「泉岳寺」駅で、左折すると、泉岳寺中門が見える。

赤穂浪士47人の一行は、12月14日吉良上野介義央の邸に、
討ち入りをかけ、首尾よく上野介の首を、
浅野家菩提寺の泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供え、
主君無念のあだ討ちが出来た報告をした。

これを記念して、
毎年12月14日は義士祭が行われる広告が泉岳寺中門に見える。
この日には本所松坂町の吉良邸より泉岳寺までのウォーキングが催される。

中門をくぐると、泉岳寺の山門が見える。
山門奥には本堂があるが、その手前右手に大石内蔵助銅像が建っている。
浪曲師 桃中軒雲右衛門の発願で建てた物だそうであるが、
手には巻物を持っており、
これは赤穂浪士四十七士の連判状であるといわれる。
(泉岳寺中門をくぐると山門が見える)

(泉岳寺山門)

(大石蔵之助良雄の像)

(大石蔵之助が手に持つ連判状)


またまた余談で恐縮であるが、
忠臣蔵のいろいろなエピソードは、口さがない江戸っ子が噂して、
講談や浪花節に面白おかしく、取り入れられたそうだ。
「赤垣源蔵東下り」の酒の上で、武士が雲助の駕篭かきに土下座した話、
父母がラジオで聞く浪曲でしか、ボクの記憶にはない。

泉岳寺本堂前で手を合わせ、左手の四十七士の墓地に進む。
何時行っても、この墓地には線香の煙は絶えない。
特に12月14日は、周りが見えなくなるほどの線香の煙で覆われる。
(泉岳寺本堂)

(史跡 赤穂義士墓所入り口)


義士の墓地入り口に、「史跡 赤穂義士墓所」の石柱があり、
石垣で囲まれた墓所通路がある。
通路の右手、石垣の外側に、「血染めの石、血染めの梅」の案内があり、
田村邸内の浅野内匠頭自刃の場所にあったものと記されている。

一段上の場所に、「大石主税の梅」の木がある。
大石主税は三田松平隠岐守邸内にて、同士九人の者と、
この梅の樹下にて切腹せしと伝えられている。

(田村邸にあったとされる自刃の血染めの石と梅)

(大石主税の梅)


その先に「首洗いの井戸」があるが、
吉良邸にもあったことを考えると、主君の墓前に供える前に、
もう一度この首を洗ったのであろう。
余談ですが、この首洗い井戸を囲む石垣に、
「川上音二郎」の名が入った石があるところを見ると、
石垣は明治になって作成されたものであることが解かる。

隣に「義商 天野屋利兵衛 浮図(*)」の石碑がある。
天野屋利兵衛は大阪商人で赤穂義士討ち入りの槍を作り与えたことで知られ、
「天野屋利兵衛は男でござる」と、討ち入りが終わるまで、
これを白状しなかった事で有名な人。

(*)浮図=(ふと)と読み、供養塔を指す。
(首洗い井戸)

(首洗い井戸2石垣に川上音二郎の文字が見える)

(天野屋利兵衛の供養塔)

(墓所入り口の門)


墓所入り口の奥にある門は、
浅野家上屋敷の裏門に当るものを移築したという。
入ると義士に捧げる(線香)を売っており、
一束100円也で、線香に火をつけて渡してくれる。
中に進むと、右手に浅野内匠頭公の墓と夫人の墓があり、
隣に石垣で囲まれた四十七士の墓があり、
墓の配置図が墓所に入る手前に示されている。
大石蔵之介良雄と息子の大石主税の墓、
この二つだけは屋根付きの蓋堂の中にある。

赤穂四十七士の面々は、吉良上野介の首を墓前に差し出し、
感涙に咽んだものと想われる。

その後、大石良雄以下16名は肥後熊本藩 細川家下屋敷に収容され、
切腹して、この物語は終わる。

(浅野内匠頭公の墓)

(浅野内匠頭公夫人の墓)

(墓の配置図)

(四十七士の墓)

(大石蔵之助の墓)

(大石主税の墓)(左側の小さい供養塔)

(堀部安兵衛の墓も見える)

(横川勘平の墓)

(神崎与五郎の墓)

コメント (5)
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