楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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都史跡 浅野内匠頭屋敷跡(忠臣蔵を歩く 6)

2014年01月02日 10時00分56秒 | ひとり歩き旅

(浅野内匠頭屋敷跡)


(都史跡 浅野内匠頭屋敷跡)
「近代文化事始の地」の前の通りを、(聖ルカ通り)というが、
これを赤穂浪士四十七士がすすんだ道である。
ここを地下鉄築地駅方面に向う。

右手に「女子学院発祥の地」の石碑がある。
(ジュリア・カロゾルスが築地居留地に女子学院を創設)とある。
この辺り一帯は外国人居留地であったことが解かる。
その奥には、聖路加看護大学があり、
聖路加病院の戦前の旧病院があり、
その手前に右側に聖路加国際病院トイスラー記念館がある。
ここは昭和8年(1933)に聖路加国際病院の宣教師館として、
鉄筋コンクリート2階建てで、一見木造に見える。
(女子学院発祥の地)

(トイスラー記念館)


その左となりに見える旧病院入り口右手には、
コンクリート製の聖路加病院を現す英文で書かれた碑がある。
この石の碑には12個の丸い穴の跡が見えるが、
これは第二次世界大戦の戦時中、敵国の印しであるとして、
見えないように塞がれた跡を示していると説明書きがあった。

(12個の丸い穴があるSt Luke's International Medical Center)


なお先に進み、聖路加看護大学の入り口を右折すると、
芥川龍之介生誕の地の説明板がある。
これは写真をご覧戴きたい。

(この付近が芥川龍之介生誕地)


説明にあるように、35歳の若さでこの世を去っている。
以前、述べたかもしれないが、
文学は人生如何に生きるかを探求する学問で、
多くの文学者は、人生を先の先まで追究して行って、
無常観に行き着いたようだ。

(芥川龍之介生誕地の説明板)


芥川龍之介然り、三島由紀夫然り、
もっとも解かり易いのが、アーネスト・へミングウエイの「老人と海」。

「長い不漁の後で、大きな獲物のカジキマグロを、
命がけで釣り上げ、その獲物を港に曳航する間に、
サメに襲われ、散々戦った末に、サメを追い払うが、
港に着いたときは、獲物のカジキマグロはサメに喰われて骨だけが残っていた。」
こんなあらすじであったと思う。

人は、生まれて苦労して、苦労して歳を経て行く。
途中、ノーベル賞をもらえる様な偉業を成し遂げても、
結局は骨になるだけではないか。

そんなことをこの小説は教えている。
人生、どんなに努力しても、何も残らない。
それでは何かを成し遂げても何もならないのではないか。
そんな無常観に到達する。

否、そうではない、人生善い事をすれば、必ず報われる。
そのように救いの手を差し伸べたのが、宗教だと思う。

親鸞にいたっては、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人おや」と説いている。
善人ですら極楽往生できるのに、どうして悪人が天国にいけないものか、
そんなことは無い、悪人こそ天国へ行けます、と説法した。

芥川龍之介は、おそらく悲観して、
あの世に旅立ったのではなかろうか。

話を元に戻すと、芥川龍之介の生誕地と同じ並びの少し先に、
浅野内匠頭邸跡の碑がある。

(浅野内匠頭邸跡の碑)


東京都中央区教育委員会の説明によると、
(播磨の国(兵庫県)赤穂藩主 浅野内匠頭長矩は、
元禄14年(1701)江戸城中で吉良上野介義央に対して、
刃傷事件を起こし、即日切腹を命じられて、
浅野家は断絶しました。
この地は浅野家の上屋敷があったところで、
忠臣蔵の舞台としてよく知られています。)とある。

今、ボクが歩いて居る道筋、
これこそ浅野内匠頭を中心とした話、忠臣蔵を歩いて居るのです。

やがて右手にしゃれた建物の築地警察署があり、
この裏手に中央区役所がある。

そして、直ぐ先に元築地川が流れていたが、
昭和39年(1964)東京オリンピックの際埋め立てられた。
今は橋だけが残っているが、「亀井橋」という。
橋の名は、架設した亀井氏の名に由来するものだそうです。
明治5年銀座大火の後、旧津和野藩主亀井氏によって架設され、
その名をつけたという。
(余談ですが、その子孫が参議院議員 亀井亜紀子さんという。
恐れ多くも津和野藩のお姫様である。)

(亀井橋)

赤穂浪士47士はなお直進して、昭和通りに出て、これを左折した。

(昭和通りの交差点)

コメント (9)
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