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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・ばらとシャクヤク咲く

2017年05月11日 | わが庭の歳時記
   やっと、わが庭のばらとシャクヤクが、咲き始めた。
   まだ、咲き始めなので、他の花は、スタンドバイしているのだが、綺麗な開花を見ると嬉しくなる。

   ばらは、イングリッシュローズのレディ・オブ・シャーロットとベルサイユの薔薇の仲間のフェルゼン伯爵である。
   ベルサイユの薔薇は、京成バラ園で買って、今でも、毎年、咲かせているが、王妃マリーアントワネットは、残念ながら、昨年枯らせてしまった。
   かなり立派な大苗であったのだが、再送して貰った苗も枯れてしまった。
   イングリッシュローズの栽培も結構難しくて、ウィリアム・シェイクスピア2000とプリンセス・アンも、新芽が出始めたにも拘らず、枯れてしまって、もう、10年以上も咲き続けているアブラハム・ダービーもあって、相性の違いもあるのであろう。
   栽培歴は長いのだが、特別に世話をするわけではなく、ガーデニングの流れとして、ルーティンとしてばらを栽培していては、ダメだと言うことかも知れないと思ってはいる。

   レディ・オブ・シャーロットは、デビッド・オースチンによると、”若いつぼみは、深みのあるオレンジレッドで、徐々に花びらが緩やかに並んだゴブレット型になります。花びらの一枚一枚は、表側がサーモンピンクに対して、裏側はコントラストの美しいゴールデンイエロー。” 
   繊細な花弁を風に靡かせるアプリコットピンクの抱え咲きで、非常に優雅である。
   フェルゼン伯爵は、フランスのメイアン作出の紫のばらで、ばらと言う典型的な花型で、ほんのりと香っている。
   
   
   
   
   
   
   

   シャクヤクは、コーラルチャームが、昨年同様に、一番早く咲いた。
   鉢植えと庭植えにしているのだが、庭植えの方が発育良く勢いが良い。
   花木の下草と言った感じの庭植えなので、混んだ植え込みの中から、茎をのばして咲いているのだが、十分に余裕のある植え方でないのが、一寸、可哀そうである。
   もう一つ、ネームタグが飛んでしまったので名前が分からないのだが、シンプルな深紅のシャクヤクが綺麗に咲いている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   アヤメが、綺麗に咲きだした。
   水生植物園や河畔の菖蒲やカキツバタなどは、もう少し後であろうか。
   ヨーロッパでは、ジャーマンアイリスが豪華に咲いていたが、私は、こじんまりと清楚に咲くアヤメの方が好きである。
   
   
   
   
   
   
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ブルーボトルコーヒーは日本の喫茶店から

2017年05月10日 | イノベーションと経営
   ニュースでは知っていたが、ブルーボトルコーヒーが、 清澄白河に一号店をオープンして、大変な人気で、東京で順次店を展開中だと言う。
   HPからは、
   清澄白河ロースタリー&カフェは、海外各地から届いた豆が積み上がった倉庫の中で、大きな焙煎機で煎られる豆を見ながら、バリスタたちが入れるコーヒーを飲める場所。
   と言うことで、行ったことがないので、良く分からないのだが、マーティン・ファクラーの「世界が認めた「普通でない国」日本」を読んでいて、このコーヒー店が、日本の喫茶店から発想を得たのだと言うのに、興味を感じたのである。

   ファクラーによると、ブルーボトルの創業者フリーマンに話を聞いたところ、このコーヒーショップのアイデアを得たのは、日本街中どこにでもある個人経営の喫茶店だったと言う。
   店に入ると、注文を受けてから、一杯一杯ドリップしてコーヒーを淹れていて、その美味しさにびっくりして、アメリカでも同じような店が出来ないか考えて、日本の喫茶店のスタイルをもとにして、独自のカフェを考案して、チェーン店を始めたと言うのである。
   これが、アメリカで好評を得て、清澄白河へ、逆上陸したと言うわけである。

   このケースは、ハワード・シュルツが、ミラノで、エスプレッソとカフェラテの美味さに感激してスターバックス起こして、美味しいコーヒーを、安くて簡便に身近な店で味わえなかった英米人に提供したので、皆が喜んで押しかけて一気に人気を博した成功物語を彷彿とさせる。
   この両者に共通していることは、同じコーヒーであったも、味やサーブの仕方や店舗システムなど、異文化異文明の異国で展開すると、全く違う反応なり受け取り方をされて、鴇によっては、大ブレークすると言うことである。
   
   このスターバックスについては、あの偉大なピーター・ドラッカーでさえ、イノベーションだと言ったほどで、私も、このブログで、イノベーション論やスターバックスについては、何度も書いている。
   私は、確かに、スターバックスの経営手法や事業展開については多少の差はあったとしても、喫茶店文化が幅広く花開いている日本人にとっては、特に目新しいものではなく、欧米などでは、イノベーションであっても、日本ではそうでないと思っている。

   これとよく似たケースは、ドトールコーヒーである。
   創業者は、ブラジル移民として渡航後帰国して起業したと言うことだが、あの最初の止まり木形式の簡易ショップの発想は、ブラジルの街角に沢山あるバールから得ているのに間違いない。
   サンパウロなどには、街路に面したビルの角などに、小さな飲料や軽食をサーブする止まり木形式の小さな椅子を置いた簡易ショップが必ずあって、人々は気楽に憩っていて重宝している。
   この発想で、安くて簡単にコーヒーが飲める場を提供して百円コーヒーを始めれば、今のコンビニでのコーヒーが流行っていることからも、成功は十分に推察ができる。
   要するに、ところ変われば品も変わるので、イノベーションになるのである。

   これも、再説で気が引けるのだが、イノベーションとして囃されている1000円散髪のQBハウスのケースである。
   私が、フィラデルフィアのウォートン・スクールで学んでいた時、イタリア人の散髪屋に通って居たのだが、いつも、「カットオンリー」であった。
   アメリカの散髪システムは、頭を刈って、髭を剃って、頭を洗って・・・と日本のように順繰りに整髪作業が進むのだが、途中で、止めても良い。
   日本人学生は、外人に剃刀を持たれるのは躊躇するので、殆ど、「カットオンリー」であった。
   カットした後、寮に帰って、頭を洗って髭を剃れば良いので、安上がりで簡便である。
   カット後の、バキュームの様な毛の吸い取りマシーンが違う程度で、QBハウスのシステムは、私がやっていた「カットオンリー」と殆ど変わりがないのである。

   少し極論かもしれないが、ところが変われば、品も変わってしまうので、上手く行けば、イノベーションとなって、ビジネスブレークすることがある。
   このあたりに、海外進出なり、日本での新規事業のヒントがあるような気がすると言うことである。
   
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わが庭・・・アガパンサス、シラン、昼咲き月見草

2017年05月07日 | わが庭の歳時記
   わが庭は、椿が終わると、一気に寂しくなる。
   これから咲き始めるバラやシャクヤクやユリやアジサイまでは、晩春から初夏に咲く花木や草花を、あまり植えていないので、寂しいのである。

   下草でひっそりと大人しく咲いているのは、アガパンサス、オダマキ、
   昼咲き月見草とシランは、結構、庭のあっちこっちに散らばっていて、妍を競っている。
   昼咲き月見草は、蕾の時は、だらしなく頭を垂らしているのだが、咲き始めると、一気に直立して花を開く、面白い習性を持っている。
   
   
   
   
   
   

   蕾を付けてスタンドバイしているのは、バラ、シャクヤク、ユリ、アジサイである。
   バラとシャクヤクは、早いものは、もう、2~3日で咲き始めるであろう。
   シャクヤクは、昨年夏に挿し木をした苗木も、蕾をつけているので、どのような花が咲くのか、楽しめそうである。
   
   
   
   
   

   昨年、剪定し過ぎて結実しなかった梅が、今年は、実が着いた。  
   梅酒をと思ったのだが、孫が梅ジュースと言うので、今年は、まず、ジュースを作ろう。
   まだ、小木だが、もみじの鴫立沢が芽吹いて、綺麗な葉を広げた。
   紅葉するまで、変化して行くのだが、暑い夏をうまく過ごすのが至難の業で、完全な形で、秋を迎えるのは難しい。
   
   
   

   花木や草花が動き始めると、小動物が訪れてくる。
   ジョウビタキやツグミなどの渡り鳥が去って寂しくなったが、何故か、この近辺では燕を見ない。
   鶯だけが、鳴き続けていて、和ませてくれる。
   まだ、蝶々やトンボを見ることは少ないのだが、小さな昆虫が動き始めている。
   交尾をする小動物を見ると感動する。広い世界で、良くベターハーフを見つけ得たものだと。
   
   

   椿は、花が終わったので、お礼肥えを施した。
   私の場合は、園芸書とは違って、ハイポネックスの液肥を使っていて、適当にインターバルを置いて、2回ほど施すと、綺麗な新芽が伸びる。
   5月後半から6月にかけて、やや、水やりをセーブすると、まずまずの花芽が着く。
   これで、庭植も鉢植えも、毎年、綺麗な花が咲き続ける。
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ミニトマトを二本仕立てで育てる

2017年05月05日 | ガーデニング
   トマトは、次から次へと、葉の付け根から脇芽が出てくるのだが、これを摘み取って、主柱の一本だけ伸ばして栽培するのが普通で、テキストなどにも、このように書かれている。
   しかし、私は、少し前から、二本仕立てで、ミニトマトを栽培している。
   主柱を二本にして、育てるのである。
   理屈から言えば、木に負担がかからねば、二倍のミニトマトが採れることになるのだが、そううまくは行かなくても、1・5倍くらいの増取にはなるであろう。
   尤も、私の場合は、増取を目的にするのではなく、トマト苗は、一本仕立てだと、苗によっては、2メートル以上になって、扱いに困るので、これを避けたいのである。
   二本仕立てだと、両方とも、第5花房程度で摘心すれば、2メートルくらいで止まる。

   やり方は、至って簡単。
   原則的には、第一花房のすぐ下の葉から伸びる脇芽を、そのまま伸ばして第二支柱として残して、その後は、一本仕立てと同じ手法で栽培を続ければよいのである。
   脇芽が沢山出るのだが、第一花房下の脇芽が一番勢いがあって元気だと言うことである。
   尤も、苗によっては、第一花房下の脇芽が貧弱である場合もあるので、その時は、残しておいた脇芽のうち、一番勢力の強い脇芽を、第二主柱にして残せばよい。
   

   私の場合には、プランター栽培であるので、比較的場所もセイブできるので、この二本仕立てで、重宝している。
   中玉トマトでも、今年は挑戦してみようと思っている。
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アマゾンの商法・・・「アマゾン1円詐欺」というのだが

2017年05月04日 | 生活随想・趣味
   今話題になっている「アマゾン1円詐欺」と言うことだが、残念ながら、私も、この記事がでる直前に、これに似た経験をして、失敗している。
   孫が、新発売の「仮面ライダーエグゼイド DXマキシマムマイティXガシャット 」が欲しいと言ったので、間違いなく、比較的安くて信頼のおけるアマゾンに予約を入れた。
   しかし、その商品ページの商品名のすぐ下に、「出品者からお求めいただけます」と書いてあって、その下の「新品」と言う項目で、アマゾンの半額の出店の表示があった。
   これまで、最安値を追っかけて失敗したことがなかったので、通常のマーケットプレイス店からの出店と思って、予約をきりかえてオーダーを入れた。

   アマゾンから、即刻予約の確認のメールが入った。
   ところが、数時間後に、在庫がなく30日以内に商品が入らないので、キャンセルすると言う一方的なメールが入ってきた。
   仕方がないので、アマゾンの方に再オーダーを入れようとしたが、既に完売で、マーケットプレイスの他の業者に変わっていて、送料込みで、はるかに高くなっていたので諦めた。
   翌日、同じように、この商品のページを開いたら、別のマーケットプレイスが、やはり、同様に安い価格を表示していたので、疑いもなくオーダーを入れた。
   しかし、予約確認のメールが来たのも同じなら、数時間後のキャンセルメールが来るのも、全く同じだった。

   翌日、クレームのために、アマゾンに電話を入れて抗議した。
   私のクレイムのポイントは、如何にアマゾンではなくマーケットプレイスの出店であろうとも、在庫がなくなった瞬間に販売を停止する、すなわち、在庫がなくなった瞬間に、アマゾンのページから、その販売をページから削除するのが、アマゾンのプログラミングの責任ではないかと言うことであった。
   しかし、アマゾンの返事は、そのあたりの管理は一切マーケットプレイスの出店側に一任していて関知していないと言うことであった。
   この時点で、私もアマゾンの担当者も、「アマゾン1円詐欺」事件が起こっていると言う認識がなかったので、商品の保有もなく架空の取引を表示して、カスタマー情報を盗み取ろうとする手口であることは分からなかった。
   押し問答しても仕方がなかったので、電話を切ったが、アマゾンが、マーケットプレイスの出店を十全に管理していないことだけは分かった。

   ところで、メディアの報道などで分かったことは、このような悪質なアマゾンアタックは、マーケットプレイスを乗っ取って、無茶苦茶な商品や価格で出店して混乱を招いたり、アマゾン利用者の情報を盗み取ることだと言うことであった。
   私の場合には、クレジットカードの決済でオーダーを入れたが、商品発送後の決済なので金銭的被害はなかったようだが、オーダー時に表示した個人情報は、そのまま、盗み散られていると言うことで、どのような被害が及ぶのか分からないところが、不安ではある。

   ところで、先の「仮面ライダーエグゼイド DXマキシマムマイティXガシャット 」のページだが、観察のためにフォローしていたが、数日、同じような格安業者の表示が社名を変えながら残っていたので、まだ、アマゾン顧客の情報盗み取りなり、詐欺行為が残っていたのであろう。

   さて、「アマゾン1円詐欺」と言うことだが、この詐欺とは関係なく、以前から、立派な文学書などまともな本が、マーケットプレイス出店で、1円で販売されていて、多くの実績を積んでいる。
   メディア報道によると、アマゾンが、送料257円と決めているので、実質送料との差額が出店側の利益になると言うのだが、アマゾンに出店料も払わなければならないから、殆ど利益にならず、むしろ、利用者のカスタマーレビューの高評価への底上げを期待しているのであろう。
   たとえ、本の価格が1円であっても、その出店マーケットプレイスに対するカスタマーレビュー数が多くて、高い評価%が表示されて居れば、問題ないと思っている。
   
   アマゾンを、比較的、他の通販と比べて信用していたので、今回のことは、一寸、ショックであるのだが、そんなに安くて有利なビジネスがある筈がないと心して、カスタマー自身が、賢くならなければならないと思う。
   ネットショッピングでは、支払っても商品が届かないなどと言った金銭トラブルが主体だったようだが、今回のケースは一寸異質で、やはり、リアルショップの方が安全だと言うことでもなかろうが、便利だとは言え、ネットショッピングには、結構落とし穴があると言うことであろう。
   
   
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ウィリアム・H・マクニールほか著「世界史 Ⅱ」共生関係の再構築

2017年05月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、本書において、著者たちの重要な提言は、格差解消の問題であったと書いたが、もう一つもっと注目すべきは、都市化の進展によって失われてしまった長年村落で培われて来た共生関係を新たに作り直す必要があると言う指摘である。

   この本の最後の文章は、
   二十世紀の主要な社会的変化は都市化と人口増加だった。5000年かそれ以上にわたって平均的な人間が経験してきたのは村落の生活で、文化的な挑戦や変化が生じるのは主に都市だとしても、イデオロギー、制度、習慣はいずれも、、まずは農村で発達したのであった。現在、人類の多くが経験しているのは、匿名性を帯びた非個人的な都市生活だ。この都市化は、・・・既存の政治の構造に対してだけではなく、支配的な宗教、イデオロギー、世界観芋大きな圧力をかけていた。社会的、政治的、心理的、倫理的、生態学的な意味で、大都会での生活に適応せざるを得ないことが、私たちの時代における深刻な問題の一つであることには間違いない。
   と言うのである。

   科学と社会の大変化によって、20世紀に入って、急速な人口増と並行して都市化の進展が顕著となった。
   都市化によって、道徳、宗教、アイデンティティ、政治、野心、教育、健康、娯楽など、人間を取り巻くあらゆる局面に影響を与え変化を引き起こした。
   それまでの人間は大抵の地域で、村落と言う場で、共同生活を送るすべを徐々に身に着け、あらゆる交流が個人同士の対面で行われ、どの人物の評判を誰もが知っており、対立を抑制するための風習が発展していた。
   ところが、都市においてはこうした風習や抑制が消滅し、掠奪的な振る舞いを思い止まらせるのは、法律、警察力、道徳教育だけになってしまい、都市に暮らしながら、円滑で安定した社会的関係を確保する方法や満足のいく道徳基準は、まだない。

   マクニールは、
   人類が長期にわたって生き延びて行くためには、顔と顔を突き合わせるような原初的コミュニティが、すなわち、私たちの祖先が所属していた、構成員が共通の意味や価値や目的を持ち、誰にとってもーーどんなに貧しくても、不運な者にとっても――人生が生きるに値するものであるコミュニティが必要だと言う。
   人類の未来にとって、最も重要な課題は、現在の人口、富、権力を維持している、世界を覆うグローバルな流れの中で、どうすれば、細胞の様な原初的なコミュニティが、こうした流れを妨害せず、また妨害もされることなく生き延び繁栄できるのかと言うことで、もう一度、共生関係を新たに作り直す必要がある。と説いているのである。

   尤も、マクニールは、自分の予感だとして、人類の回復能力は想像する以上に大きいことが明らかになるであろうと語って楽観視はしている。
   公序良俗が秩序と安寧を維持し自ずから人々の幸せのために機能するような市民社会を構築できると言うことであろうか。
   凄まじいほど波乱に富んだ激動の人類の世界史を読んだ後なので、余計に、人類の幸せとは、一体どんなことなのか、人類がそのために闘い抜いてきたはずなのだが、考えざるを得ない心境である。

   トインビー以来の大歴史学者のマクニールの人類の始まりから説き起こした壮大な世界の歴史であるから、5000年の村落と言う場で培われた原初的コミュニティーが、何を意味するのか、私には、もう一つ定かではないのだが、このような高邁な思想と言うか哲学で締めくくっている歴史書に、感激を覚えている。
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ウィリアム・H・マクニールほか著「世界史 Ⅱ」格差拡大の問題

2017年05月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   マクニールが、この本の最後で、「ウェブの圧力 1890年以降の世界」で論じている点に興味を感じた。

   1962年以降、医療と人口増加、石油などのエネルギー、科学的知識とテクノロジーの発達などで、長期的な経済の発展を遂げた。
   しかし、経済の金融化による経済格差やデジタル・デバイドによる情報へのアクセスの差など、深刻な格差拡大を惹起してしまった。
   20世紀後半以降の格差の拡大は、情報が自由に飛び交う電子的に統一されたウェブの中で起きており、10億人の貧しい人々が、カフェやバーにあるテレビやラジオ、他人の言葉や電子メディアを通して、残りの世界の大部分が自分たちより裕福で、十分な食料に恵まれ、健康で安全に暮らしていることを認識しており、彼らが黙って今の立場に甘んじているとは思えない。と言う。

   まず、政治経済情勢の把握だが、
   経済発展のドライブ要因は、人口増、エネルギー、科学技術の進歩と特定しており、
   1914年以前の国際的な資本移動は、債権、鉄道、工場への長期的な投資が大部分であったのに対して、1980年以降は株式や通貨を物色する短期的投資になり、これが指数関数的に増加して、外国為替市場の急増で世界貿易が見劣りするようになった、すなわち、経済の金融化が経済構造をスキューさせた。
   また、この収入源が、労働から資本に移るのを助け、社会の内部や、社会間の不平等を急速に拡大させた。
   一方、輸送コストの減少や、世界の状況に関する情報がICT革命によって極めて安価になり、グローバリゼーションの進展にも呼応して、欧米や中東などを筆頭に移民受け入れ余力の拡大で、移民の増大によって、新たな緊張を生み出した。と論じている。
   多少、ニュアンスには疑問はあるが、現在の情勢把握としては異存はない。

   マクニールの論点で興味深いのは、格差の拡大として、経済的な格差以外に、デジタル・デバイドが、不平等の歴史に新しい項目を付け加えたとして、ICTへのアプローチ如何を格差要因として語っていることである。
   こう言った認識があるからこそ、ICT,情報革命によって、世界の人々の多くが豊かな消費や飽食状況にあるなど情報が丸見えになる世界で、BOP,最貧困層が、目を瞠るような経済格差に直面していると言う危機的な状況が、如何に危険かを、警告しているのである。

   このマクニールの問題意識は、確かに、現実的には考え得る指摘だとは思う。
   しかし、2010年に、チュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及したアラブの春を考えてみれば、正に、ツィッターやフェイスブックなどのSNSが大きな役割を果たした現下のICT革命にバックアップされた革命騒ぎではあったが、殆ど何の進展も果たし得ていない。
   問題意識はあっても、大きなうねりとしての改革は難しく、もし、経済状態の向上や貧困の撲滅に、多少なりとも貢献したと考えられるとしたら、中国やインドなどの新興国の経済成長によって、それらの国民の生活水準の向上で最貧状態から抜け得たと言うことであろうか。

   しかし、この経済成長も、資本主義システムの欠陥ゆえに、逆に、格差の拡大を増幅させて、新しい深刻な問題を引き起こしている。
   むしろ、黙っていないとすれば、アフリカや南アジアのBOP、最貧層ではなくて、先進国なり、新興国などの経済格差に怒りを覚えている「We are the 99%」の方だと思っている。
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国立能楽堂・・・「狂言の会」、そして、新宿御苑

2017年05月01日 | 能・狂言
   家・世代を越えてと、銘打ったこの「狂言の会」は、和泉流「二人袴」、和泉流「咲嘩」、大蔵流「首引き」の3曲が上演されたのだが、夫々、野村万作、野村萬、山本東次郎と言う人間国宝がシテを演じると言う豪華版であった。

   まず、「二人袴」は、「聟狂言」の一曲である。、
   頼りない息子(野口隆行)が聟入りするのに、不安なので父親に付いて来てくれと言うので、付いて行ったは良いが、付き添いに来たことが太郎冠者(奥津健太郎)に見つかって、舅(三宅右近)に、親子ともども座敷で会うことを促される。ところが、袴が一つしかないので、止むおえず、袴を前後に割いて、半分ずつを前にあてて横歩きで登場したものの、盃事の時に、舞を所望され、後ろを見られないように注意して舞うのだが、親子と舅との三人の相舞になって、太郎冠者に袴の後ろがないことが見つかって、大恥をかく、と言う話。

   野村万作は、聟の親を演じる。
   いぶし銀の様な渋くて端正な芸が感動的である。

   ところで、「聟入り」とは、結婚後初めて夫が妻の実家へ挨拶に行くことで、儀式でもあったので、作法がある。
   初めてのことでもあり、聟は何も知らないので、その作法を教えてもらうのだが、教え手が、無茶苦茶教えて恥をかいたり、聟の無才や無知を笑うことが主題だったりするのだが、祝儀であるため、舅が聟の失敗をとりなすと言う形で終わることが多い。
   しかし、この曲でもそうだが、「お初にお目にかかります」と言うことが多いのだが、家と家との結婚と言う伝統があった筈でありながら、結婚制度がどうなっていたのか、いまだに良く分からず、疑問に思っている。
   とにかく、この親子のように、子離れ親離れできない過保護の親子が、狂言のテーマになっており、時代が変わっての、親子の情は同じなのであろう。

   「咲嘩」は、「小名狂言」の一曲。
   主(三宅近成)が、次回の連歌の会の当番になったので、都に住む伯父御に宗匠に頼もうと思って、太郎冠者を呼びにやるのだが、伯父を知らないので、都で呼ばわっていると、咲嘩(高澤祐介)が叔父だと偽ったので、伯父だと思って連れ帰る。主は、それが、名うての「見乞の咲嘩」だと知ってびっくりして、荒立てないように、座敷へ上げて、太郎冠者に相手をさせる。陰に隠れて、太郎冠者に対応の指図をするのだが、頓珍漢ばかりするので、自分が変わって、太郎冠者に、自分が言ったとおりにせよと指図する。ところが、太郎冠者が全く自分の言うとおりにするので、怒って打擲すると、同じように太郎冠者が咲嘩を打ち据える。

   勿論、太郎冠者を演じるのは、野村萬で、孫のように若い二人を相手に、元気溌剌矍鑠たるエネルギッシュな冴えた芸を披露する。

   最後の「首引」は、鬼狂言で、登場人物は、アドの鎮西八郎為朝(善竹隆平)以外は、総て鬼で、山本東次郎の親鬼、姫鬼(善竹隆司)、五人の眷属が、面をつけて鬼装束で登場する、カラフルで見せる面白い曲である。

   為朝が、播磨の印南野で、鬼に出くわし、取って食おうと追いかけたが、若い良い男なので、姫鬼の食い初めにしようと、姫鬼を呼ぶ。姫鬼は、為朝に挑むが歯が立たず、為朝は、姫鬼と勝負して、負ければ食われようと、腕押し、脛押しをして勝つ。最後に。首引をすることになり、二人は、首に掛け布を掛けて引き合うのだが、姫鬼の力が弱いので、親鬼は、眷属の鬼たちを呼んで加勢させる。鬼たちは姫鬼の後ろに数珠つなぎに取り付き、親鬼が扇を開いて音頭を取って引くのだが、徐々に引き込まれ、為朝は、頃合いを見計らって、首に掛けた布を外すと、鬼たちは床几倒しに倒れる。為朝は幕に走り込み、鬼たちが追いかける。

   東次郎は、厳つい面をつけて鬼衣装に身を包んで、若々しくダイナミックに親鬼を演じているので壮年期の演技だが、二人の人間国宝と6~7歳若いとしても、80歳目前。
   とにかく、狂言の大家は皆揃って、何故、これほどまでに、元気溌剌として、全く、芸の衰えを見せないのか、いつもびっくりしながら、益々の芸の冴えと深みへの姿に感動している。

   この「首引」で、面白かったのは、眷属たちが、姫鬼の後ろに数珠つなぎになる時、夫々が首に短い白い布を掛けて出て、両手で持って前の鬼の肩に掛けると、一瞬に、全員が繋がっているように見えることである。
   登場直後は、厳つくて獰猛な鬼だが、姫鬼が登場し、旗色が悪くなり始めると、トーンダウンして人間の親のように優しさ弱さが出てきたり、眷属たちの掛け声に合わせて、扇で音頭をとる姿は、子どもの運動会・・・とにかく、そのあたりの東次郎の心の揺れ動きの描写が心憎いほど上手い。

   ところで、為朝と姫鬼との3番勝負だが、これは、中世に流行した男の力比べだったと言うのだが、いくら鬼だと言っても、脛押しとは、どうであろうか。
   姫鬼が「腹押しならばせう」と言う場合もあったと言うのだが、何となく猥雑ムード、これも狂言なのであろう。

   この日、3時過ぎに公演が終わったので、一寸、荒れ模様だったが、千駄ヶ谷門から、新宿御苑に入った。
   土曜日だったので、人が混んでいたが、八重桜だけは、見頃で、藤棚が一つだけ綺麗に咲いていたが、殆ど、殺風景で見頃の景観はなく、いつものように、日本庭園を素通りして、御苑を出た。
   
   
   
   
   
   
   
   


   
   
   
   
   


   
   
   
   
   
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