熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「見えざる手」論は、A・スミスではなくB・マンデヴィル

2017年05月24日 | 政治・経済・社会
   アダム・スミスは、国富論において、
   市場経済では、「見えざる手」の導きによって、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分がなされて、社会全体の利益となる望ましい状況が達成されると書いたとして、「見えざる手」は、スミスがコインした理論だと言うのが通説である。
   しかし、先にブックレビューした「善と悪の経済学」で、 トーマス・セドラチェクは、この言葉は、アダム・スミスではなく、バーナード・マンデヴィル((Bernard de Mandeville、1670年11月20日 - 1733年1月21日 オランダ生まれのイギリスの精神科医で思想家、主著『蜂の寓話)が説いた理論だと言っている。

   スミスは、見えざる手と言う言葉は、著作の中で3回しか使用しておらず、一つは「国富論」で個人の利己心の追求を調整する装置として、もう一つは「道徳感情論」で社会的な再配分の装置として、そして、最後は「天文学」で、万能神の力としてである。
   「国富論」の肉屋やパン屋の主人が商売をするのは博愛心を発揮するからではなく利益を上げるためであって、「だが、それによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分が全く意図していなかった目的を達成する働きを促進することになる。」と言う箇所が、スミスの「見えざる手」論の根拠だが、別に、スミスが言ったとしても、間違いではなかろう。
   しかし、スミスはこの程度しか論じておらず、そもそも、この「見えざる手」の概念を最初に本格的に唱えたのは、マンデヴィルだと言うのがセドラチェクの言い分である。

   マンデヴィルの説くのは、明らかに利己心、利己主義の原理に依拠しているので、スミスとは視点が違っている。
   人間から悪徳を、具体的には利己心を取り除こうとすれば、繁栄は終わる。
   なぜなら、悪徳こそが、財(贅沢な衣装、食事、邸宅等々)、あるいは、サービス(警察、規則、弁護士等々)の有効需要を形成するからで、発達した社会は、こうしたニーズが経済的に満たされることによって成り立っている。と主張するのである。

   強欲は社会の進歩に必要な条件であり、強欲なくては進歩もない。
   強欲なしで、悪徳なしで、どこまで行けると思っているのか、社会は発展の初期段階で頓挫し国際競争にも勝てない。
   欲しいものとすでに持っているものとの間に差がある時には、需要が満たされるまで所有を増やすべきである。
   マンデヴィルの凄いところは、進歩を実現する唯一の道は、とにかく、需要を増すことだと言ったと言うのであるから、ケインズばりの近代経済理論を展開していたのである。

   とにかく、このセドラチェクの本は、面白くて楽しめる。
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