熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

沼野正子著「今宵も歌舞伎へまいります」

2011年01月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   積読だった絵本作家の沼野正子さんの「今宵も歌舞伎へまいります」を読み始めたのだが、女性ファンの視線からの歌舞伎・文楽三昧の軽妙な語り口が非常に面白く、楽しませて貰った。
   冒頭の歌舞伎の演目は数々あれどでは、三大名作から伊賀上野道中双六や東海道四谷怪談などの通し狂言を、歌舞伎と文楽とを綯い交ぜに観劇記を交えながら、筋を追って解説をしていると言った感じなのだが、私の見方などとは大分違っていて、新鮮な発見があって面白い。
   男が女に扮し、さらに特定の女の役になると言う不思議のもとを、つきとめたいと言うことで、女形の舞台を感じたままを追って行くと言う書き出しなのだが、結構、玉男の人形の素晴らしさに惚れ込んだりして、中村吉右衛門など立役の世界も語っている。

   この本で面白いのは、絵本作家なので、歌舞伎の物語などに対する印象記のエッセンスと言うかその思いを、珍版・お猫歌舞伎と言うタイトルで、コミカルな絵にして描いていることである。
   たとえば、義経千本桜で、いがみの権太が、内侍と若君の身代わりとして、自分の息子善太と妻小せんを縛り上げて差し出すのだが、挿画では、そのシーンの下に、おさとが、静に、二人の助命嘆願書を差し出すと、まかせて、と受け取るシーンを描き、猫が、ネ・ネ こうしてあげたいワと語ると言う具合である。
   仮名手本忠臣蔵では、殿が殿中で刃傷に及んでいた最中に濡れ場に熱中して忠義を尽くせなかった勘平を、おかるが、わたしの実家へ行けばなんとかなるワと袖を引く道中姿を描き、その下に 一力の茶屋の場であろうか、由良さまにだまされたいワー と おかるが顔を赤らめるシーンなどを描き、猫が、おかるってカルすぎません?そりや お軽ですから と会話を交わす。
   
   妹背山婦女庭訓で、雀右衛門のお三輪の稚く、一途な恋の乙女振り! 愛らしさについて、当時20歳そこそこであった求女の辰之助(松緑)、橘姫の菊之助と比べて3倍以上なのだが、歳の差など感じなかったと感嘆している。
   私などは、どうしても演じている歌舞伎役者の年齢や地の姿が濃厚に頭にインプットされてしまっていて、素直に見られないのだが、時々、このように新鮮なショックを受けて感激することがある。
   その点、文楽の場合には、人形遣いの年齢や姿形ではなく、人形そのものの演技ドラマを見ているので、邪念やイル―ジョンが入り込まないので良いのかも知れない。

   道中おだまき・御殿の場のお三輪だが、「14,5歳の女の子が恋におちて、一度でも相手の男にうけいれられたら、後はもう人生すべて、恋する男のことばかりになってしまう。」と沼野さんは言う。
   そうだ、歌舞伎の舞台では、立派な女形が演じるのばかり見ているので、まだ、幼さの抜けきらない一途に男を思い詰める田舎娘であることを忘れてしまっていたので、考え過ぎておかしな解釈をしていたのだと言うことに気が付いた。
   高貴の奥方北の方などと言われても嬉しくも何ともない、一途に恋しい求女に一目会いたいと希いながら果てたのである。
   
   沼野さんの通し狂言の筋書き解説の中で、二つだけ、何故、解説で、そこだけ端折ったのか気になったところがあった。
   一つ目は、忠臣蔵の一力茶屋の場の大詰めで、由良之助が、おかるに、死んだ夫勘平の代わりに刀を持たせて九太夫を突き刺すシーン。
   もう一つは、伊賀越道中双六の沼津のこれも大詰めで、金包みの中に残された書付を見て、十兵衛が、平作の子供であり、お米の兄であることを二人が知ると言うこと。
   どうでも良いことかも知れないが、これらの物語の核心部分の一つであると思ったからである。

   第二部の贔屓の道はどこまでも や 第三部の死ぬも生きるも女でござる も、私には、非常に新鮮で面白かった。
   とにかく、私など、理屈から歌舞伎や文楽の世界を見ようとする悪弊があるので、このようなユーモア溢れた経験豊かで詩心が漂う含蓄のある観劇録を読んでいると、大変参考になる。
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