熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ヘンリー・フォードのT型車イノベーションの明暗

2011年01月18日 | 経営・ビジネス
   今回も、スチュアート・クレイナーの「マネジメントの世紀」のフォードの章「モダン・タイムス」の記事について考えたい。
   驚くなかれ、今から100年近く前、フォードのハイランド・パーク工場では、1910年の創業から1927年までに1500万台のT型車が生産されたと言う。
   既に、アメリカの資本主義が、相当高い水準まで進んでいたと言うことだが、この大量生産の根幹は、流れ作業の組み立てラインにある。
   
   この組み立てラインは、それ以前の1870年代に、中西部の食品加工業で用いられており、フォードもシカゴの食肉包装工場に視察に行ったと言う。
   しかし、フォードが組み立てラインを実際に思いついたのは、1906年に開業したシアーズ・ローバックのシカゴのメールオーダー工場が切っ掛けで、一旦注文が入ると配送時間などタイム・スケジュールを決めて、ずらりと並んだベルトと荷分けスロープに商品を流して納品と出荷を繋ぐと言う流れ作業のラインである。

   もう一つ流れ作業の組み立てライン・システムを可能にしたのは、交換可能な部品の生産の概念で、このイノベーションは、綿繰り機の発明者イーライ・ホイットニーに帰するとクレイナーは言う。
   これも、既に、18世紀に時計の生産やフランスの鉄砲鍛冶で実施されていたのだが、いずれにしろ、この流れ作業や部品交換の概念によって編み出された流れ作業組み立てライン・システムは、労働者の思考の必要性や動きを最小限に抑えて、彼らが、最も効率的に一つの行為を行うために厳格に業務を分割した究極のシステムであり、これまで主流であったクラフトマンシップを放逐し、技能を持たない労働者を使うことを可能にしたのである。
   フォードは、仕事から技能を取り去ったとの非難にたいして、計画や経営、手法の構築に、むしろ、技能を取り入れて、技能を持たない人にも出来るようにしたのだと抗弁している。

   T型車を生み出したフォードの精神は、それまで、車は限られた人々のものだったが、車は世界を変えると言う強い信念を持っていたので、人々が手の届くような価格に下げて大衆化を目指すことであったから、素晴らしくシンプルであって、ウインド・シールド・ワイパーや燃料メーター、スピード・メーター、バッテリー、バックミラーもなかった。(実際には、付属品を付けられると言うことなので、何千もアクセサリーのあるシアーズのカタログを見て揃えれば、自分でT型フォードをカスタマイズできた。)

   フォードの売り文句は、「フォードを買って、差額は他のものに使おう。」だったので、フォードは、継続的に容赦ない生産コスト削減に没頭し、取りつかれたように、熱心に、T型車の価格を削減した。
   低コストの追及の中で、フォードは最先端の生産技術を開発し続けたのである。
   
   コスト低減の要求が進むにつれて、フォードは次第に重点を生産体制のコントロールに置き始めて、原材料や部品の納品や供給業者への要求強化や締め付けを行った。
   後にGMのカリスマ社長となるアルフレッド・スローンが、下請けのローラー・ベアリング会社の役員をしていたことがあり、失敗して生産ラインを遅らせるような致命的なミスを犯せばどんなことになるのか、その恐怖を記録に残していると言うから面白い。

   更に、フォードのコスト削減戦略が進むと、自給自足がフォードの新しいお題目となり、買収に買収を重ねて、川上から川下まで、究極の垂直統合企業になって行ったと言う。
   このようなフォードの革新的な経営戦略の遂行とイノベイティブな経営によって、フォードが破竹の勢いで驀進して行ったのだが、この栄華は、1920年代がピークで、その後、少しずつ業績が陰り始めて来た。

   フォード帝国の問題点は、フォードの経営スタイルや思考への貢献にあった。
   まず、1914年に導入した日給5ドル制度だが、これは単なる優れた広告であり、高い転職率と言うビジネス問題の解決法であり、フォードが、「私の考案した賢いコスト削減措置」と呼んでいたように、フォードの経営戦略には慈悲と言う概念はなかったし、この5ドル制も好不況で変動し、大恐慌時には、4ドルとなり他企業より低かった。
   もっと酷かったのは、労働者は働くために、また、指示されたことをやるためにいるので、より厳格な規律がないと極度の混乱に陥るとして、厳格な規律の維持のために、「社会学部門」を創設して徹底的に従業員を監視したのである。
   フォードのやり方で働くのが嫌いな人間は去れと言うのは勿論だが、労組の組織化を支持、飲酒やギャンブル、経済的な問題を抱える、喫煙者、ユダヤ人、住込みの外国人労働者等々、問題ありとされた従業員は、どんどん解雇されるなど恐怖政治さながらであったらしい。
   
   クレイナーは、「フォードは恐怖と不信の上に企業を作り上げた。同社が大きな成功を収めたからと言って、この点を見逃してはならない。」と言う。
   フォードの人材管理は酷いもので、その成功は限定的なものとなり、初期の革新は、やがて停滞した。当初は、改善のための継続的な追及を特徴としていたが、フォードは基本のT型車の技術を変更することを拒み、手遅れとなり、新しいA型車を1927年に出したが、既に他社にシェアを奪われていた。
   フォードの根本的な失敗は、彼が成功で無限の支配力を得たと信じてしまい、その成功に慢心に陥ったことだと言うのである。

   余程、フォードの傲慢な経営哲学が嫌いなのか、非常に興味深いのは、ヘンリー・フォードに啓発された一人として松下幸之助に言及して、松下とフォードの決定的な違いは、松下は強いモラルと倫理の要素をビジネスに対して持っていたことで、会社は単なる生産のための道具ではなく、社会や個人の便益の媒体だと考えていたことだと言っている。
   利益だけでは不十分で、貧困を克服して窮乏から社会全体を救い、社会生活の改善と向上を図り、世界文化の発展に寄与しなければならないと言った幸之助経営哲学を披露しているのも、やはり、イギリスのジャーナリストであるからであろうか。
   しかし、文明社会を、そして、資本主義を、ここまで発展させた偉大な貢献と功績は、やはり、不世出の偉大なイノベーターでありアンテルプルナー・ヘンリー・フォードあったればこそであることは、厳粛な歴史上の事実であろうと思う。

   今回は、フォード経営の紹介だけに終わってしまったが、久しぶりに、アルフレッド・スローンの「GMとともに」を読んで、当時の自動車産業を勉強しなおそうかと思っている。
   最初のクライアントがスローンであったから、駆け出し時代のドラッカーが見えてくるかも知れない。   

 (追記)写真は、FORD社のHPから借用
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