熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場:初春歌舞伎・・・四天王御江戸鏑

2011年01月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この通し狂言「四天王御江戸鏑」は、1815年、江戸・中村座の顔見世狂言として、当時の人気役者を揃えた大一座のために、鶴屋南北と並ぶ人気作者・福森久助が執筆したもので、三代目尾上菊五郎の襲名を兼ねた舞台で初演されたと言う。
   当時の錦絵や福森久助の作品などを参考にして、現代風にアレンジして、今回、ほぼ200年ぶりに上演されたと言うのだが、とにかく、あっちこっち、どこかで見たような舞台が随所にあり、時代物あり、世話物あり、濡れ場もあれば大立ち回りもあると言ったサービス精神旺盛なアラカルトメニューを寄せ集めたような不思議な歌舞伎になっている。

   見ていて、歌舞伎役者や江戸風物の浮世絵を、モダンテクニックで動画化した感じである。
   舞台展開を、現代のハイテク装置を上手く活用して、不自然さの全くない尾上菊之助の土蜘蛛の宙乗りを成功させたり巨大な土蜘蛛を動かせたり、また、お土砂を降り掛けると柱まで曲がってツイストするし、AKB48を真似て踊る少女ダンサーの三宅坂48の派手な踊りなどは光も音も紅白歌合戦並みで、戦場カメラマンの登場に至ってはご愛嬌だが、とにかく、遊び心満点である。
   後半の、土蜘蛛の精と平井保昌との戦いの場のシーンなどは、舞台のセットや真っ赤に燃えた照明などのスペクタクルは、ワーグナーのワルキューレの舞台を見ているような感じであった。
   土蜘蛛の精の菊之助の撒く糸の適格さやその美しさは、格別である。
   その分と言うよりも、能の題材を辿りながらも、奇想天外な話の寄せ集めや、千両役者の見せ場を作るための舞台展開に終始しているのか、話の筋などあってないような感じで、シェイクスピアを見るようなつもりで舞台を見ていると、肩透かしを食う。
   
   話の骨格は、父平将門の意思を継いだ相馬太郎良門(菊五郎)が、葛城山の土蜘蛛パワー、すなわち、母親の茨木婆(時蔵)とその子土蜘蛛の精(菊五郎)の力を借りて、源家へ復讐と謀反を企てて、一条院(菊五郎)、源頼光(時蔵)、渡辺綱(菊五郎)ほか四天王、平井保昌(松緑)などと、内侍所の御鏡と繋馬の旗を巡って、虚々実々の駆け引きを展開しながら闘うと言う筋書きである。
   酒呑童子とその弟子茨木童子が源頼光に滅ぼされる(実際には滅ぼされていないと言う説もある)と言う話の焼き直しであり、土蜘蛛は、音羽屋のお家芸・新古演劇十種の一つである。
   ところで、この音羽屋の十種は、成田屋の荒事などとは違って、身替り座禅以外は怪談狂言ばかりだと言うのだが、江戸の歌舞伎ファンは、案外、現実には有り得ないような奇想天外でスケールの大きな芝居が好きで、豪快だとか美しいとか奇異だとか、役者たちの傑出した立ち居振る舞いやパーフォーマンスに熱狂したのであろうか。その美の瞬間を凝縮した見得や錦絵が人気が出るのも当然であろう。
   その点、上方の芝居は、近松門左衛門の浄瑠璃から多くを得ているので、どちらかと言えば、物語があって、どこか、シェイクスピアに近いような気がする。

   敵味方に分かれての争いと失われた家宝の奪い合い、そして、仇討しか、日本の芝居にはテーマがないのかと思うほど、歌舞伎はワンパターンなのだが、この芝居では、何故か、世話物の舞台が挿入されていて、渡辺綱が鳶頭中組の綱五郎となって、土蜘蛛の精が化けた女郎花咲と恋に堕ちてしっぽりとした濡れ場を演じる。
   何回か見慣れると、菊五郎と菊之助親子の男女の微妙なシーンも気にならなくなってくるのが面白い。
   母親の茨木婆を演じる時蔵も、えげつないやり手婆ぶりを発揮していて面白い。時蔵は、今回、源頼光で男役をやっているが、他の女形役者が男役を演じても何となく女の雰囲気を残しているのだが、全くそれを感じさせず溌剌とした男ぶりで、見ていて気持ちが良い。
   この芝居で、唯一女らしい女を演じるのは、弁の内侍の梅枝だけだが、綱の菊五郎にアタックするところなど、中々、ムードがあってよく、その仲立ちを、実父・時蔵の茨木婆に頼むあたりの会話も面白い。
   都を騒がせる盗賊袴垂保輔と頼光の忠臣平井安昌を演じる松緑は、両方ともはまり役で、伴森右衛門の團蔵と共に、個性豊かな演技で持ち味を十分に出していて面白い。

   国立劇場では、眠っていた古典歌舞伎を、現代に蘇らせるべく、意欲的に試みていて非常に興味深い。
   古典をそのままでと言っても、当時の舞台が分からないので、その再演などは無理なのだが、シェイクスピア戯曲と同じで、シェイクスピアを聴きに行くとか、或いは、文楽鑑賞に、浄瑠璃を聴きに行くと言った当時の舞台観とは全く違っていて、技術の飛躍的進歩で、光も音も芝居を作り出す総合的な環境が様変わりしているので、如何に、蘇らせるのかは非常に難しいと思う。
   今回の舞台を見ていて、華やかで面白く、アラカルトの多くの見せ場があって、それなりに楽しませて貰ったが、何となく、芝居としての物語性とか、感動とは行かないにしても、後味の良さと言った芝居の醍醐味から離れていたような感じがしたのは、あまりにも、懲りすぎてサービス精神が旺盛であったからであろうか。
   
   
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