
西野壮平の「Diorama Map」が展示されていると言うので、東京都写真美術館へ「写真の飛躍」展を見に出かけた。
5人の日本の新進写真家による作品展であったが、夫々、非常にユニークな手法と表現による斬新な写真ばかりであり、私のような古い人間にとっては、現代音楽やモダン・アートを見る時に感じるのと良く似た違和感と戸惑いが先に立って、楽しむと言うところまでには、時間が掛かりそうに感じた。
私自身が、興味を持ったのは北野謙の「our face」と言う一連の肖像画を沢山重ねてモノクロに焼き付けて、真ん中に一人だけ浮かび上がらせたほぼ等身大の写真で、暗いモノトーンの作品だが、何か語りかけているようで、印象に残った。
私は、写真でも絵画でも、或いは、芝居でも踊りでも、美しくなければならないと言う主義なので、いくらリアリズムだと言っても、何か分からないような嫌悪感を感じさせるような奇をてらった作品を見るのは好きではないので、それだけ、芸術に対する感受性が、ワンテンポ遅いのかも知れない。
ところで、西野壮平の写真だが、今回は、随分巨大な作品で、大きいのは2メートル四方もあり、以前見た時よりも、作品の密度が一気に巨大化濃密化していて、訴えかける迫力も増している。
東京と広島の日本の都市以外は、ニューヨーク、香港、ロンドン、イスタンブール、リオ・デ・ジャネイロ、パリ、ベルリンと言った外国の大都市で、夫々、何度か訪れているので、興味深く丁寧に見た。
今回は、人物写真を多く取り込んでいて、実際の都市の息吹を感じさせていて興味深かった。
「決して正確な地図ではなく、あくまで旅の視点で見た私自身の”記憶”そのものである」と西野が言っているように、実際にその場所に住んでいて感じていた私自身のロンドンやリオとは、かなり、印象が違っていて、別な都市と言う感じさえしたので、見る人によって姿や印象が変わるのであろう。
例えば、隣で見ていた中年の婦人グループが、東京の作品を見ながら、ここが雷門、あそこが国会議事堂と言った調子で自分の知っているところを指さしながら語り合っていたのだが、要するに、見る人は、自分の関心のある場所が、真っ先に興味の対象となって、そこから、この作品の鑑賞が始まると言うことである。
私自身、ニューヨークを見て、真っ先に探したのは、METのあるリンカーン・センターで、次は、メトロポリタン・ミュージアムであったが、良く分からなかったし、ロンドンのコベント・ガーデンなども探せなかった。
結局、地図ではないと言うけれど、鑑賞者は、どうしても、作品の全体図ではなくて、個々の場所に拘って作品を見てしまって、自分の印象にある都市のイメージで見てしまえば、西野の意図する作品へのイメージの拡大や、想像の広がりなどまで行かずに止まってしまうのではないかと言う気がする。
それに、私自身、ロンドン上空をヘリで飛んだ時、色々な建物を、或いは、リオを飛行機で飛んだ時、コルコバードやコパカバーナなどを撮ったことがあるが、それ等は遇で、西野の場合には、大半、高い構築物の上からの撮影であろうし、これらの写真をコラージュしてバードアイ・イメージを現出しているのだから、凄いと言えば凄いが、自ずから限界がある。例えば、アムステルダムなど高い建物などないから、このようなジオラマは作画し難い。
とにかく、非常に細かい詳細な写真によるモザイク作品なので、全体像の鑑賞と言うのではなく、どうしても鑑賞者を細部に拘らせてしまうきらいがあり、作品の美しさや芸術性と言うよりも、情報と表現の面白さに関心が行ってしまうので、それを突破してどのようにブレイクスルーするのかと言うことであろうか。
確かに、都市の景観を可能な限り、あらゆる視点から、特に、高みに上って膨大な写真を撮って、根気良く創造力とイマジネーションを駆使して巨大かつ緻密な作品に仕上げると言うことは、大変なことであり、その斬新な作品作りの手法とアイデアは見上げたものであり、ここまで、作品を創り上げて磨き上げてきた手腕には脱帽である。
今のところ、地図を念頭に置いて作画しているので、殆どの写真は、南から北に向かって写したものであり、それらをコラージュして空からの鳥瞰図的な作品に仕上げているので、鑑賞者も、その都市をイメージし易い。
さて、そのスタートの段階が終わったとすれば、これからだが、激動して止まぬ実際に生きて蠢いている現存する実在の都市と言うイメージが、あまりにも強烈であり、それを一瞬で切り取った作品で、どこまで、その都市の息吹なり鼓動を表現できるのか。その強烈なイメージから脱却して、どこまで、その都市の持つ実像を芸術の域にまで活写できるのか、西田の感性と芸術性、そして創造力が問われて来ると言うことであろう。
ところで、ついでに展示されている「ストリート・ライフ」だが、ヨーロッパを見つめた欧米の7人の写真家たちのクラシックな映像が、非常に興味をそそって、見ていて、懐かしさえ感じた。
私が知っていたのは、ウジェーヌ・アジェとブラッサイだけだったが、どちらかと言えば、モノクロのピントがしっかりと合った硬い形の変色した写真のリアルな造形は、美しさと言うよりも感動的である。
ブラッサイは、塔や公共建物や構築物、街角などを寫した夜景が並んでいたが、淡くくすんだ光が印象的で、昔、凍てつくように寒い極寒のヨーロッパの街角を、襟を立てて歩きながら、ホテルに帰った時の、懐かしい思い出を蘇らせてくれたが、最後の方に、「ベイ・ブイエールの人混み、モンパルナス」と言う作品で、キャバレーらしき所で、上半身裸の踊り子(?)を紳士たちが囲んでいる写真を見て、ロートレックの絵画の雰囲気を感じたり、色々なヨーロッパのことどもを感じていた。
同じ街角の風景だが、開発前のグラスゴーを寫したトーマス・アナンの写真には、殆どどの写真にも、どこかに、人の姿が写っていて、面白いと思った。
アジェの作品は、街角のコーナーの店や、室内、門扉の金具、公園の石の彫像など色々なモチーフが展示されていた。
ハインリッヒ・ツィレの作品は、荷車を引く女労働者の写真が主体で、それも、殆ど女たちの後姿ばかりなのに興味を感じた。
ジョン・トムソンの写真は、19世紀後半の写真で、絵葉書より小さいのだが、当時の職人や働く人と言った庶民の肖像画が殆どで、当時の面影を見た映画と重ね合わせながら鑑賞させて貰って面白かった。
同じように、アウグスト・ザンダーの作品には、色々な働く人や、企業家や役人や専門職と言った階級の違いや、それらの家族の写真などの記念写真のような肖像写真が多かったが、半世紀後くらいの姿なので、その違いに興味を感じた。
ビル・ブラントの作品は、鉄鋼の街ハリファックスのくすんだ街の景観が印象的で、モノクロで画面が暗い所為もあって、水桶を持った少女を寫した「イースト・エンド」の写真も良いと思ったが、何となく、印象が暗かった。
久しぶりに、美術館に行って、じっくりと写真を鑑賞することが出来て、有意義な午後を過ごすことが出来た。
5人の日本の新進写真家による作品展であったが、夫々、非常にユニークな手法と表現による斬新な写真ばかりであり、私のような古い人間にとっては、現代音楽やモダン・アートを見る時に感じるのと良く似た違和感と戸惑いが先に立って、楽しむと言うところまでには、時間が掛かりそうに感じた。
私自身が、興味を持ったのは北野謙の「our face」と言う一連の肖像画を沢山重ねてモノクロに焼き付けて、真ん中に一人だけ浮かび上がらせたほぼ等身大の写真で、暗いモノトーンの作品だが、何か語りかけているようで、印象に残った。
私は、写真でも絵画でも、或いは、芝居でも踊りでも、美しくなければならないと言う主義なので、いくらリアリズムだと言っても、何か分からないような嫌悪感を感じさせるような奇をてらった作品を見るのは好きではないので、それだけ、芸術に対する感受性が、ワンテンポ遅いのかも知れない。
ところで、西野壮平の写真だが、今回は、随分巨大な作品で、大きいのは2メートル四方もあり、以前見た時よりも、作品の密度が一気に巨大化濃密化していて、訴えかける迫力も増している。
東京と広島の日本の都市以外は、ニューヨーク、香港、ロンドン、イスタンブール、リオ・デ・ジャネイロ、パリ、ベルリンと言った外国の大都市で、夫々、何度か訪れているので、興味深く丁寧に見た。
今回は、人物写真を多く取り込んでいて、実際の都市の息吹を感じさせていて興味深かった。
「決して正確な地図ではなく、あくまで旅の視点で見た私自身の”記憶”そのものである」と西野が言っているように、実際にその場所に住んでいて感じていた私自身のロンドンやリオとは、かなり、印象が違っていて、別な都市と言う感じさえしたので、見る人によって姿や印象が変わるのであろう。
例えば、隣で見ていた中年の婦人グループが、東京の作品を見ながら、ここが雷門、あそこが国会議事堂と言った調子で自分の知っているところを指さしながら語り合っていたのだが、要するに、見る人は、自分の関心のある場所が、真っ先に興味の対象となって、そこから、この作品の鑑賞が始まると言うことである。
私自身、ニューヨークを見て、真っ先に探したのは、METのあるリンカーン・センターで、次は、メトロポリタン・ミュージアムであったが、良く分からなかったし、ロンドンのコベント・ガーデンなども探せなかった。
結局、地図ではないと言うけれど、鑑賞者は、どうしても、作品の全体図ではなくて、個々の場所に拘って作品を見てしまって、自分の印象にある都市のイメージで見てしまえば、西野の意図する作品へのイメージの拡大や、想像の広がりなどまで行かずに止まってしまうのではないかと言う気がする。
それに、私自身、ロンドン上空をヘリで飛んだ時、色々な建物を、或いは、リオを飛行機で飛んだ時、コルコバードやコパカバーナなどを撮ったことがあるが、それ等は遇で、西野の場合には、大半、高い構築物の上からの撮影であろうし、これらの写真をコラージュしてバードアイ・イメージを現出しているのだから、凄いと言えば凄いが、自ずから限界がある。例えば、アムステルダムなど高い建物などないから、このようなジオラマは作画し難い。
とにかく、非常に細かい詳細な写真によるモザイク作品なので、全体像の鑑賞と言うのではなく、どうしても鑑賞者を細部に拘らせてしまうきらいがあり、作品の美しさや芸術性と言うよりも、情報と表現の面白さに関心が行ってしまうので、それを突破してどのようにブレイクスルーするのかと言うことであろうか。
確かに、都市の景観を可能な限り、あらゆる視点から、特に、高みに上って膨大な写真を撮って、根気良く創造力とイマジネーションを駆使して巨大かつ緻密な作品に仕上げると言うことは、大変なことであり、その斬新な作品作りの手法とアイデアは見上げたものであり、ここまで、作品を創り上げて磨き上げてきた手腕には脱帽である。
今のところ、地図を念頭に置いて作画しているので、殆どの写真は、南から北に向かって写したものであり、それらをコラージュして空からの鳥瞰図的な作品に仕上げているので、鑑賞者も、その都市をイメージし易い。
さて、そのスタートの段階が終わったとすれば、これからだが、激動して止まぬ実際に生きて蠢いている現存する実在の都市と言うイメージが、あまりにも強烈であり、それを一瞬で切り取った作品で、どこまで、その都市の息吹なり鼓動を表現できるのか。その強烈なイメージから脱却して、どこまで、その都市の持つ実像を芸術の域にまで活写できるのか、西田の感性と芸術性、そして創造力が問われて来ると言うことであろう。
ところで、ついでに展示されている「ストリート・ライフ」だが、ヨーロッパを見つめた欧米の7人の写真家たちのクラシックな映像が、非常に興味をそそって、見ていて、懐かしさえ感じた。
私が知っていたのは、ウジェーヌ・アジェとブラッサイだけだったが、どちらかと言えば、モノクロのピントがしっかりと合った硬い形の変色した写真のリアルな造形は、美しさと言うよりも感動的である。
ブラッサイは、塔や公共建物や構築物、街角などを寫した夜景が並んでいたが、淡くくすんだ光が印象的で、昔、凍てつくように寒い極寒のヨーロッパの街角を、襟を立てて歩きながら、ホテルに帰った時の、懐かしい思い出を蘇らせてくれたが、最後の方に、「ベイ・ブイエールの人混み、モンパルナス」と言う作品で、キャバレーらしき所で、上半身裸の踊り子(?)を紳士たちが囲んでいる写真を見て、ロートレックの絵画の雰囲気を感じたり、色々なヨーロッパのことどもを感じていた。
同じ街角の風景だが、開発前のグラスゴーを寫したトーマス・アナンの写真には、殆どどの写真にも、どこかに、人の姿が写っていて、面白いと思った。
アジェの作品は、街角のコーナーの店や、室内、門扉の金具、公園の石の彫像など色々なモチーフが展示されていた。
ハインリッヒ・ツィレの作品は、荷車を引く女労働者の写真が主体で、それも、殆ど女たちの後姿ばかりなのに興味を感じた。
ジョン・トムソンの写真は、19世紀後半の写真で、絵葉書より小さいのだが、当時の職人や働く人と言った庶民の肖像画が殆どで、当時の面影を見た映画と重ね合わせながら鑑賞させて貰って面白かった。
同じように、アウグスト・ザンダーの作品には、色々な働く人や、企業家や役人や専門職と言った階級の違いや、それらの家族の写真などの記念写真のような肖像写真が多かったが、半世紀後くらいの姿なので、その違いに興味を感じた。
ビル・ブラントの作品は、鉄鋼の街ハリファックスのくすんだ街の景観が印象的で、モノクロで画面が暗い所為もあって、水桶を持った少女を寫した「イースト・エンド」の写真も良いと思ったが、何となく、印象が暗かった。
久しぶりに、美術館に行って、じっくりと写真を鑑賞することが出来て、有意義な午後を過ごすことが出来た。