国立劇場の歌舞伎は、学生や社会人を対象にした普及版とも言うべき一幕物の歌舞伎だが、一切手を抜かずの本格的な舞台で、十分に楽しめる。
前半に、歌舞伎の見方と言う若手歌舞伎役者が、舞台装置や鳴り物、役者や演者などを動員して、歌舞伎全般について説明を行うので、結構、歌舞伎の裏側が見えて面白い。
さて、今回は、能の「紅葉狩」を歌舞伎に仕立てた舞台で、華やかでスペクタクルあり、見せて魅せてくれる。
戸隠山の鬼神(扇雀)が、素晴らしい美女に化けて、平維茂(錦之介)を誑かして紅葉狩りの酒宴に招いて酔い潰して殺そうとするのだが、それと悟った維茂が、鬼神に戦いを挑んで、名刀・小烏丸の威徳によって退治すると言う話である。
したがって、前半は、全山紅葉に輝く美しい舞台をバックに、鬼女が化けた更科姫(扇雀)などの華麗な舞のシーンが展開するなど綺麗な舞台で、後半は、恐ろしい隈取をした鬼女と維茂との激しくも華麗な戦いのシーンが繰り広げれれる。
謂わば、お伽噺風のメルヘンタッチの舞台なのだが、大体、鬼の出る日本の民話は、総て、先住民など被支配集団を鬼に仕立てての話なので、勝てば官軍的な話で、それ程、褒められた話でもないのである。
能では、八幡八幡宮の末杜の神(アイ)が、維茂の前に現われ、神剣を授け、鬼神を退治するように神勅を伝えるのだが、歌舞伎では、山神(虎之介)が、八幡大菩薩の命を受けて危険を知らせに登場すると言う設定になっている。
興味深いのは、歌舞伎では、更科姫が、鬼神の正体を現すので、鬼は女だが、能では、鬼神を男女どちらにも解釈して、男の場合には、顰(しかみ)の面、女の場合には、般若の面をかけ、当然、装束もそれに合わせて換えると言う。
今回の歌舞伎の舞台だが、大概、能から歌舞伎化された舞台では、松羽目ものと言って、勧進帳や、今回、歌舞伎座で上演されている「土蜘蛛」などのように、殆ど、松をあしらった能舞台を模した背景になっているのだが、この紅葉狩は、普通の歌舞伎の舞台と同様に、全山紅葉の非常に美しい舞台設定になっていて、真ん中に、巨大な老松の幹を置いて、松羽目ものの象徴としているのが、非常に興味深いと思った。
もう一つ、興味深いのは、三味線のなかった頃の音曲とは異なって、囃子と地謡との能舞台とは違って、義太夫、常磐津、長唄の華やかな競演が、更に、舞台の華やかさとダイナミズムを演出していることである。
能は、無駄や余剰を徹底的に切り詰めて、芸を凝縮・昇華させた状態で演じるので、全山紅葉の極彩色の目くるめく様な素晴らしいシーンであっても、紅葉を飾った小さな作り物が舞台に設えられる程度で、能役者のセーブした舞や、囃子や地謡の表現を観て聴いて、一切を思い浮かべて鑑賞しなければならないのであるから、同じ次元で、同じ主題の舞台を楽しむことは、実に難しいと言うことである。
歌舞伎は、その能の世界を、視覚的にも音響的にも、そして、ドラマ的にも、もっと、リアルに具体的に、表現しようとした舞台芸術であって、更なる、創造を加えて生み出された芸能だと言うことかも知れない。
以前に、能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」の関係などのついて書いたことがあるのだが、その中で、
”ところで、この「安宅」について、九世銕之丞が、「能のちから」で、先代が、喝采を浴びた「勧進帳」に影響を受け、歌舞伎から逆輸入して「安宅」の演技を再構築した部分もあるのではないか、と言う言い方をしていた。と語っている。
能も演技の一部であり、演技と芝居は同義語だと考えていたので、能として生々し過ぎたり、妙に媚を売るような演技は言語道断で、それなりの抑制された演技のやり方で芝居をやることはあっても良いと考えていたようで、自分もその伝承を受けているのだが、(その振幅の)判断が難しい。とも言っている。”と書いたことがあった。
私は、能と歌舞伎を見ていて、そのような接点が、もっともっとあっても良いのではないかと思っている。
同じく、銕之丞が、同じ本で、「井筒」のような幽玄な演目と違って、この紅葉狩は、誰もが子供の頃に思い描いた「怪物を倒して、綺麗なお姫様を助け出して結婚して」と言った、現在で言えば「ハリー・ポッター」のように、単純に夢のような活劇として捉えた方が楽しいと思う、と言っており、思い切り視覚的に楽しませてくれる能だと言っているのだから、一番、歌舞伎には、似つかわしいストーリーだったと言えるのかも知れない。
さて、更科姫の舞だが、能では、酒宴の場で舞われるシテ/美女の舞は、まず、優雅な「序ノ舞」だが、維茂が眠り込むのを見届けると「急ノ舞」に変わり、鬼の本性を垣間見せるのだが、この点、扇雀の更科姫の踊りは、もっと具体的だし、それに、踊りも、二枚の扇を器用に手にして舞う振りなど、赤姫の美しさ優雅さが傑出していて素晴らしい。
そして、後半の舞台では、扇雀は、恐ろしいばかりの隈取をした鬼の姿に変身して、大立ち回りを演じて、いつもの綺麗な女形とは違った新境地を見せてくれた。
錦之介の余吾将軍維茂は、文句なしの適役で、風格と優雅さがあって素晴らしく、座長役者としての貫録十分である。
今回、歌舞伎の見方の解説役として登場した侍女・野菊で出た隼人が、錦之介の長男、山神の虎之介が、扇雀の長男で、夫々、素晴らしい若手として活躍していて頼もしいと思って見ていた。
さて、歌舞伎座の「土蜘蛛」も、能「土蜘蛛」の本歌取りの舞台である。
菊五郎の隠れている土蜘蛛の塚が、丁度、能舞台の作り物そっくりで、随所に、能の舞台を彷彿とさせて面白いのだが、これについても、能舞台と絡ませて、印象記を書いて見たいと思っている。
前半に、歌舞伎の見方と言う若手歌舞伎役者が、舞台装置や鳴り物、役者や演者などを動員して、歌舞伎全般について説明を行うので、結構、歌舞伎の裏側が見えて面白い。
さて、今回は、能の「紅葉狩」を歌舞伎に仕立てた舞台で、華やかでスペクタクルあり、見せて魅せてくれる。
戸隠山の鬼神(扇雀)が、素晴らしい美女に化けて、平維茂(錦之介)を誑かして紅葉狩りの酒宴に招いて酔い潰して殺そうとするのだが、それと悟った維茂が、鬼神に戦いを挑んで、名刀・小烏丸の威徳によって退治すると言う話である。
したがって、前半は、全山紅葉に輝く美しい舞台をバックに、鬼女が化けた更科姫(扇雀)などの華麗な舞のシーンが展開するなど綺麗な舞台で、後半は、恐ろしい隈取をした鬼女と維茂との激しくも華麗な戦いのシーンが繰り広げれれる。
謂わば、お伽噺風のメルヘンタッチの舞台なのだが、大体、鬼の出る日本の民話は、総て、先住民など被支配集団を鬼に仕立てての話なので、勝てば官軍的な話で、それ程、褒められた話でもないのである。
能では、八幡八幡宮の末杜の神(アイ)が、維茂の前に現われ、神剣を授け、鬼神を退治するように神勅を伝えるのだが、歌舞伎では、山神(虎之介)が、八幡大菩薩の命を受けて危険を知らせに登場すると言う設定になっている。
興味深いのは、歌舞伎では、更科姫が、鬼神の正体を現すので、鬼は女だが、能では、鬼神を男女どちらにも解釈して、男の場合には、顰(しかみ)の面、女の場合には、般若の面をかけ、当然、装束もそれに合わせて換えると言う。
今回の歌舞伎の舞台だが、大概、能から歌舞伎化された舞台では、松羽目ものと言って、勧進帳や、今回、歌舞伎座で上演されている「土蜘蛛」などのように、殆ど、松をあしらった能舞台を模した背景になっているのだが、この紅葉狩は、普通の歌舞伎の舞台と同様に、全山紅葉の非常に美しい舞台設定になっていて、真ん中に、巨大な老松の幹を置いて、松羽目ものの象徴としているのが、非常に興味深いと思った。
もう一つ、興味深いのは、三味線のなかった頃の音曲とは異なって、囃子と地謡との能舞台とは違って、義太夫、常磐津、長唄の華やかな競演が、更に、舞台の華やかさとダイナミズムを演出していることである。
能は、無駄や余剰を徹底的に切り詰めて、芸を凝縮・昇華させた状態で演じるので、全山紅葉の極彩色の目くるめく様な素晴らしいシーンであっても、紅葉を飾った小さな作り物が舞台に設えられる程度で、能役者のセーブした舞や、囃子や地謡の表現を観て聴いて、一切を思い浮かべて鑑賞しなければならないのであるから、同じ次元で、同じ主題の舞台を楽しむことは、実に難しいと言うことである。
歌舞伎は、その能の世界を、視覚的にも音響的にも、そして、ドラマ的にも、もっと、リアルに具体的に、表現しようとした舞台芸術であって、更なる、創造を加えて生み出された芸能だと言うことかも知れない。
以前に、能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」の関係などのついて書いたことがあるのだが、その中で、
”ところで、この「安宅」について、九世銕之丞が、「能のちから」で、先代が、喝采を浴びた「勧進帳」に影響を受け、歌舞伎から逆輸入して「安宅」の演技を再構築した部分もあるのではないか、と言う言い方をしていた。と語っている。
能も演技の一部であり、演技と芝居は同義語だと考えていたので、能として生々し過ぎたり、妙に媚を売るような演技は言語道断で、それなりの抑制された演技のやり方で芝居をやることはあっても良いと考えていたようで、自分もその伝承を受けているのだが、(その振幅の)判断が難しい。とも言っている。”と書いたことがあった。
私は、能と歌舞伎を見ていて、そのような接点が、もっともっとあっても良いのではないかと思っている。
同じく、銕之丞が、同じ本で、「井筒」のような幽玄な演目と違って、この紅葉狩は、誰もが子供の頃に思い描いた「怪物を倒して、綺麗なお姫様を助け出して結婚して」と言った、現在で言えば「ハリー・ポッター」のように、単純に夢のような活劇として捉えた方が楽しいと思う、と言っており、思い切り視覚的に楽しませてくれる能だと言っているのだから、一番、歌舞伎には、似つかわしいストーリーだったと言えるのかも知れない。
さて、更科姫の舞だが、能では、酒宴の場で舞われるシテ/美女の舞は、まず、優雅な「序ノ舞」だが、維茂が眠り込むのを見届けると「急ノ舞」に変わり、鬼の本性を垣間見せるのだが、この点、扇雀の更科姫の踊りは、もっと具体的だし、それに、踊りも、二枚の扇を器用に手にして舞う振りなど、赤姫の美しさ優雅さが傑出していて素晴らしい。
そして、後半の舞台では、扇雀は、恐ろしいばかりの隈取をした鬼の姿に変身して、大立ち回りを演じて、いつもの綺麗な女形とは違った新境地を見せてくれた。
錦之介の余吾将軍維茂は、文句なしの適役で、風格と優雅さがあって素晴らしく、座長役者としての貫録十分である。
今回、歌舞伎の見方の解説役として登場した侍女・野菊で出た隼人が、錦之介の長男、山神の虎之介が、扇雀の長男で、夫々、素晴らしい若手として活躍していて頼もしいと思って見ていた。
さて、歌舞伎座の「土蜘蛛」も、能「土蜘蛛」の本歌取りの舞台である。
菊五郎の隠れている土蜘蛛の塚が、丁度、能舞台の作り物そっくりで、随所に、能の舞台を彷彿とさせて面白いのだが、これについても、能舞台と絡ませて、印象記を書いて見たいと思っている。