熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

秀山祭九月大歌舞伎・・・籠釣瓶花街酔醒

2006年09月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月は、初代中村吉右衛門の生誕120年を記念した「秀山祭」で、まず、夜の部から鑑賞した。
   やはり、意欲的な出し物は2時間の長丁場「籠釣瓶花街酔醒」で、今回は、吉右衛門と幸四郎兄弟の共演も楽しみであった。
   真っ暗に消灯された客席と舞台に突然照明が点くと、眼前には、吉原仲ノ町の極彩色の豪華絢爛たる花街の舞台が現れる。
   田舎モノの主従二人、下野佐野の豪商・佐野次郎左衛門(吉右衛門)と下男・治六(歌昇)が、きょろきょろしながらわが世の春を謳歌して咲き誇る桜の前まで来る。
   蜷川幸雄なら、沢山の派手な登場人物を繰り出して鳴り物入りで舞台を装飾するのだろうが、歌舞伎の舞台はタダ二人。舞台の豪華さと主従二人の語りで雑踏する吉原の賑わいを髣髴とさせようとする、いわば、シェイクスピアの世界、歌舞伎を聴くと言う世界である。

   これは、享保年間に起こった吉原の遊女八ッ橋殺害事件を題材にした河竹新七の作品で、明治21年に初演されたが、この初代左團次と五代目歌右衛門の舞台は絶えて、その後、初代吉右衛門と歌右衛門によって蘇り現在に到っていると言う。
   次郎左衛門は、吉右衛門から、白鸚、幸四郎、吉右衛門、そして、勘三郎へ、八ッ橋は、歌右衛門から、菊五郎、雀右衛門、玉三郎、福助へ、と夫々継承されているのだが、今回の舞台は、その直系である二代目吉右衛門と成駒屋の福助によって演じられている。
   吉右衛門は、歌右衛門とは3度舞台を務めており、福助とも4度共演していて慣れておりお馴染みのお家芸である。

   私がこの籠釣瓶を観たのは一度だけだが、次郎左衛門は勘三郎、八ツ橋は玉三郎であったが、冒頭の花魁道中での玉三郎八ッ橋の妖艶かつ華麗な舞台姿に魅せられ、花道付け際での次郎左衛門に投げる嫣然とした微笑に圧倒された。
   そして、勘三郎のどこかコミカルで、しかし、人が良くて善意の塊のような明るい次郎左衛門が慟哭する舞台を、感動して観ていたような気がする。
   共演していたのは、又五郎、東蔵、梅玉、芝翫、弥十郎、魁春、笑三郎、亀治郎だったのだから凄かったのであろうと思う。

   この籠釣瓶であるが、渡辺保氏によると、初演当時の左團次は、豪快で男性的な次郎左衛門であったようだが、男ぶりの劣る吉右衛門は、八ッ橋に愛想づかしをされた後、しょんぼりと哀愁に満ちた悲しみを見せる次郎左衛門の演出に変えたと言う。

   ところで、今回の吉右衛門の次郎左衛門だが、序幕の「吉原仲ノ町見染めの場」では、田舎者丸出しの冒頭から、八ッ橋の花魁道中に遭遇して一目で圧倒されて嫣然と微笑まれて魂を抜かれて、「宿に帰るのが嫌になった」と言って腑抜け同然になって茫然自失するあたりは、藤山寛美バリの喜劇役者。
   ところが、満座の前で身請け話を反故にされ恥を掻かされたので、復讐のために帰って来て、妖刀・籠釣瓶で、八ッ橋を一刀のもとに切り捨てるあたりは、立ち役鬼平犯科帳の世界で、流石に吉右衛門で豪快に演じている。
   言うならば、この吉右衛門の籠釣瓶は、両方の要素を加味した感じで硬軟縦横無尽の世界を演出している。
   その分、芸に幅があって、田舎者とは言っても地方の豪商、大金があって吉原一の器量よしであり、時折見せる風格も、吉右衛門ならの演技であろう。
   満座の前で愛想づかしをされた次郎左衛門が、
   「花魁 そりゃあんまり袖なかろうぜ」と心情を吐露する件は、聞かせどころだが吉右衛門は実に上手い。このあたりから、次郎左衛門の気持ちが、八ッ橋への男女の愛憎が少しずつ歪んで行って、恥を掻かされて男を潰された恨みに変って行く。

   ところで、福助の八ッ橋だが、玉三郎とは違った、しかし、別のしっかりとした風格と妖艶さがあって楽しみながら見ていた。
   一目惚れで腑抜けになった次郎左衛門に振り返って嫣然と微笑みを返すあの表情を、12倍のニコン双眼鏡で皺の襞まで見ていたが、勝ち誇ったライオンのような凄い妖気を感じ圧倒されて見ていた。
   付け際で、方向転換して大きく左右に泳がせて優雅に身をくねらせる足捌きのなんと色気たっぷりで優雅なのか、静かに花道を下って行く姿が正に天下一品の八ッ橋なのである。

   次郎左衛門を袖にした縁切りの場で言う八ッ橋の台詞「わたしゃつくづくイヤになりんした」と言う時の表情、そして、部屋を出て行く時に戸口で立ち止まり名残惜しそうに障子の隙間からじっと次郎左衛門を凝視して、意を決して決然として去って行く福助の姿に、過酷な運命への慟哭と悲哀を観たようで切なかった。
   次郎左衛門との人間としての男女の愛、そして、間夫としての愛人との愛の両天秤が平衡を保っていた時には何も考えずに幸せだった(?)が、今や両方とも崩れ去った。
   このあたりから死を覚悟していた八ッ橋。大詰 立花屋二階の場再び次郎左衛門に呼び出されて、ばつが悪く憔悴しきって出て来て死を迎えるまでの福助の演技、このようなこの世の者とも思えないような死線をさまよい思い詰めた姿の福助は何時見ても絶品で実に上手い。
   歌右衛門から、児太郎時代に直接教わったと言うこの八ッ橋、事実歌右衛門の八つ橋を児太郎時代に初菊で共演して真近で見てもいる。今、大輪として花開いていると思った。

   弟に協力して登場した幸四郎の立花屋長兵衛だが、風格があって中々魅力的だし、花魁九重を実にしっとりとして情感豊かに演じた芝雀、そして、素朴な忠僕・治六の歌昇、実直な立花屋女房おきつの東蔵など脇役も充実している。
   色男だが単細胞で騙されて直ぐかっと来る八ッ橋の間夫・繁山栄之丞を梅玉、根っからのどうしようもない悪・釣鐘権八を芦燕が演じているが、最近の舞台は殆ど二人の独壇場だが、気の所為か、上手く演じれば演じるほど腹が立つ。

   ところで、厳しい戒律と掟があって、いくら最高の花魁八ッ橋でも、自分の勝手で身請けを反故にするなど到底不可能な世界であった筈なのだが。
   芝居の話だから野暮なことは言わない方が良かろうが、年月が経つにつれて少しづつ真実味が出て来て話に深みが増すのが歌舞伎の世界なのかも知れない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 男はつらいよ・・・仁左衛門... | トップ | 北京故宮博物院展・・・西太... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

観劇・文楽・歌舞伎」カテゴリの最新記事