このアカデミー・オブ・ミュージックは、オペラ・ハウスなので、当然、オペラも上演される。
常設のオペラ・カンパニーがあって、冬に、フィラデルフィア・オペラを開催していて、限られた期間、限られた演目のオペラが、数回ずつ上演される。
こじんまりした劇場であるから、METのように大がかりな舞台は望めなかったが、本格的なオペラ公演で、タイトルは忘れてしまったが、ルチァノ・パバロッティとジョーン・サザーランドとマリリン・ホーンの出演したオペラやモーツアルトのオペラなど、何度か出かけて鑑賞した。この3人の登場するオペラのレコードが、当時、ベストセラーで何組か出ていたので、願ってもない舞台であったが、それぞれのオペラの舞台を観たのは、ずっと後のことで、パバロッティが一番多いのだが、ロイヤル・オペラハウスで、オッヘンバックのオペラ「ホフマン物語」の人形オランピアを歌ったジョーン・サザーランドのゼンマイ仕掛けの様な人形姿が懐かしい。
フィラデルフィアのファンにとっても、オペラは、やはり、ニューヨークのMETであったのであろうと思うが、
あの頃は、フィラデルフィアでは、どんな大スターのチケットでも、かなり安く手に入り、一級のオペラを楽しむことが出来たよき時代であった。
フィラデルフィア管弦楽団以外のオーケストラのコンサートも結構あった。
まず、小澤征爾指揮するボストン交響楽団の演奏会である。
当時は、フィラデルフィアには、日本人のビジネスマンや役人など殆どいなかったのだけれど、ペンシルベニア大学などには、留学生や研究者たちがいたので、挙って出かけた。小澤は、我々アメリカ在留日本人の誇りであり、異国で頑張っているという極めて日本的な同胞意識が目覚めて、その雄姿に感動したかったのである。
シューマンの交響曲だったと思うが、非常にダイナミックな演奏で、小澤のタクト捌きもキビキビしていて歯切れが良く、何時も聞き慣れているオーマンディのフィラデルフィア・サウンドと大分雰囲気が違った。
激しい動きで、ボストン交響楽団を一つの楽器のように縦横無尽に歌わせている小澤の姿に、激しくこみ上げてくるものを感じた。
聴衆のの拍手が長い間止まらなかったのを覚えている。
興味深かった思い出は、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー)の演奏会である。
ロシア(当時はソ連)のユダヤ人弾圧という国際政治の軋轢が、文化芸術に影を落とした現実を目にしたのである。
1973年だったと思うが、当時ソ連から海外に移住しようとするユダヤ人が多く、ロシアが、科学者やエンジニアなど有能なユダヤ人の移住阻止のためにビザを発給しなかったので、世界中のユダヤ人が反旗を翻したのである。
当日、アカデミー・オブ・ミュージックに行くと劇場の前が騒がしい。正面玄関にピケが張られて、沢山の人がプラカードを掲げて騒いでいる。
入り口は閉鎖されていなかったので、中に入ったのだが、いやに客が少ない。
楽団員がステージに入り始めても、客は増えそうにない。
指揮者のゲンナジー・ニコライエヴィチ・ロジェストヴェンスキーが登場したときに、前列の席にいたので、何となく、後ろを振り向くと、上から下まで、右側半分はスイカを割ったように、一人も客席に人が入っていない。大入りでは当然なかったが、客は総て左側だけという全く奇妙な演奏会が始まった。
ソ連のユダヤ人の出国制限に強く抗議したユダヤ系アメリカ人のボイコットなのであろうが、チャイコフスキーか何であったか忘れてしまったが、重苦しい雰囲気で聴いた沈痛な演奏会で会った。
興行界など音楽分野は、ユダヤ系アメリカ人が抑えているとかで、あのヘルベルト・フォン・カラヤンでさえ、戦後、ニューヨークに登場するのに随分待たなければならなかったという。
さて、フィラデルフィア管弦楽団のコンサートで、非常に貴重だったのは、夏に、郊外のロビンフット・デルで催されている無料の野外コンサートである。
少し前に、郵便で申し込んでおくと、チケットが郵送されてくる。
2年いたので、10数回出掛けて行ったと思うのだが、日頃の本格的なプログラムをやや改編して、ライト・クラシックなどポピュラーな楽曲を交えたバラエティに富んだ音楽会で楽しかった。
友人が車を持っていたので便乗して通っていたが、やはり、フィラデルフィア郊外の夜は寒い日もあって、毛布を持って出かけていた。
オープンエアーのコンサートは、爽快でリラックスできるのが何よりも良い。
常設のオペラ・カンパニーがあって、冬に、フィラデルフィア・オペラを開催していて、限られた期間、限られた演目のオペラが、数回ずつ上演される。
こじんまりした劇場であるから、METのように大がかりな舞台は望めなかったが、本格的なオペラ公演で、タイトルは忘れてしまったが、ルチァノ・パバロッティとジョーン・サザーランドとマリリン・ホーンの出演したオペラやモーツアルトのオペラなど、何度か出かけて鑑賞した。この3人の登場するオペラのレコードが、当時、ベストセラーで何組か出ていたので、願ってもない舞台であったが、それぞれのオペラの舞台を観たのは、ずっと後のことで、パバロッティが一番多いのだが、ロイヤル・オペラハウスで、オッヘンバックのオペラ「ホフマン物語」の人形オランピアを歌ったジョーン・サザーランドのゼンマイ仕掛けの様な人形姿が懐かしい。
フィラデルフィアのファンにとっても、オペラは、やはり、ニューヨークのMETであったのであろうと思うが、
あの頃は、フィラデルフィアでは、どんな大スターのチケットでも、かなり安く手に入り、一級のオペラを楽しむことが出来たよき時代であった。
フィラデルフィア管弦楽団以外のオーケストラのコンサートも結構あった。
まず、小澤征爾指揮するボストン交響楽団の演奏会である。
当時は、フィラデルフィアには、日本人のビジネスマンや役人など殆どいなかったのだけれど、ペンシルベニア大学などには、留学生や研究者たちがいたので、挙って出かけた。小澤は、我々アメリカ在留日本人の誇りであり、異国で頑張っているという極めて日本的な同胞意識が目覚めて、その雄姿に感動したかったのである。
シューマンの交響曲だったと思うが、非常にダイナミックな演奏で、小澤のタクト捌きもキビキビしていて歯切れが良く、何時も聞き慣れているオーマンディのフィラデルフィア・サウンドと大分雰囲気が違った。
激しい動きで、ボストン交響楽団を一つの楽器のように縦横無尽に歌わせている小澤の姿に、激しくこみ上げてくるものを感じた。
聴衆のの拍手が長い間止まらなかったのを覚えている。
興味深かった思い出は、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー)の演奏会である。
ロシア(当時はソ連)のユダヤ人弾圧という国際政治の軋轢が、文化芸術に影を落とした現実を目にしたのである。
1973年だったと思うが、当時ソ連から海外に移住しようとするユダヤ人が多く、ロシアが、科学者やエンジニアなど有能なユダヤ人の移住阻止のためにビザを発給しなかったので、世界中のユダヤ人が反旗を翻したのである。
当日、アカデミー・オブ・ミュージックに行くと劇場の前が騒がしい。正面玄関にピケが張られて、沢山の人がプラカードを掲げて騒いでいる。
入り口は閉鎖されていなかったので、中に入ったのだが、いやに客が少ない。
楽団員がステージに入り始めても、客は増えそうにない。
指揮者のゲンナジー・ニコライエヴィチ・ロジェストヴェンスキーが登場したときに、前列の席にいたので、何となく、後ろを振り向くと、上から下まで、右側半分はスイカを割ったように、一人も客席に人が入っていない。大入りでは当然なかったが、客は総て左側だけという全く奇妙な演奏会が始まった。
ソ連のユダヤ人の出国制限に強く抗議したユダヤ系アメリカ人のボイコットなのであろうが、チャイコフスキーか何であったか忘れてしまったが、重苦しい雰囲気で聴いた沈痛な演奏会で会った。
興行界など音楽分野は、ユダヤ系アメリカ人が抑えているとかで、あのヘルベルト・フォン・カラヤンでさえ、戦後、ニューヨークに登場するのに随分待たなければならなかったという。
さて、フィラデルフィア管弦楽団のコンサートで、非常に貴重だったのは、夏に、郊外のロビンフット・デルで催されている無料の野外コンサートである。
少し前に、郵便で申し込んでおくと、チケットが郵送されてくる。
2年いたので、10数回出掛けて行ったと思うのだが、日頃の本格的なプログラムをやや改編して、ライト・クラシックなどポピュラーな楽曲を交えたバラエティに富んだ音楽会で楽しかった。
友人が車を持っていたので便乗して通っていたが、やはり、フィラデルフィア郊外の夜は寒い日もあって、毛布を持って出かけていた。
オープンエアーのコンサートは、爽快でリラックスできるのが何よりも良い。