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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

帚木 蓬生 著「老活の愉しみ 心と身体を100歳まで活躍させる」脳トレの場合

2020年09月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   今度は、「脳は鍛えないと退化する」という、認知症とも絡んで頭の問題である。

   いくら鍛えると言っても、気になるのは、体力と同じように頭の老化がどうなるのかと言うことである。
   脳は加齢によって、脳重量だが30歳以降徐々に減少し、60代から減少速度が速くなり、百歳になると脳重量は20%減になり、特に前頭葉と側頭葉の萎縮が顕著になるという。
   これに伴って起こる第一の変化は、知能の低下で、加齢につれて低下するのは、単純な記憶と動作記憶で、知識や一般常識、判断力は、高齢になっても維持される。
   第二の変化は、記憶で、最も低下しやすいのは、展望記憶(これからやるべきことや予定の記憶)エピソード記憶(出来事の記憶)、時間順序記憶で、逆に、意味記憶(単語を聞いて意味を引き出す記憶)、手続き記憶(手や身体が覚えている記憶)過去の記憶は、老化による影響を受けにくい。という。

   そう、言われると、最近、ど忘れというか、久しく会ってない友人の名前とか、花の名前とか、単純なことが思い出せなくなって、「あの、あれ、あれだよ」ということが多くなってきた反面、忘れていた嫌な記憶が蘇ってきて悩むことが多くなって来たような気がする。
   頭の老化だから、物忘れは当然なので、心配しなくても良いと思ってみても、こう頻繁にど忘れが起こると気にせざるを得ない。
   いずれにしろ、司令塔が不具合を起こすと困るので、定期的に、脳のMRI検査を続けているが、今のところ、問題はなさそうである。

   それでは、脳トレーニングだが、何よりも、読み書き計算、物作りが最適だという。
   読むものは周囲に溢れており、何か調べ物をすると、必ず読む行為が入る。
   書くのは手紙もあれば日記もあり、家計簿のメモでも良く、パソコンよりも手書きが良いというのだが、スマホやパソコンで総てを処理する時代で、そんなことができるのか。

   私の場合には、手っ取り早く言うと、2005年3月から、延々と書き続けているこのブログだが、脳トレの趣旨には沿っているようで、まずまず、及第点かも知れない。
   しかし、先の指摘のように、「知識や一般常識、判断力は、高齢になっても維持される」と言うことであるから、それ程喜んでも居られない。
   それに、海外生活が長くて、日本語でメモを取ったりする機会が少なく、このブログもパソコンで綴っているので、漢字を書く能力は著しく衰えていて、読めても、書くのは小学生の孫以下かも知れないと思っている。
   幸いと言えるのかどうかは分らないが、私自身の読書生活は、大学や大学院時代とそれ程変っておらず、同じような生活を維持しようとしてきたので、頭のぼけの方は、まずまず、避け得ているのではないかと自己満足している。

   脳のフレッシュアップに役に立ったのは、少し以前になるが、3年ほど、非常勤講師として、群馬県立女子大学でブラジル学、明治学院大学で国際ビジネスについて講座を持ったことがあることで、つけ刃ながらそれまでの経験や知識の積み上げを活用して、20コマほどのパワーポイントを作成して臨んだ。教授たちにはできないような特色のある講義をすることが目標であったから、結構、資料を集めるなど努力し、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル(23)」もその時の資料の一部なのだが、それまでの雑学が大いに役立ち、面白かった。異事業というか、日常とは変った活動をすると、別な脳のスイッチオンで、眠っていた脳トレに役に立つと言うことかも知れない。

   興味深いのは、「脳年齢と暦年齢の差を広げる」と言う指摘である。
   葛飾北斎が、富岳百景を刊行したのは75歳、80歳以降も肉筆画に挑戦し、肉筆画を最も描いたのは88歳の時だと言うから、まさに、脳年齢の若さは驚異的。
   一般に、目を使い、手を使い、何かを表現して行くと脳は何時までも衰えないというのだが、画家や書家、写真家などが長寿なのは、その所為であろう。
   目を使い、手を使い、といえば、私の日常業務であるガーデニングと花の写真を撮るのも、多少、プラスかも知れない。

   もう一つ、面白いのは、ヨーロッパの例を引いての、「脳の若さと人ととのつながり」。
   人ととの繋がりが多いと、所属するグループも多いであろうし、外出も増えて、人生に張りが出て若さが持続する。何かの会の世話役をするのは大いに良いし、趣味の会やスポーツクラブでの活動も非常に良い。という。
   私が住んでいたキューガーデンの自宅の隣に住んでいたアーキテクト夫妻は、殆ど毎夜のように、外出して観劇に行ったりパーティに行ったり、自宅に客を招いたり、ソーシャルライフに明け暮れていたようだったが、これは極端としても、とにかく、何かと言えば、パーティを開いて楽しむというイギリス人の生活を知っているので、このあたりの対応は良く分かる。
   その御陰でもあろう、アスコットの競馬に何回か誘われたり、クリケットを見ながら会食を楽しんだり、グラインドボーン・オペラや宮殿や野外コンサートに出かけることが出来たのである。
   日本の場合には、サラリーマンが、飲んだり麻雀をしたり連夜午前様であっても、これらは男だけの付き合いだが、欧米の場合には、殆ど、夫婦連れでのソーシャルイベントなのである。
   そんな人との繋がりを重視する社会で、会う機会が多くなると主婦連中も耳学問が豊かとなって、結構、知的水準も高くなり、勢い、場違いなようなところでも、歌舞伎や紫式部と言った話題にも付き合わなければならなくなる。
   ミュージカルやオペラ、演劇などの舞台でも、結構、日本芸術の影響が随所に見られて、日本人が思うほど、彼らも、日本には無関心でもないので、それなりの教養を備えて付き合わねばならない。
   会う機会が多くて、殆ど喋り続けであり、日本の話を聞きたがるので、知識がなくて話題性に欠けると、一気に雰囲気を壊すことになってしまうのである。
   やはり、英語にハンディがあり、このような社交生活に慣れるのには、時間がかかったが楽しかった。

   私は、老人たちが楽しんでいる老人会には入っていないし、趣味の会とかスポーツクラブにも縁がなく、人付き合いが悪いので、この「人との繋がり」は、落第かも知れないと思っているのだが、自分で暇つぶしをするのに忙しくて、とにかく、自己満足しながらも動いているので、このまま、逝くような気がしている。
   健康寿命そのままで終われれば、幸いである。

   
コメント
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