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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ローレンス・フリードマン著「 戦略の世界史(上) 戦争・政治・ビジネス 」ナポレオンの戦略

2020年09月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ルーブルに行くと、ジャック=ルイ・ダヴィッドの巨大な『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』の絵が圧倒する。
   良かれ悪しかれ、ナポレオンは、フランス史においては、燦然と輝く偉大な英雄である。
   

   ナポレオンは、自身のアプローチの背景にある極めて重要な要素は説明できるものではない、総ては実行の可否にかかっており、理論に則っていたかどうかは関係ないと主張していたという。
   戦争術の要諦は単純明快で、数的に劣る軍で戦う場合には、攻撃あるいは防御しようとする地点に敵よりも多くの兵力を配置する必要があり、それを実現する技法は、本から学ぶことも訓練によって身につけることも出来ない、軍事的な才能、つまり直感が物を言う。
   ナポレオンは、理論ではなく、自らの実践によって戦略という分野に貢献した、大規模な軍隊を用いて大規模な戦争に勝つという手法でナポレオンの右に出る者は居ないという。

   ナポレオンの貢献は、国民軍の潜在的能力の実現性を把握した点にあって、啓蒙主義における軍事的英知を吸収して、徴兵制による国民皆兵システムを、伝統的な考え方だけではなくヨーロッパ全体のパワーバランスをも覆すような形で巧みに利用した。その天才性は、戦略に関する自身の発想の独創性や斬新さではなく、そうした発想を状況に合わせて生かす臨機応変さと、実行する際の大胆さにあった。ナポレオンは、勝敗を決する戦闘を何時も重視し、戦争につきものの残忍性を受け入れる覚悟を持ち、政治的目的を達成する手段として、敵軍を壊滅するだけの集中的な武力を生み出そうとした。と言う。
   敵の弱点を見つければ、突破するためには追加戦力を投入し、自軍の弱点をカバーするためには、行動を起こすべきタイミングを待ち、最大限の力を確保し完全に優位な状態に立つと冷酷無比の攻撃を仕掛ける。政治的権限と軍事的権限を自分一人で掌握していたので、独断専行で大胆に振る舞うことが出来、その楽観的思考、自信、非凡な連戦連勝の実績によって、配下の兵士たちの忠誠心を獲得し、的の恐怖心を押しつけた。こうして、ナポレオンは、抗しがたい魅力を身につけ、自らも常にそれを利用しようとしてきた。というのである。

   さすれば、ロシアへの侵攻、ボロジノの戦いは、何であったのか。
   まず、クラウゼビィッツだが、ボロジノの会戦において、戦略が展開されたとは考えていない。彼は、当初、その広大さゆえにロシアを戦略的に支配下に置き、占領することは不可能であると考えていた。また、その後、彼は、ナポレオンがロシア軍を追撃しなかった件については批判を強め、ボルジノの会戦は、戦い抜くことなく終った戦闘だったと述べており、筆者は、敵に壊滅的な打撃を与えずに得た勝利には限られた価値しかないと言う。

   ロシアへの行軍は予想外に困難で、ナポレオン率いる大陸軍は、戦闘らしき戦闘を経験しないうちに、多大な人的、物質的損失を伴い、戦闘が始まる頃には、もと居た45万人の兵士のうち、既に3分の1を失い、ナポレオンも、ボロジノの会戦では、調子を崩し、従来の行動原理から外れ、高熱を伴う排尿障害に苦しんで指揮を執れる状態ではなかったという。
   ロシア軍の指揮官クトゥーゾフは、どう考えても勝ち目がなく、軍が壊滅すればモスクワが落ちるのは必然で、それならと、モスクワはナポレオン軍を吸い込むスポンジとして解放し、ナポレオンをモスクワへ引き寄せた。モスクワは、焼き払い焼き払われて、街の3分2を焼き尽くした。
   ナポレオンは、皇帝アレクサンドル一世が和平を求めてくると見込んでいたが、ロシアが、あらたな戦闘も和平交渉も望んでおらず、飢えと寒さに耐えられない自軍は、立ち往生のままなすすべもなく、フランスへ帰る以外になくなり、壊滅状態となったフランス軍は、筆舌に尽くしがたい困難と犠牲を伴った退却への死の行軍を開始した。
   ウィキペディアによると、フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と冬将軍とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。と言う。
   このあたりの描写は、トルストイの「戦争と平和」の映画を見れば良く分かるが、人類の愚かさが胸に迫って切ない。専制的独裁者に、善良な国民が、蟻や蜂の群れのように唯々諾々として、牛馬の如く従って生きる非条理な世界、実に悲しい。

   クラウゼビィッツが何と言おうと、悲惨な状態のフランス軍には、あらたな戦闘でロシア軍を全滅させる力など残っておらず、退却の死の行軍で殆ど壊滅状態、一方、人口の多い大国ロシアは、その損失を吸収出来た。
   アレクサンドル一世は、ヨーロッパでの反ナポレオン同盟の復活と言う自信の戦略の最終目標を実現させ、その後、ナポレオンは、もう一度、栄光を手に入れようとしたが、1815年のワーテルローの戦いで大敗を喫したのである。

   さて、このナポレオンのロシア遠征から、クラウゼヴィイツは防御する側に優位性があるとの考えを持つに至った。
   反乱軍やパルチザンの攻撃に占領軍が苦しめられる状態も生じており、防御する側が降伏している限り、他の国がその味方につく可能性もあり、パワー・オブ・バランスの考えから、侵略国があまりにも強くなることを防ぐために、他の国が敵対したり同盟を結んで対抗したりする。からである。
   尤も、防御の目的は後ろ向きだと認めており、日本の終戦のように重心が既に移動している場合には作用しない。

   いずれにしろ、ナポレオンは、戦闘に関しては正真正銘の天才だったが、巧妙な政治的手腕の持ち主ではなく、懲罰的な講和条件を課す傾向が強く、同盟関係を築く久ことには長けていなかったという。
   しかし、ナポレオンは、戦わずして勝つと言う孫子の兵法書をイエズス会のフランス語版で読んでいたと言うことであるから、ハードとソフトのバランス良きスマートパワーを活用する能力があれば、もう少し、マシなヨーロッパ新秩序の確立が可能であったのではなかろうか。
   ヒトラーも失敗したが、デジタル時代ならいざ知らず、地政学的にも、ロシアを陸軍中心で征服しようとするなどは無謀以外の何物でもなかったのではないかと思っている。
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