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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

大統領選:ハリス対トランプ

2024年07月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   米大統領選は「ハリス対トランプ」で再始動、100日間の短期決戦となり接戦が予想されている。

   ハリスは、23日、ウィスコンシン州で遊説を開始し、黒人女性歌手ビヨンセさんの曲「フリーダム」(自由)が流れる中で登壇して、「私たちは未来のために戦う」と宣言して、トランプが「米国を暗い過去に戻そうとしている」と述べて対比を強調した。 
   私が注目したのは、この点で、先日、トランプが、すでに賞味期限切れになってしまったと述べた本旨でもある。トランプの「MAGA」など、アメリカ経済社会の後ろ向きへの逆転政策であって、益々、アメリカを窮地に追い込む。轟音を轟かせて大変革を遂げているグローバル世界に背を向けて、国際社会から隔離遊離を策して「アメリカ第一」を追求しても、時代の流れに逆行するだけである。

   興味深いのは、ハリスの「検察官対重罪犯」かという対決戦略で、
  ハリスは、元検察官という自らのキャリアに言及して、「女性を虐待する略奪者、消費者からだまし取るペテン師、自分の利益のために規則を破る詐欺師、あらゆる種類の加害者と私は対決した。だからドナルド・トランプのようなタイプを知っていると私が言う時、どうか話を聞いてほしい」と、大統領経験者として史上初めて重罪で有罪評決を受けたトランプと、犯罪者と対峙してきた元検事の姿を対比させた。 ことである。

   経済問題が最大の争点となろう。
   インフレに対するバイデン政権の対応の不手際がハリスの足を引っ張るであろうが、トランプの経済政策の悪さは、スティグリッツ教授の見解を紹介したのでここでは言及しない。
   注目したいのは、「中間層の強化」こそハリス政権を特徴付ける目標になると公約した。点で、これはトランプの対極にあるアメリカ経済の構造改革であり起死回生の経済政策で、これが実現できれば朗報となる。
  さらに選挙キャンペーンの中心と位置付ける有権者の経済的不安解消に向け、医療と育児、有給家族休暇の拡充に重点を置くアジェンダもアピールしており、福祉国家生活重視を推し進めるであろう。

   さて、問題は、ICT革命、AI時代の開花で選挙運動を妨害する偽情報の台頭である。
   しかし、フェイクニュースなど偽情報の最大の発信元はトランプで、トップメディアが、嘘八百口から出まかせの虚偽情報を2万回以上も発言したと報じたトランプの虚偽と欺瞞に満ちた偽情報の垂れ流しは、AIどころの比ではない。
   むしろ、恐ろしいのは、アメリカの覇権を認めず分断を策して政治経済社会の崩壊を目論む専制国家等敵対国からの偽情報操作であろう。

   まだ、民主党の副大統領候補も決定していないし、ハリスの戦略戦術も確定したわけでもないので、まだ、確たることは言えないが、攻撃主体のトランプが弁舌さわやかで知的水準の高いハリスに攻められて防戦に苦慮するはず、9月のテレビ討論会の丁々発止が愉しみである。
   アメリカの良識が、民主主義を堅持し続けることを祈りたい。


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アメリカの深刻な分断に思う

2024年07月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   驚天動地のトランプ暗殺未遂事件、
   ここまでアメリカの民主主義の闇が浸透したのかと思うと、恐ろしくなる。

   私がアメリカに住んでいたのは、1972年からの2年間、ニクソン大統領の時代で、ウォーターゲイト事件がアメリカ社会を震撼させていた。
   結局ニクソンは、この事件で、私がアメリカを離れて少ししてから辞任した。
   しかし、ベトナム戦争を終結させ、キッシンジャーと中国に渡って国交を開くなど偉大な業績を残したのである。

   私が問題にするのは、このことではなく、当時のアメリカでは、思想的というか政治的な深刻な二極化はなかったということである。
   貧困の撲滅などの実現を主張した「偉大な社会」を掲げた民主党のハンフリーと大統領選挙で戦った時の争点は、公民権運動やベトナム反戦運動の過激化などであって、今日のように、国家を分断する深刻な保守とリベラルの相容れぬ対立ではなかったのである。

   深く検証する余裕がないのだが、
   「経済だ、バカ “It’s the economy, stupid.” 」で、ブッシュに勝ったクリントン時代には、まだそれほど問題ではなかったように思う。
   しかし、この間、ベルリンの壁やソ連の崩壊で世界がフラットになって資本市場が拡大して、ICT革命とグローバリゼーションの拡大が呼応して、中印など新興国の経済的台頭で、一気に、グローバル経済の発展拡大を引き起こした。
   同時に、アメリカ経済の地位が低下し始めて、リーマンショックに端を発する2008年の世界金融大危機以降、経済格差の異常な高まりで、アメリカの資本主義が暗礁に乗り上げた。
   格差と貧苦に泣き、エスタブリッシュメントに反旗を翻した国民大衆が立ち上がって、「We are the 99% ウォール街を占拠せよ」が勃発し、
   現状を批判し否定して檄を飛ばしたポピュリズムの極致トランプ現象が出現した。

   しかし、問題は深刻である。
   トランプが叩き潰そうとしている民主主義が国民の福利厚生安寧に如何に大切かを知らずに、
   保守党が堅持しようとしている弱肉強食の市場万能の市場資本主義システムが富者強者を利するだけであって国民の益にはならないということに気づかずに、
   そして、第2次トランプ政権が、弱者の見方では決してないことを知らずに、
   アメリカ国民の多くは、トランプを鳴り物入りで囃し立てている。
   知的水準の格差、民度の格差が、アメリカを窮地に追い込んでいる。
   
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また、PLALAのメールアドレスが盗まれた

2024年07月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
  遅い午後、外出から帰ってOutlookでメールを開こうとしたらフリーズしたままで画面が動かい、メールが開けない。
   少しすると、小さな画面が表れて、IDとPWを打ち込めと指示が出た。ログイン指示だと思って、打ち込んだが、画面には送受信エラーが出ただけで変化がない。
   PWは、先月末のメールアドレス盗難事件で変更した新しいのを何度も確認して打ち込んだが、作用しない。IDはメールアドレスであり間違いないので、PWが不具合ということである。
   先のトラブルは、PWを盗まれてメールを乗っ取られて悪質メールを拡散されるのを察知したPLALAが、PWを急遽変更して悪化を回避したと聞いていたので、この事件の再来かと嫌な予感がした。

   PLALAに電話して聞いたら、やはり、PLALAのWevメールからメールが盗まれて、危機回避のために、PWを変更したので、メールの送受信ができなくなったということであった。
   急遽PWを変更してOutlookを開いたら、怒涛のように新規メールが飛び込んできた。2000に近いメール量である。
   その大半、というよりも殆ど全てが、Mail Administratorなどの受信拒否連絡メールであった。
   
   前回は、窃盗者に勝手に2件のオプションが申請されてメールが発信されて、その拒否通知の Mail Administratorで150通くらいで治まったが、今回はその10倍以上。
   時間切れで、PLALAとの連絡電話は切れて、翌日、専門スタッフから電話するということになった。
   前回と同じことをして、このオプションを消すのであろうが、この鼬ごっこがいつまで続くのであろうか。
   
   前述したように、PLALAへ電話して、はじめてメール窃盗の話が分かって対処しているのだが、PLALAからは、メールPWを変えろというメール案内だけ。
   大々的にPLALAからMAが盗まれて私のようなケースが起こっているのかと聞いたら、いくらかそんな電話があるという返事である。
   インターネットで、「PLALAメール障害」など類似の検索をしたが、DOCOMOからの、3月の「 PLALAの インターネット接続サービスに関する重:要なお知らせ(通信障害等)」があるだけで、一切私のケースのような障害報告はない。

   2週間足らずの間に、2回もメールアドレスが盗まれるという不祥事、
   DOCOMOというべきか、NTTグループのセキュリティシステムはどうなっているのか。

   このPLALAのメールアドレスを放棄して新しいメールに切り替えるのが一番良いのであろうが、もう20年近くも使っているので、影響が大きい。
   それに、このパソコンがダウンして先月初期化したので、メールアドレスなどすべて消去してしまったので追跡のしようがない。

   さて、どうするか。
   傘寿を超えたITディバイドの老人には死活問題である。
   PLALAからの電話を待って、続報する。

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平川 祐弘 著「日本人に生まれて、まあよかった」

2024年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「自虐」に飽きた、すべての人に贈る辛口・本音の日本論! 日本人が自信を取り戻し、日本が世界に「もてる」国になるための秘策とは? 教育、歴史認識、国防、外交―比較文化史の大家が戦後民主主義の歪みを一刀両断!というこの10年前の新書版。
   積み上げた本の山を崩していて、どこかで見た名前だと思ったら、ダンテの「新曲」やボッカッチョの「デカメロン」で読んだ山川先生の本である。

   日本の良さとは関係ないが、この本の序章で述べている見解などが、私自身の経験ともダブっていて興味深いので、一寸触れてみたい。
   まず、著者の思想遍歴であるが、当時東大ではマルクス優位で、駒場寮で不破哲三と同室であったが、唯物史観には違和感があって、一種のオカルト集団だと思った。しかし、資本主義に対する社会主義の優位は当然のことと思っていた。という。
   「朝日新聞」や「世界」の読者で、南原繁や大内兵衛などの進歩的知識人を糾合した平和問題懇談会などの論壇主流の考えに従っていたのだが、イデオロギーには信を置かず、教養部では地道に複数の外国語を学んだ。フィロソフィー(哲学)ではなく、フィロロジー(外国語)を重んじた。その人文主義的アプローチのおかげで、真面な人生を送れた。マルクスに打ち込んだ人は、みなさん政治的にも学問的にも世間の役立たずになった。というのが面白い。

   ここで考えるべきは、一つの教条的な思想哲学に入れ込んで学ぶよりは、幅広くリベラルアーツを学んだ方が常識人というか、バランスの取れた人間を育成できるということであろう。専門教育の中途半端とリベラルアーツ教育の貧弱さが、日本の教育の欠陥であろうか。

   著者より10年くらい後の安保騒動で学生運動が熾烈を極めていた頃の京大だが、元々、経済学部の教授陣の7割がマル経であったので、文句なしにマルクスであった。
   ところが、私自身は、高校時代から「世界」を購読していて、かなり、進歩的思想には興味を持っていた。
   しかし、なぜか、マルクスには何の興味もなく主義信条にも関心がなく、学生運動やサークル活動に参加していなかったので、人並みに、学生集会に参加し、河原町通りなどでのデモ行進には参加したものの、安保反対運動や学生運動には無縁であった。
   ゼミは、理論経済学の大家岸本誠二郎教授を選んだので、マル経とは関係なかったし、ケインズやシュンペーターやガルブレイスなどを独習していた。
   サミュエルソンの「エコノミクス」で、近経の基礎を叩き込んだおかげ困ることはなかったし、その後、アメリカのビジネススクールでのマクロとミクロの経済学でブラッシュアップできたと思っている。
   今頃になって、マルクスの偉大さを斜めから垣間見て、少しは、勉強すべきであったと後悔している。

   ところで、ロンドンに居た時に、マルクスが住んでいた旧宅の跡地を何回か訪れている。
   ロンドンのウエストエンドの繁華街に、「クオバディス」というイタリアン・レストランがあって、その上階の屋根裏部屋がその家である。マルクスは、ここから、それほど遠くない大英博物館に通って勉強していたのである。薄暗い小部屋が並んでいて、当時そのままだとオーナーは言っていた。
   マルクス主義者にとっては聖地のはずだが、訪れる人は殆ど居ない。

  もう一つ付記しておきたい日本の良さは、
  東アジア諸国の中で日本のように言論の自由が認めれれている国に生を受けたことは、例外的な幸福であると感じています。私はこの類まれな幸福を誇りに思い、言論の自由、」表現の自由を尊ぶ者として、その事実を率直に公言することを憚りません。という指摘である。
   私は、ビジネスや私的旅行で世界各地を歩いてきて、特に不自由を感じたことがなかったが、学者として、多くの留学生や訪問教授と付き合い、西洋のみか東アジア諸国の大学で講義や講演を体験してきた著者にとっては深刻な問題であったのであろう。

   若いころは、ビジネスで東南アジア各地も走り回ったが、21世紀に入ってからは、台湾と中国への観光旅行だけである。
   しかし、最近では、何がひっかるかわからないので、もう、行きたくない。
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PS:ダロン・アセモグル「それ自体が労働者びいきにならなければ、民主主義は死滅する」

2024年06月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
プロジェクト・シンジケートのダロン・アセモグルの論文「それ自体が労働者びいきにならなければ、民主主義は死滅するIf Democracy Isn’t Pro-Worker, It Will Die」が興味深い。

   民主主義は、約束された成果が達成されていないため、先進国全体で危機に瀕している。中道左派と中道右派が、賃金停滞、格差拡大、その他の好ましくない傾向と密接に結び付いているという事実から、極右と過激派政党は恩恵を受けて勢力を拡大している。
   民主主義が、国民の支持と信頼を取り戻すには、より労働者寄りで平等主義的になる必要がある。というのである。

   論点を抄訳すると、次のとおり。
   世界中で民主主義がますます緊張し、権威主義政党からの挑戦が激化していることは、すでにわかっていた。調査によると、民主主義制度への信頼を失っている国民の割合はますます増えている。極右が若い有権者に浸透していることは特に憂慮すべきである。今回のEUの選挙が警鐘だったことは誰も否定できない。
   しかし、この傾向の根本原因を理解しない限り、制度の崩壊や過激主義から民主主義を守る取り組みは成功しそうにない。
   先進国全体で民主主義が危機に陥っている理由は、制度のパフォーマンスが約束された水準に達していないことである。米国では、所得分布の底辺と中間層の実質所得は1980年以降ほとんど増加しておらず、政治家もそれについてほとんど何もしてこなかった。同様に、ヨーロッパの多くの国では、特に 2008 年以降、経済成長が鈍化していて、最近低下傾向にはあるが若者の失業率は、フランスや他のヨーロッパ諸国では長い間、大きな経済問題となっている。

   西側の自由民主主義モデルは、雇用、安定、高品質の公共財を提供することになっていた。第二次世界大戦後、このモデルはほぼ成功したが、1980 年頃からはほぼすべての点で不十分であった。左派と右派の両方の政策立案者は、専門家によって設計され、高度な資格を持つテクノクラートによって管理される政策を宣伝し続けた。しかし、これらの政策は繁栄の共有をもたらさなかったのみならず、2008 年の金融危機の条件を作り出し、成功の痕跡をすべて剥ぎ取った。ほとんどの有権者は、政治家は労働者よりも銀行家のことを気にしていると結論付けた。

   民主主義が経済成長、腐敗のない政府、社会と経済の安定、公共サービス、格差の少なさを実現しているという直接的な経験を持つ有権者は、民主主義制度を支持する傾向があるが、これらの条件を満たさなければ支持を失うのは当然のことである。
   さらに、民主主義の指導者は国民の大部分の生活条件の改善に貢献する政策に焦点を当てているにもかかわらず、国民と効果的にコミュニケーションをとることに成功していない。
   民主主義の指導者は、国民のより深い懸念にますます無関心になっている。フランスの場合、これは部分的にマクロンの横暴なリーダーシップスタイルを反映している。しかし、これはまた、制度に対する信頼のより広範な低下、そしてソーシャルメディアやその他のコミュニケーション技術が(左派と右派の両方で)二極化した立場を促進し、国民の多くをイデオロギーの反響室に追い込む役割を果たしている。
   政策立案者や主流派の政治家も、大規模な移民がもたらす経済的、文化的混乱に鈍感であった。ヨーロッパでは、過去10年間で中東からの大量移民について国民のかなりの割合が懸念を表明したが、中道派の政治家(特に中道左派の指導者)はこの問題への取り組みが遅かった。それが、スウェーデン民主党やオランダ自由党などの反移民極右政党に大きなチャンスをもたらし、その後、これらの政党は与党の公式または非公式な連立パートナーとなった。

   先進国における共通の繁栄を妨げる課題は、AIと自動化の時代には、さらに大きな問題となろう。気候変動、パンデミック、大量移民、地域および世界の平和に対するさまざまな脅威が、すべて懸念事項となっている時代である。
   しかし、民主主義は依然としてこれらの問題に対処するのに最も適している。歴史的および現在の証拠は、非民主的な政権は国民のニーズに応えにくく、恵まれない市民を支援する効果が低いことを明確に示しており、証拠も非民主的な政権が長期的には最終的に成長を低下させることを示している。

   それでもなお、民主的な制度と政治指導者は、公正な経済の構築に新たな取り組みをする必要がある。それは、多国籍企業、銀行、および世界的な懸念よりも、労働者と一般市民を優先し、適切な種類のテクノクラシーへの信頼を育むことを意味する。グローバル企業の利益のために政策を押し付ける無関心な役人ではだめで、気候変動、失業、不平等、AI、そしてグローバリゼーションの混乱に対処するには、民主主義国は専門知識と国民の支持を融合させる必要がある。
   これは容易なことではない。なぜなら、多くの有権者が中道政党を信用しなくなっているからである。フランスのジャン=リュック・メランションに代表される極左派は、労働者への献身や銀行やグローバルビジネスの利害からの独立という点で主流派政治家よりも信頼性が高いが、左派のポピュリスト政策が本当に有権者が望む経済をもたらすかどうかは不明である。
   これは中道政党が進むべき道の1つを示唆している。彼らは、グローバルビジネスや規制のないグローバリゼーションへの盲目的な忠誠を拒否し、経済成長と不平等の低減を組み合わせる明確で実行可能な計画を提示するマニフェストから始めることができる。また、開放性と移民に対する合理的な制限の許容との間でより緊密なバランスを取る必要がある。
   議会選挙の第2回投票で国民連合に対抗して十分な数のフランスの有権者が民主派政党を支持すれば、マクロンの賭けはうまくいくかもしれない。しかし、たとえそうなったとしても、従来通りのやり方を続けることはできない。民主主義が、国民の支持と信頼を取り戻すには、より労働者寄りで平等主義的になる必要がある。

   以上が、アセモグルの主張だが、
   危機に瀕している民主主義を救済するためには、そのパフォーマンスに失望して信頼を失っている重要な担い手である労働者や一般市民の安寧と生活水準をレベルアップすることによって、中道政治の支配体制を取り戻す以外に道はない、ということであろうか。
   私が興味を持ったのは、ワシントン・コンセンサスを皮切りとした、そして、EUのブラッセル官僚に至る独善的強権的に民主主義の政策を操ってきたテクノクラートの政治経済政策管理が、資本主義の方向性を誤って民主主義を窮地に追い込んできたという強烈な糾弾である。
   国際機関や官僚機構の主導を許して、 高邁な哲学思想を欠いた為政者や政治家に支配されたリーダー不在の世紀末から今日にいたる政治経済社会体制が、民主主義を弱体化させてきたということである。


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W・チャン・キム 他著「ブルー・オーシャン・シフト」

2024年06月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   W・チャン・キム & レネ・モボルニュ 著の「ブルー・オーシャン戦略――競争のない世界を創造する」の続編である。長い間積読であったのを、パソコン故障で手持無沙汰となって、書棚から引き出した。
   このブルーオーシャンの本は、クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」に関する一連の本とともに、イノベーション論で最も感化を受けた本である。
   さて、この本は、更に進めて、あらゆる組織が、レッド・オーシャンからブルー・オーシャンへシフトして、どのようにして新たな成長をつかみ取るか、その戦略と方法を説いていて興味深い。

   レッド・オーシャンは、大多数の企業が競争する既存の企業界を指し、ブルー・オーシャンは、無競争で全く新たに創造される業界すべてを指し、利益や成長は次第にここから生まれるようになる。血みどろの既存市場での競争に明け暮れて呻吟するレッド・オーシャン企業の競争の理論に対して、競争を無意味にする市場創造の理論である「ブルー・オーシャン戦略」を解き明かす。

   さて、今回面白いと思ったのは、「攪乱的イノベーション」という概念である。
   クリステンセンは、イノベーションを「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」に分けて、後者の革命的イノベーションについて詳細に論じて一世を風靡した。
   ところが、キムたちは、このクリステンセンの「破壊的イノベーション  disruptive  innovation 」を破壊的ではなく、「攪乱的イノベーション」と訳して、disruptive(混乱を起こさせる、妨害する)とdestructive(破壊的)とに明確に使い分けている。このように使い分けると、クリステンセンの破壊的イノベーションは「攪乱的イノベーション」であって、低位のテクノロジーから支配的イノベーションへと進化してリーダー企業を凌駕してゆく、イノベーターのジレンマの過程が良く分かる。

   ところで、シュンペーターの説いたのは、「創造的破壊 creative destruction 」である。
   経済成長の真のエンジンは、新市場の創造であり、この創造は破壊によってもたらされる。破壊が起きるのは、イノベーションが従来の技術や既存の製品・サービスに代替することによってであり、代替なしには破壊は起きない。
   創造的破壊が、優れた技術、製品、サービスが登場して、従来のものに取って代わることによって起こるのだが、現実には多大の影響力を持つクリステンセンの説く前述の「攪乱的イノベーション」が重要である。
   最初は劣った技術なのでトロイの木馬として登場して、やがて、優れた技術や製品に進化して、市場リーダーを駆逐する。市場を揺るがせるような技術ではなかったので新参者を無視して看過したリーダー企業が気付いた時には既に手遅れとなって駆逐されてしまう。

   尤も、非攪乱的創造も生まれている。
   セサミストリートやマイクロフィナンスのグラミン銀行などその例で、それに、ICT分野でも多数生まれている。
   イノベーションは、多岐にわたっているのである。

   注目すべきは、技術イノベーターは、卵を産むかもしれないが、自分たちで孵化させるわけではない。その卵を孵化させて商業的な成功へ導くのは、他の企業家であって、例えば、
   世界最初のPCを発明したのはMITSだったが、新しいPCのマスマーケットを支配したのは、アップルとIBMであった。
   ダーウィンの海や死の谷を越えて、イノベーションを企業化するのは大変なのである。
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本への志向が変ると言うこと

2024年05月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、「旅心を刺激する本」と言うことで私見を書いたが、ふっと気付いたのは、昔と違って、大分本の読み方が変って来たのかも知れないということである。
   勿論、学生の頃とビジネスマンの頃と引退後との読書傾向が変ってくるのは当然なのだが、それよりも、自分自身のものの考え方なり、興味関心が変化してきたという方が大きいかも知れないと言う気がしている。

   まず、私の読書だが、考えてみれば、今まで、本にのめり込んでとか、夢中になって本を読むとかいった感じで、読書することは殆どなかった。どちらかというと、本を読もうとそのつもりになって努力して読むと言った傾向の方が強かったような気がする。
   だからと言って、それが苦痛だと言うことでは全くなくて、新しい知への遭遇が嬉しくて、ドンドン本を読みたいたいと言う気持ちが勝って読書を続けてきた。

   この傾向は、学生時代の経済学などの専門書の読み方と似ている。
   知識を吸収するためには、難しい本であっても、ドンドン新しい本に挑戦して、視野を広めて深掘りする必要があり、その継続であった。
   丁度、古社寺など歴史散歩に明け暮れてて日本文化を勉強したいと、真善美の追求に目覚め始めた時期でもあったので、何の抵抗もなく、この方は、趣味と実益を兼ねてと言うことでもあり、読書の幅が広がって行った。
   尤も、もっと深く知りたいと言う思いで本を読んでいるので、能狂言などをはじめとして、結構、気を引き締め努力して読まなければならないこともあったが、それも読書の醍醐味でもあった。

   さて、最近の読書だが、現役を離れて随分経つので、経営学関係の本からは大分距離を起き始めて来て、興味は、イノベーション以外には、資本主義や民主主義の動向など歴史的というか世界観の展開に移ってきた感じである。文化文明論や歴史関係の本を引っ張り出すことが多くなってきた。

   何冊か同時に並行読みするのも、私の読書方法だが、専門書などは、結構この方法が有効で、このブログでも備忘録を兼ねてブックレビューしているので検索しながら、過去の知も引き出して参考にしている。

   ところで、今並行読みしているのは、ボッカッチオの「デカメロン」、
   100話あるので、小刻みに読んでいる。
   愛の交歓をテーマにした艶笑話という巷の評価かも知れないが、決してそんな低俗な作品ではなく、主に、ルネサンス初期のイタリアを舞台にした喜怒哀楽、生身の人間模様を活写した文学作品で、ルネサンス裏面史を観ていうようで面白い。 
   時折、ダンテの「神曲」も、この辺りの話と相通じているので、並行読みに加えることもあって、期せずして、ダ・ヴィンチやミケランジェロに飛ぶこともある。ルネサンス・イタリアにはポケットが沢山あって興味深いのである。

   変ったと言えば、このように、メインの専門書の読書からはみ出して、あっちこっち興味の向くままに、本の谷間をステップし始めたと言うことであろうか。

       
   
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旅心を刺激する本と言うのだが

2024年04月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   インターネットを叩いていて、「日経BOOKプラス ~ 本に学ぶ、明日が変わる」の「東京・吉祥寺 街々書林 旅心を刺激する魅惑の本屋さん」の記事に出くわした。
   2023年6月、「旅先への興味と敬意」をコンセプトにした、「旅する本屋 街々書林」が、東京・吉祥寺にオープンした。観光ガイドのみならず、紀行、エッセー、歴史、民族、地誌、言語など、「旅」を起点としたさまざまな本がそろう。当店のコンセプトを格好良く言えば、「旅先への興味と敬意」です。と言う。
   旅行ガイドや旅行記、紀行、エッセーなどと共に、たくさんの歴史の本や人文書があるという旅の本の専門書店であろう。

   さて、私自身読書ファンであって傘寿を越えた今も毎日読書を続けており、旅についても、学生時代から現役引退後もかなりの期間、内外の旅を続けてきた。私自身の読書と旅の関わりはかなり濃密であり、その関係というか遍歴はどうであったのか、はたと考えてみた。

   もう60何年も前の学生時代は、当時、学割周遊券やユースホステルが安かったので、苦学生でも長旅が出来たので、九州と北海道の一周の旅に出た。幸いに、京都での学生生活であったので、京都や奈良など近畿地方の古社寺や歴史散歩に明け暮れていた。
   それでは、旅心を刺激したとか旅の参考にした本は何だったのかと言うことだが、地方の旅では、一応、交通公社の観光ガイドが頼りではあったが、殆どは学校で勉強した知識が参考に寄与した程度で、副読本は、あまり読まなかった。
   しかし、京都や奈良の旅というか芸術文化行脚には、和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」をはじめとして、歴史建造物、仏像、絵画、庭園、文學歴史などの関係本、源氏物語や平家物語など、随分読み漁って、理論武装して歩き回った。
   こうなると、読書が旅を刺激し旅が読書を刺激する、
   現役時代でも、出張が多くて土日を挟んで、かなり、地方を回る機会があって歴史や文化に触れてきたのだが、この場合にも読書と旅の好循環を経験してきている。

   海外の旅については、海外生活が14年で、1泊以上した国が、30カ国くらいになっており、世界の人々と切った張ったの激務ではあったが、私のような凡人には、見るべきものは見たと言う心境である。
   ギリシャ・ローマの文化や歴史に憧れて、パルテノンの丘にいつ立てるか、恋い焦がれた京都の学生時代が無性に懐かしいが、やはり、旅への憧れを触発したのは、世界の歴史や文化文明論、そして、写真や絵画、欧米のガイドブックなど多くの書物から得た世界への飽くなき思い。
   海外への門戸を一気に開いてくれたのは、奇しくも、フィラデルフィアへの大学院留学、
   海外業務と異郷の地で、寸暇を惜しんで、異文化異文明の遭遇渦巻く激流を噛みしめながら歩き続けてきた。

   ヨーロッパの旅行には、ミシュランのグリーンブックとレッドブック、そして、地図を携えて出かけた。必要に応じて、クックの時刻表や訪問国のガイドブックを使うことがあったが、旅行のスケジュール作成や旅行の手配一切は自分で独自でやって来たので、事前には、十分な情報を得て検討を重ねたつもりである。
   特に、イタリアやドイツやと言った、あるいは、ロマチック街道やスイスアルプスやと言った個別の情報に拘らずに、自分のそれまでの知識の総合で押し切り、現地に行けばミシュランガイドと現地情報で十分であった。

   めぼしい欧米の美術館博物館、歌劇場やホール、歴史遺産などには、現地で住んでいてアクセス自在だったので、ぶつけ本番で十分であった。特に、ダ・ヴィンチとフェルメールの絵画作品を殆ど鑑賞出来たのは本当に幸せだと思っている。
   シェイクスピア劇場へは小田島雄志の翻訳本を携えて通いつめ、結構シェイクスピア関連本も読んだ。
   しかし、このシェイクスピアもそうだし、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうだし、本格的に関係本の大著を読んだり、ダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」などを読んだのは最近であって、思い出を反芻している感じである。

   もう、体力的にも無理で、旅、特に、海外旅行を完全に諦めてしまったので、もう少し、外国の文化伝統歴史というか、その姿を本格的なバックグラウンドから見つめ直したいと言う気がしている。
   一見は百聞にしかずと言うが、実際に現地を旅して旅の本を読む楽しみは、格別であり、
   グラナダのアルハンブラ宮殿やコルドバのメスキータを観てイスラム文化を思うと、パレスチナのガザも違って見えてくる。
   
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ウォルター・アイザックソン著「イーロン・マスク」マスクとゲイツ

2024年04月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の第71章に、ビル・ゲイツ(2022)と言う章があって、ビル・ゲイツが、「一度ゆっくり、慈善活動と気候について話がしたいのですが」とマスクに持ちかけて、マスクのギガファクトリーで2022年3月9日に実現した会談の興味深い話が掲載されている。
   勿論、以前にも二人は会っており、ゲイツがスペースXを見ている。
   マスクとゲイツは似たところがわりとある。分析力に優れ、レーザーのように鋭く何かに集中する。一歩間違えば尊大とも取られかねないほどみずからの知性を信じている。ばか者はがまんならない。こんなふたりであるからぶつからない方がおかしいので、二人は工場に入ると、ぎんぎんにぶつかり合ったという。

   まず、ゲイツが、バッテリーで巨大なトレーラ-トラックを動かせる日は来ない。気候問題を解決するには太陽エネルギーは大きく力不足だと言い出した。
   先にゲイツは、著書「地球の未来のため僕が決断したこと」で、同じ重さで比べると、今手に入る最高性能のリチウムイオン電池に詰め込めるエネルギーは、ガソリンの35分の1だと言うことで、ガソリンと同じ量のエネルギーを得るには、ガソリンの35倍の重さのバッテリーが必要になる。バフェットが飛行機の電化論を提言したので、この話をしたら、ダメだと納得したと語っている。電池バッテリーの威力など信じていないのである。 
   この本で、テスラが生きるか死ぬかの苦境に立ったときに、テスラ株が空売りを浴びせられて、マスクが辛酸を嘗めた事件を克明に描写しているのだが、この時、ゲイツはこんな考えであるから、テスラの株価が下がることに賭けて空売りを仕掛けていた。何故空売りをしたのか、ゲイツは、電気自動車は供給が需要を上回り、価格が下落すると判断したからと答えており、何度も聞かれて、分かりきったこと、空売りすれば儲かると思ったからだと言っている。
   この件は、ゲイツは予想が外れて巨額の含み損を抱えたが、マスクの最も嫌ったのは空売り筋であったから、この話を聞いて、マスクははらわたが煮えくりかえった。ゲイツが謝罪したがマスクの気は収まらない。
   マスクは、電気自動車に向けて世界を動かすと言うミッションを信奉して、安全な投資と思えなくても、有り金すべてをつぎ込んできた。「どうして、気候変動と真剣に戦っていると言いつつ、一番奮闘している会社の足を引っ張るようなことが出来るのか。そんなの偽善に過ぎない。どうして、持続可能エネルギーの会社をこかして金を儲けようとするのか。」と憤懣やるかたない。

   慈善活動に邁進するために、財団の経営者に転進したゲイツにとっては、資金運用が第一であって、それに、電気自動車をそれほど評価していなかったのではなかろうか。
   慈善活動については、マスクは、昔から興味がなく、ほとんどは「たわごと」だと考えていた。自分が人類に貢献するには、お金を会社につぎ込み、エネルギーの持続可能性や宇宙開発、人工知能の安全性などを推し進めることが一番だと考えているからである。
   その後、ゲイツから、慈善活動のアイデアがいくつも記された文書が届き、慈善活動について話をしたいのだがと言ってきたので、まだ、テスラ株の空売りをしているのかと確認すると、まだ手じまいをしていないとのことであったので、「気候変動の解決に一番尽力している会社テスラに大規模な空売りを仕掛けている人が進めている気候問題の慈善活動など、真剣に考えることは出来ません」と突っぱねている。

   面白いのは、火星に対する二人の姿勢。
   ゲイツにとっては、火星などどうでも良い存在なのだが、マスクは火星に熱中しすぎで、地球で核戦争が起きるかも知れなくて、その時火星に人が住んでいて人がいれば、その人たちが戻ってきて、我々が殺し合って皆がいなくなった後、彼らが生きてくれるとかくれないとか、なんとも突拍子もない話だと言う。
   マスクにとっては虎の子のプロジェクトスペースXの火星へ行くと言う最大のミッションは、ゲイツにとっては、異次元の世界であったのであろうか。

   しかし、いずれにしろ、ゲイツは、工場は凄いし、マシンやプロセスの細かいところまで詳しく知っているマスクも凄い。スターリング衛星を沢山打ち上げ、宇宙からインターネット接続を提供するスペースXも凄い。20年前にテレデシックでやろうとしたことが実現されたわけだから。と述べている。
   そして、ワシントンDCの晩餐会で、マスクの批判があっちこっちで出たときに、「イーロンの言論についてあれこれ思うのは勝手ですが、科学とイノベーションの限界を彼ほど広げている人物は、この時代に、他にいませんよ」と指摘したという。
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ウォルター・アイザックソン著「イーロン・マスク上下」

2024年04月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ウォルター・アイザックソンの著作を読んだのは、「スティーブ・ジョブズ」と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と、この「イーロン・マスク」で3作目だが、イーロン・マスクを徹底的に調査研究して余すところなく現代屈指のイノベーター、アントレプレナーとしての偉大な足跡を活写していてまさに驚異を覚える。

   マスクの凄さ偉大さについて、一つだけ例証すれば十分で多言は要しないであろう。
   それは、火星に行きたいとして立ち上げたスペースXの物語である。
   2008年、艱難辛苦を乗り越えて、3回失敗し4回目の打ち上げで、ファルコン1が、民間が独自で開発したロケットとして初めて、地上から打ち上げて軌道に到達したのである。マスク以下、わずか500人で一から設計して、製造も総べて自分たちでやった(ボーイングは、当該部門だけで5万人を擁している)。外部に委託したところはないに等しい。資金も民間だ――大半はマスクのポケットマネーだから。NASAその他とミッション契約は結んでいるが、成功しなければお金は払われない。補助金もなければ実費精算という話もない。
   そして、マスクは、「これは長い道のりの第一歩にすぎない。来年はファルコンを軌道まで打ち上げる。宇宙船ドラゴンも開発する。そして、スペースシャトルの後継になるのだ。やることはまだある。火星にだって行かなければならない。」と言った。
   その年の12月、NASAから、国際宇宙ステーションまで12往復、16億ドルの契約がスペースXに与えられた。

   2020年5月、クルードラゴン宇宙船を頭に付けたファルコン9ロケットがNASAの宇宙飛行士を乗せて、国際宇宙船を飛び立った。
   宇宙飛行士を国際宇宙船まで運べるロケットを開発する契約をスペースXと結んだが、NASAは同日付で、同等の契約を予算60%増しでボーイング社と結んでいる。だが、このスペースXがミッションを達成した2020年、ボーイングは、国際宇宙船ステーションと宇宙船の無人ドッキング試験さえ出来ていなかった。

   マスクは、今や、このスペースXに加えて、テスラ、X Corp.(旧:Twitter)ほか幾多の最先端の企業を経営するイノベイティブな企業家でもあるが、壮大なミッションを掲げて、完遂するためにはドンドンハードルを引き上げて行き、一切の妥協や怠慢を許さず、スタッフを叱咤激励して、突っ走り続けている。
   若くして逝ったスティーブ・ジョブズと並ぶ希有の天才起業家だが、まだ、若いので、この21世紀をどのような別天地に変えてくれるのか、夢は尽きない。

   さて、私が強烈に感じたのは、前述の逸話から、マスクの事業から比べれば、ボーイングでさえ、ゾンビ企業に過ぎないと言うことである。況んや日本の企業をやである。
   現代資本主義が危機だと言われ、日本企業の凋落が問題視されているが、マスクを思えば、そんな悪夢は飛散霧消する。
   国際競争力を失墜しつつある日本企業の経営者が、せめても、このアイザックソンのマスクの本や「スティーブ・ジョブズ」を、ケーススタディの教材として、経営戦略や戦術を、真剣に練り直せば、如何に有効か。
   格好のイノベーション戦略論でもあり、攻撃の経営学本でもある。

   勿論、上下で900㌻にわたる大著なので、多くの驚異的な逸話やストーリーの連続で、マスクとビルゲイツやジョブズ、ベゾス等との絡みなども興味深く、マスクも凄いが、アイザックソンの博学多識の筆の確かさにも舌を巻く好著である。
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ボッカッチオ「デカメロン」

2024年04月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ボッカッチョ (著), 平川 祐弘 (翻訳)の「デカメロン」を読んだ。

   講談社BOOK倶楽部の、田辺聖子の「ときがたりデカメロン」の内容紹介が、「デカメロン」を的確に説明しているので、そのまま引用すると、
   悪党、若妻、修道僧、騎士などの多彩な人物がおりなす性と笑いの物語。大胆に官能を楽しむ笑いと愛の物語ーー機知ある悪党、不倫の若妻、女色にふける修道僧、強情が仇となる人妻、悲恋の王子と王女、復讐された高慢な未亡人、自分に克った聡明な老王など、多彩な人物が、人間の欲望を大胆に肯定し、愛と正義の与える不思議な力で、官能的生を楽しむ永遠の名作。男女のリアルな生活とその美醜をあますところなくとらえ、機智と哀歓に満ちた一幕として明るい笑いとともに、人間性を開放した、ルネサンス期の傑作の楽しい物語。当代随一の作家が、美しい言葉で面白く説き語る愛の物語集。永遠に新鮮な古典の親しみやすい説き語り。
   と言うことで、まだこの本は読んでいないが、平川版のこの本で、頻繁に引用されて居るので興味を持った。

   平川版も、
   世界文学の金字塔! 待望の新訳決定版、ついに完成! いま、清新なルネサンスの息吹が甦る!
   ペストが猖獗を極めた十四世紀イタリア。恐怖が蔓延するフィレンツェから郊外に逃れた若い男女十人が、おもしろおかしい話で迫りくる死の影を追い払おうと、十日のあいだ交互に語りあう百の物語。人生の諸相、男女の悲喜劇を大らかに描く物語文学の最高傑作が、典雅かつ軽やかな名訳で、いまふたたび躍動する。挿画訳60点収録。
   と言うことで、この本は、2012年刊で休刊であるが、今文庫版がでている。
   平川祐弘教授のダンテ「神曲」や「神曲講義」などを読んで興味を持っていたので、文句なしに、800㌻に及ぶ平川版に挑戦することにした。

   前述したような艶笑談が、最初から最後まで、次から次へと100篇繰り広げられるのであるから、面白いと言うよりも、その話題の豊かさと凄まじさに圧倒される。
   語り手すべてが、バージンで結婚する乙女など一人もいないと言うほどオープンなルネサンス初期のイタリアの人生模様の描写であり、生きる喜びを愛に託して謳歌するために、人々の智慧と機転を利かせての手練手管の数々、
   一つ一つの話題が短いながら、独立した短編小説の趣なので、それぞれに興味をそそる。

   ところで、この本の話題は、どれもこれも、愛の交歓、恋の鞘当て、愛憎劇など男女の物語で、プラトニックラブや片思いと言った柔な話はなく、必ずコトに及ぶのだが、描写は極めてシンプルで、嫌みがなくて、ボッカッチオの筆捌きの鮮やかさで、クスリと笑いを誘う程度である。
   前世紀に日経新聞の渡辺淳一の「失楽園」を読み始めて、その性描写の凄まじさにビックリした記憶があるが、それから見れば、この「デカメロン」など温和しくて、発禁本などと言えるジャンルの作品ではない。
   
   第二日第七話に、バビロニアのサルタンの娘アラティエルをアフリカのガルボ国王の花嫁として嫁がせるせる話がある。
   ところが、航行途中で船が難破して、言葉も通じない異国に辿り着き城主に助け出される。貞操観念が強かったが、宴会でたしなみを失って城主と契る。その時の描写が、「城主は女と愛の楽しい営みを始めた。女はそれを感じた。それまで男がどんな角で女の体を突くのかアラティエルは知らなかった。それなものだから、ひとたび醍醐味を味わうと、なぜ今まで男が言い寄った時、もっと早く同意しなかったのかと悔やまれたほどであった。」
   途中は省略するが、アラティエルはあまりにも美しすぎたので、それが知れ渡って、次から次へと略奪、拉致されて不幸に遭遇し続ける。
   しかし、最後には、「4年間に8人と一万回ほど共寝した姫であったが、国王の脇に処女として横になり、そのとおり国王に思い込ませて、王妃として末永く幸多く国王と連れ添った。」と言う話。

   面白いのは、邪恋であろうと不倫の愛の交歓であろうと何であろうと、愛が成就したハッピーエンドの艶笑話の最後には、
   「神様、私たちにも同じように愛の楽しみを存分にお与え下さいませ。」と結んで、皆も同意する。

   ところで、このデカメロンだが、エログロナンセンスの悪書だと思われている向きもあるが、決してそうではなく、ダンテの「神曲」の対極にある愛を主題にした世俗小説であって、
   私など、実業でビジネスに活躍したボッカッチオの見た地中海世界や知見で蓄えた当時の勃興期のヨーロッパの様子が垣間見えて興味深かった。
   しかし、面白いが、このような艶笑談を、延々と続けられると、途中で飽いてくるのは必定で、これも人情かも知れない。と思う。
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ボッカッチョのデカメロンを読もうと思う

2024年03月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ボッカッチョのデカメロンを読もうと思って、平川 祐弘 訳の「デカメロン」を買った。
   2012年刊で古書しかないので、「日本の古本屋」でネットショッピングした。幸いにも新本で、少し安く手に入った。
   定価6600円、800ページ近くの大著で、
   いま、清新なルネサンスの息吹が甦る!
ペストが猖獗を極めた十四世紀イタリア。恐怖が蔓延するフィレンツェから郊外に逃れた若い男女十人が、おもしろおかしい話で迫りくる死の影を追い払おうと、十日のあいだ交互に語りあう百の物語。人生の諸相、男女の悲喜劇を大らかに描く物語文学の最高傑作が、典雅かつ軽やかな名訳で、いまふたたび躍動する。挿画訳60点収録。と言う本である。
   
   「デカメロン」については、好色本と言ったあまり評価の高い本ではないという認識しかなくて避けていたのだが、
   平川裕弘のダンテの「神曲」や「神曲講義」などを読んでいると、ボッカッチョはダンテの権威であり崇拝していて、「神曲」と甲乙つけがたい貴重な本だということなので、より当時の時代背景なども知りたくて、読むことにしたのである。
   「デカメロン」は、「三つの指輪」や「鷹の話」など断片的には知っている程度で、直接には全く読んだことがないので、100話をどう読むか、
   毎日読書を続けている専門書の合間に、2~3話ずつ拾い読みしていくのがよさそうである。

   まず、予備知識として、平川教授の「解説」を読んでみた。
   70ページに及ぶ詳細で丁寧な解説で、ダンテ「神曲」でも重宝したのだが、今回も周辺知識の補強に役に立つ。

   まず感じたのは、宗教に対する両者の違い、
   宗教の退廃について、ダンテは強く糾弾しているのだが、それよりも危険なのは、ダンテ本人を含むキリスト教至上主義者の態度そのものにあるとして、ボッカッチオは、堕落腐敗よりも更に大事な問題点である原理主義的徹底性の危険性を自覚していたのではないか、と述べている。
   ダンテはキリスト教西洋最高の詩人であり、一方ボッカッチオはヨーロッパ最大の物語作家で、ダンテに傾倒しながら、それでいて畏敬の念の奴隷にならなかった。この両作品を一望の下におさめるに当たって偏狭な信仰の目隠しを脱して広角の文化史的パノラマの中に初期ルネサンスの詩と散文を享受し得る。と言うのである。

   ボッカッチオは、国際政治についても、地中海貿易の実務に携わっており、キリスト教世界内部の「正論」を声高に唱えたりはせず、キリスト教徒とユダヤ教徒とイスラム教徒の平和共存を主張していた。 死後の生命よりも生きている間の方が大切であり、寛容を穏やかな声でわらいをまじえながら語った人だったのである。
   寛容はキリスト教の教義からではなく、地中海世界での実際の平和共存と言う生活様式の問題として主張されるようになり、良識派の人々が主張しかねていたのを、ボッカッチオが、巧みな物堅い形式を借りて「デカメロン」で書いた。
   人間の良さも悪さも知り尽くして、その上で滑稽な話、哀れ深い話、またふしだらな艶笑談も書いて、自分で笑い、人をも笑わせる人間性の豊かな人であったので、ダンテのように当世の堕落を告発する義憤癖にはついて行けなかった。 他人の退廃を糾弾する自己正義的な態度の潜む倨傲をいちはやく察していた。理想を掲げる人は得てして相手を侮蔑するひつようにせまられるがその種の正義感を片腹痛いものに思っていたに相違ない。と述べている。

   蛇足ながら、私は、欧米などのめぼしい博物館や美術館を回って沢山の絵を見てきたが、ダンテの「神曲」やギリシャ神話や聖書などをテーマにした絵画作品を結構観てきたものの、「デカメロン」を扱った作品を観たことがない。やはり、艶笑話などの所為なのであろうか。
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フランシス・フクヤマ 著「リベラリズムへの不満」

2024年03月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   本書の帶に大書された『歴史の終わり』から30年。自由と民主主義への最終回答。と言うこの本。
   日本語版のタイトルが誤解を招くのだが、原題は「Liberalism and Its Discontents」で、「リベラリズムとそれに対する不満」である。
   著者は、序文冒頭で、「この本は、古典的リベラリズムの擁護を目的としている。」と述べている。
   ここでは、マクロスキーの「人道的自由主義」を指しており、法律や究極的には憲法によって政府の権力を制限し、政府の管轄下にある個人の権利を守る制度を作ることを主張している。と言う。
   近年、リベラリズムが右派のポピュリストや左派の進歩派から激しい攻撃を受け、深刻な脅威にさらされているが、それは、その原理に根本的な弱点があるからではなく、この数十年の間のリベラリズムの発展の仕方に弱点があるからで、たとえ欠点があったとしても、平等な個人の権利、法、自由が基本的に重要であるリベラリズムは、非リベラルな代替案よりも優れていることを示したい。として、
   リベラルな体制を支える基本原則に焦点を絞り、欠点を明らかに、それに基づいて、どう対処すべきか提案する。と論陣を張る。

   興味深いのは、リベラリズムは「民主主義」に包含されているが、
   「民主主義」は、国民による統治を意味し、普通選挙権を付与した上での定期的な自由で公正な複数政党制の選挙として制度化されている。
   リベラルとは、法の支配を意味し、行政府の権力を制限する公式なルールによる制度である。として、世界大戦後普及した制度は、「リベラルな民主主義」と言うのが適切だという。

   この本は、私にとっては、リベラル史を縦軸にした政治経済体制史と言った感じであったのだが、興味があったのは、経済的側面で、
   歴史的に見れば、リベラルな社会は、経済成長の原動力であり、新技術を創りだし、活気に満ちた芸術と文化を生み出した。まさにリベラルであったからこそ起ったことである。と言う指摘。
   その例はアテネに始まって、イタリアルネサンス、そして、リベラリズムのオランダは17世紀に黄金時代を迎え、リベラリズムの英国は産業革命を起し、リベラリズムのウィーンは絢爛豪華な芸術の華を咲かせ、リベラリズムのアメリカは、数十年にわたって閉鎖的な国々から難民を受け入れながら、ジャズやハリウッド映画からヒップホップ、シリコンバレーやインターネットに至るまで、グローバル文化を生み出す地となった。

   面白いのは、経済思想におけるリベラリズムが極端な形で行き過ぎた「ネオリベラリズム(新自由主義)」への変容で、
   ミルトン・フリードマンなどのシカゴ学派・オーストリア学派が、経済における政府の役割を鋭く否定して、成長を促進して資源を効率的に配分するものとして自由市場の重要性を強調した。
   更に進んで、国家による経済規制を敵視し、社会的な問題についても国家の介入にも反対し、福祉国家にも強く反対する「リバタリアニズム(自由市場主義)」の猛威。
   市場経済の効率性については妥当だとしても、それが宗教のようになって国家の介入に原理主義的に反対するようになった結果は、世界的金融危機を引き起こし、経済格差の異常な拡大など資本主義経済を危機的な状態に追い込んだ。

   興味深い指摘は、新自由主義イデオロギーがピークに達した時に崩壊した旧ソ連は、その最悪の影響を受けたこと。中央政府が崩壊すれば、市場経済が自然に形成されると多くの経済学者は考えた。透明性、契約、所有権などに関するルールを強制できる法制度を持った国に厳格に規制されてこそ市場は機能することを理解していなかった。その結果、ずる賢いオリガルヒに食い荒らされ、悪影響は現在も、ロシア、ウクライナなどの旧ソ連圏の国々で続いている。と言う。「歴史の終わり」の裏面史で面白い。

   フクシマの本は始めて読んだのだが、私の専門の経済や経営の分野ではないので、思想家や哲学者たちの学説や専門用語などが出てきて、多少戸惑いを感じた。
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ヘイミシュ・マクレイ :2050年の日本は?

2024年03月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、ヘイミシュ・マクレイの「2050年の世界 見えない未来の考え方」について、「日本は2050年にも第4位の経済大国」という見解について書いた。
   日本経済についてだけの見解であったので、今回は、全般的な著者の未来展望について考えてみたい。
   かなり、独善と偏見があるので、多少は割り引いて考えるべきだと思うが、ほぼ正鵠を射ているので参考にはなろう。

   まず、日本は、地球上で最も高齢な社会となっていて、高齢化する先進世界の先頭を走っている。高齢化は更に進み、2050年には人口が1億人前後まで減り、労働力は総人口以上に速いペースで減少するため、高齢者がより高齢な人の面倒を見る国になる。
   大規模な移住があれば人口の減少は抑えられるが、他の国が混乱すればするほど国境を閉ざし、国民同士の自助強力の国民性が根付いており、そうはならず、外を見ずに内向きになり、日本は日本であり続ける。
   経済規模は相対的に小さくなっていくが、世界第4位の経済大国を維持し、西側連合の一員としてアメリカとの同盟関係は揺るがず、製造大国であり続けて、世界中に物理的資産や金融資産を保持し続ける。
   日本の文化は他の国々に強い影響を与え続け、高齢化に直面する他の社会の手本として、高齢化社会のパイオニアとして貢献する。

   問題は、日本は真のテクノロジーの座を維持出来るのかであるが、今の高い技術力は、1世代前に培われたスキルの上に成り立っている。日本はソフトウエアよりハードウエアに強く、輸出可能なサービスよりも輸出可能な財の生産を得意としているが、家電でリーダーだった時代は終り、世界をリードする自動車セクターの重要性も相対的に低下傾向にあり、日本の大学はレベル自体は高いものの、そこに学びに行く外国人は少ない。
   国民は文化生活を送っているが、経済のほとんどの分野で世界の最先端から遠ざかっている。
   イノベーションの歌を忘れたカナリア、国際競争力を喪失した日本企業の惨状が悲しい。

   第二の懸念は、国の財政状況、過剰債務の問題である。
   日本は、すでに公的債務の対GDP比が世界の主要国の中でも最も高く、これからも上昇し続ける。この状況は持続不可能で、どの様な形態のデフォルトになるかは分からないが、次の30年のどこかで、債務を再構築しなければならない。
   労働力が急速に縮小する中で、対GDP比で世界最大の公的債務残高は維持出来ないし、日本社会は強靱だが、混乱と痛みを伴わずに公的債務問題を解消できるとは思えない。と言う。

   これまで、何度か論じてきたので蛇足は避けるが、成熟経済に達した日本は、生産性のアップによる経済成長を望み得なくなっている以上、経済成長による債務返済は殆ど絶望的なのだが、
   MMT/現代貨幣理論に従えば、
   「自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行になることはない」ということであるから、ケインズ政策の実行などやむを得ず過剰債務になっても、心配はないと言うことであろうか。
   財政金融問題についての知識も乏しいし、まだ、MMT/現代貨幣理論については、半信半疑なので、何とも言えないのだが、
   債務の返済を考えれば不可能であろう、しかし、日本の異常な公的な過剰債務にも拘わらず、日本経済はビクともしていない。金利は払うとしても、このまま、塩漬けして債務償却を考慮しなければ、問題がないような気もしている。
   余談ながら、片山さつき議員と岸田首相が、今日の国会で、名目GDP1000兆円論議を展開していたが、30年間も500兆円台でアップダウンし続けて600兆円越えさえ難しいのに、馬鹿も休み休みに言え、と言っておこう。

   第三の懸念は、地政学の問題である。
   日本は内向きになりすぎて、力を増す中国に対抗する勢力にはなれない。自分の領土は防衛するが、中国の領土拡大を止める盾には加わらない。
   中国は、自国の固有の領土であるとする地域を占領すれば、そこで踏みとどまる、いずれにしても、中国の領土拡大の野望はやがて潰えると言うのが本書の大きなテーマの一つなのだが、東南アジアの近隣諸国の間の緊張を日本が傍観するとしたら、不安を感じずにはいられない。と言う。

   結論として、日本は2050年も結束力のある安定した社会であり続けるが、世界にあまり関心を持たない。国を閉じようとはしないが、相対的には犯罪の少ない環境や清潔さ、秩序を大事にする。と言う。
   島国には、世界に目を向けて、支配するとまでは行かなくても、少なくとも影響力を行使しようとする道を選べるし、世界への扉を可能な範囲で閉ざそうとすることも出来る。1950年から90年代までの40年ほどは、日本は前者の道を選んだが、今世紀に入ってから、日本は後者の道を選んでいる。日本は2050年までその道をひた走って行くだろう。と言うのである。

   日本は内向きで閉鎖的で世界に向かって国を閉ざしていると言うのは、極論過ぎるとは思うが、昔、ドラッカーが、日本はグローバリゼーションに対応できていないと言っていたのを思い出した。中印など新興国や東欧などが破竹の勢いで世界市場に雪崩れ込んで成長街道を驀進していた時期に、日本はグローバリゼーションの大潮流に乗れずに、鳴かず飛ばずで失われた経済に呻吟し続けた。
   私は、文革後の悲惨な中国や、後進状態で貧しくて発展の片鱗さえ見出し得なかった東南アジアの国々を、当時訪問していてよく知っているので、その後の目を見張るような近代化や成長ぶりや今日の偉容と、停滞し続けている日本の現状を見比べて感に堪えない。

   もう一つ内向き日本で思うのは、国際情勢に対する日本人の無関心さであろうか。
   ウクライナ戦争やガザ・イスラエル戦争等に対して、世界の各地で人々の激しい抗議デモなどが巻き起こっているが、日本では、関係者以外は我関せずで、安保騒動やヴェトナム反戦運動以外は、国民運動が盛り上がったことが殆どない。
   しかし、マクレイは、他の国が混乱すればするほど、日本人は国境を閉じるのは正しい選択だったという確信を強くする。とまで述べているのだが、これは看過出来ない。
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ヘイミシュ・マクレイ :日本は2050年にも第4位の経済大国

2024年03月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最も最新の未来論であるヘイミシュ・マクレイ の「2050年の世界 見えない未来の考え方」によると、「日本語版への序文」で、
   日本は、”世界第3位の経済大国であり、2050年にも大差の4位を維持する可能性がとても高い。民主主義の下ですべての国民が快適に生活を送っている非常に重要な成功例でもある。”
   この根拠となっているのは、2020年のIMFの推計値を元に、ロバート・バロー教授が開発したHSBCモデルで推計した「2050年の経済規模上位20か国予測」に基づいている。
   インドが第3位に躍り出るのは当然としても、中国がアメリカを抜いて第1位となり、ドイツやイギリスやフランスが日本に続いて上位を占めるのは少し疑問なしとはしない。
   ロシアを除いたBRICSやグローバル・サウスの人口大国である新興国が、成長の3要素を活用して経済成長を遂げて、成熟経済の先進国を凌駕するのは時間の問題であろうからでもある。
   いずれにしろ、多少、データが古いので、参考程度としておくことであろう。

   2月16日に「日本GDPドイツに抜かれて第4位に」を書いて、持論を述べた。
   22年の購買力平価によるGDPは、日本が6,144.60、ドイツが5,370.29(単位: 10億USドル)、実質的には、まだドイツとは大きな差があるので、円安による為替レート換算の結果だと思っている。
   しかし、ドイツとの比較は勿論、日本の労働生産性の低さが先進国でも最下位で突出しており、このままでは第4位どころか、益々、世界各国との経済成長格差が悪化して下落して行く。
   経済成長要因は、「全要素生産性の上昇(技術革新・規模の経済性・経営革新・労働能力の伸長・生産効率改善など幅広い分野の技術進歩)、労働の増加、資本の増加」の3要素なので、日本の場合、人口と資本の増加についてはあまり期待出来ないので、経済成長のためには、全要素生産性の上昇アップすることが必須である。
   特に、少子高齢化で、移民を活用しない限り、労働人口減が急速に進み経済成長の足を引っ張るので、全要素生産性上昇率と資本装備率の上昇で労働生産性を上げて国際競争力を涵養して経済の質を向上させることが重要である。
   分かってはいても、全く、このような気配はなく、鳴かず飛ばずの日本の経済が30年も続いて、いまだに先は見えず。

   ロバート・ソロー教授によると、経済成長の二つの形態は、
   フロンティアの開拓・最先端技術の開発による成長。
   キャッチアップ型、コピー・アンド・ペースト型の成長。
   前者は、未踏の新経済の開発、ブルーオーシャン市場の開発であるから正にイノベーションの世界。
   後者は、遅れた国が、ほかの国で発明されたテクノロジーを利用する方式で、新興経済国の最大の原動力で、その典型が中国。
   前者で成功を続けているのはアメリカだけで、日本も、悲しいかな、後者に成下がって、アメリカの後追い、
   良く考えてみれば、Japan as No.1の時代の成長もキャッチアップ型経済で、今までに、アメリカを凌駕して、「フロンティアの開拓・最先端技術の開発による成長」を遂げたことは、一度もなかった。

   岸田内閣の「新しい資本主義」はともかく、
   PBRを1以上指令で株価が高騰し始めたが、
   全要素生産性の上昇の担い手は、日本の民間企業であるから、特に経済団体で重要な位置を占めている企業に、創造的破壊を迫って、ゾンビ企業を排出して新陳代謝を図ることが必須であろう。
   どんな経営指標が適当かは分からないが、目標値をクリア出来ない企業に退出を迫るような多少社会主義的な経済政策をとっても良いのではないかと思っている。
   とにかく、日本企業に「創造的破壊」のエンジンを起動させない限り、日本の経済の再生はあり得ない。
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