先週開幕したパリ五輪だが、未だに開会式の演出について批判の声がおさまらない、という状況が続いているようだ。
先日エントリをした、「マリー・アントワネットの斬頭演出」に続いて、今回はダ・ビンチの「最後の晩餐」をもじった(?)演出だ。
産経新聞:パリ五輪開会式の余波収束せず「最後の晩餐」連想の演出にキリスト教団体「愚弄」と反発
マリー・アントワネットの演出は、フランス革命との関連があるので、演出の手法とアイディアの問題はあるにせよ、フランスという国の在り方がそれまでと違うカタチとなった、という点では理解はできる。
マリー・アントワネットの出身国であるオーストリアからの反発もある程度想定していたかもしれない。
しかし、今回の「最後の晩餐」と出演をしたLGBTQの人たち(?)との関連は、感じられない。
「性的問題」をそもそもオリンピックという場所で、訴える理由がはっきりと伝わらない。
この演出を考えた人達は「自由・平等・博愛」という、フランスの精神を表す為に、一番わかりやすいLGBTQの人たち(と思われる人たち)を起用したのかもしれないが、世界の現状を見ればもっと違う人達を起用する、という方法もあったのではないだろうか?
例えば、現在も戦禍にある地域や国の人たちや、イデオロギーなどの問題により自由を奪われている人達、もっと身近なところでは移民という問題もあるのでは?
確かに、フランスだけではなく欧州において移民の問題は、社会的問題となりつつある、と言っても過言ではないかもしれない。
そのような社会的背景があるため、見た目がわかりやすい演出をした、ということもあったのかもしれない。
ただ、もっと違う表現で「自由・平等・博愛」というフランスの精神を表現することを検討すべきだったのでは?ということなのだ。
かつてパリには世界の芸術家や作家たちが、その「自由」を求め集まっていた時代があった。
米国の作家・へミングウェイやヘンリー・ミラーなどだ。
「自由の国・アメリカ」ではなく、彼らはフランスのパリだったのか?ということを考えることで、改めてフランスやパリンの魅力を見つけることができたのでは?ということなのだ。
それよりも、わざわざそのような演出が必要だったのか?という、気もしている。
サッカーファンであれば、ご存じの方も多いと思うのだが1998年FIFワールド杯フランス大会で優勝したのは、開催国フランスだった。
その中で活躍をした、ジダンはアルジェリアからの移民の子だ。
同様にデサイーは、元フランス領・ガーナ出身だ。
サッカーにおけるフランス代表は、まさに様々な国と民族が集まっているチームなのだ。
そのようなコトから、ジダンが聖火リレーに登場した時には、「フランスの多様性も見せているのだな~」と感じたのだが、演出を考えた人は違っていたようだ。
もう一つ解せないのは、フランスそのものはキリスト教を信仰している人たちが多い国のはずだ。
とすれば、ダ・ビンチの「最後の晩餐」が示す意味、ということは十分に理解していたはずだ。
いくら若い世代で宗教離れが進んでいたとしても、何故?という疑問だけが残る演出だった。