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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#256 愛甲・ドカベン・柴田 

2013年02月06日 | 1981 年 



愛甲 猛(ロッテ)… ルーキーイヤーの今年、投手としての一軍成績は 0勝2敗、二軍では4勝3敗2S。打者としては二軍で13試合 24打数 6安打 打率.250 で投打ともにパッとしない数字である。二軍首脳陣の評価は「打者の方が非凡さを感じる」であるが、実際は投手失格が本音のようだ。だが愛甲は「バッティングも好きだが今は投手としての限界を感じるまで続けたい」と投手を諦めていない。「投手としては5勝するのが精一杯」「人気者なのだから打者として毎試合出る方が球団にとってありがたい」など周囲は打者転向を薦める。

しかし愛甲にはそれなりの計画があるようだ。打者に転向した所で今すぐボカスカ打てるレベルではない。投手として球速不足なのは自覚しているが自分にはカーブがある。一軍で投げてみてカーブはある程度通用する事が分かった。プロ野球の投手全員が150㌔の直球を投げている訳ではなく、130㌔台でも抑えてる投手は沢山いる。トレーニングを積んで体力をつけてカーブにさらに磨きをかければ一軍でも勝てると考えている。「少しばかりバッティングが巧いからといって、ハイ今日から打者転向なんて言うほど簡単なものじゃないし本人にも失礼だよ。あれだけの人気者だからこそ慎重に判断してやらんとね。素材が良ければ鍛え方を間違わなければ必ず大成するから焦りは禁物だよ」と語る秋季練習を指揮する高木二軍監督。山内前監督が置き土産で打撃指導したのはマスコミ向けのパフォーマンスだったようだ。

母子水いらずで暮らす家を建てて母親に楽をさせる為にもプロ野球で成功しなければならず、将来の為の貯金も怠っていない。「これからは自分が一家の主となって頑張らなければ」と責任感を背負っているからこそ一日も早く勝ち星をあげて自信を付けたいと願っているのだ。色々と物議を醸した1年目も間もなく終わる。連日秋季練習に明け暮れる日々を送る愛甲は来年も投手でいく決意を変えていない。






香川伸行(南海)… ドカベンが遂に100kgを切った。ブレイザー監督の減量命令に徹底抗戦を続けていた香川の体重が99.9kgになったと報じられた。「太っていても身体は動く」とこれまで一貫して減量する事を拒否していた香川に何が起きたのか?マスコミやファンは香川の事をドカベンの愛称で呼んでいるがチーム内では「殿下」と呼ぶ人達がいる。決して良い意味ではなく「増長し過ぎ」を揶揄する陰口である。実力があるならゴーイングマイウェーも構わないが、悲しいかな現在の香川に周囲の反発を押し返すだけの力は無い。さすがの「大物」も危機感を感じ取った末の心境の変化だったのだ。

あのドカベンもブレイザー監督の軍門に下ったのかというと、さにあらず。香川には香川なりの理由があったのだ。それはお年頃らしい結婚観が理由だった。香川も今年の12月で20歳、彼女の一人や二人がいても不思議ではないが「女友達は沢山いるけど彼女はいません。でもあと5年くらいしたら結婚したいなんて考えていたら練習にも身が入って、いつの間にか体重が減っていたんで食事制限をしたわけではないんです」と舌の回転も滑らかで発言内容も優等生に変身中だ。今までは減量を命じるブレーザー監督にも「僕はこれまで痩せて野球をやった経験がない。しばらくはこのままでやらせて欲しい」と屈しなかったが、今では「監督も僕の事を思って減量しろと言ってくれていたのだと思う。確かに今のままじゃダメだと思うようになりました」としおらしくなった。それでも食欲の方は相変わらずで母親のサダ子さんによれば食べる量は変わってないそうだ。ただ「水分は今まで摂り放題だったのが、一日一本のジュースで我慢しているようです」と明かしてくれた。そのお蔭なのか110cmあったウエストが100cmに縮まり2年前に買ったズボンがブカブカではけなくなった。

「正直に言うとプロ入りした時は4~5年で一軍に上がれればいいと思っていたけど周囲はそれを許してくれなかった。自分にも甘えがあったのは事実。今は1年目はテスト期間、2年目は勉強、そして3年目の来季は勝負の年だと思っている。だからこのオフは必死ですわ」昨オフは北海道から九州までお呼びがかかったサイン会の依頼も今オフは激減。「寂しい事なんかあれへん。その分、練習に取り組める」と決意も新たに秋季練習に汗を流す。「減量出来なければ罰金」とか「おだてて減量させよう」とあの手この手で必死だったブレーザー監督もお年頃のお蔭で減量が成功するとは海の向こうで苦笑いしているだろう。






柴田 猛(阪神)… 「ブレイザー監督との指導理念の違いを痛感し退団する事になりました」今季広島から古巣の南海にバッテリーコーチとして戻った柴田だったが僅か1年で辞任。これに最初に反応したのは阪急だった。上田監督が「是非ともウチに迎えたい」と早速アプローチするとすかさず前年まで在籍していた広島も名乗りを上げた。阪急か広島の選択に悩んでいた柴田に広島の球団上層部の一部に一軍コーチ復帰に反対する声がある事が伝わった。ならば阪急か、と決められなかったのは球界の不文律として翌年の同一リーグ球団への横滑りはナシとされていたからだ。その間隙を突いたのが阪神であった。阪神入りする事で全てが丸く収まった。

コーチとして引く手あまたな柴田猛とはどんな人間なのか?昭和38年和歌山県向陽高から南海へ入団した。ポジションが捕手だった柴田は運が悪かった。当時の南海には野村というとてつもない壁が立ちはだかっていて結局一軍で活躍する事なく引退した。柴田の運の悪さはプロ入り初本塁打を放った翌日が新聞休刊日で記事にならなかった事でも推し量れる。昭和51年広島へ移籍しそのオフに引退、コーチに就任した。相手投手の投球フォームを撮影して癖を見つけて攻略、読唇術で相手ベンチ内の会話から作戦を見破ったり古葉監督の作戦をサインで伝達する役目を担うなど広島カープ躍進の陰の立役者と評価された。

また心理面を突く野球を研究し、特に外人選手に対しては生まれ育った境遇や信仰する宗教まで分析して攻略の参考にした。しかし、こうした手法がブレイザー監督率いる外人スタッフ間で不評を買い、投手交代をめぐってシュルツ投手コーチと意見対立しベンチ内であわや乱闘という事件まで起こした。こうした強引とも言える手法が選手に対してコーチが遠慮して何も言えない風潮の阪神には必要なのだ。江本の舌禍事件の影響が収まらず若菜捕手の退団希望騒動が新たな火種となりそうな現在、柴田の豪腕が若菜の再教育に欠かせない。




やがて愛甲は失踪騒ぎ、香川は自己破産、柴田は審判暴行が刑事事件に発展し起訴されるなど波乱万丈の人生を送る事になります。

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