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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 899 ホトケのゴローさん

2025年06月04日 | 1977 年 



私は何度か阪神が甲子園球場で試合がある時に自転車で球場入りをする遠井選手の姿を目にした。時にはチリンチリンとベルを鳴らして悠々と自転車を漕いでいる光景を見て、何とも言えぬ微笑ましさを感じていた。

ホトケのゴローさん
飾り気というものが全くない。そして一種独特の茫洋とした風格がある。悠々迫らざるという感じもする。その表情には常に柔和な微笑みが漂っている。 " ホトケのゴローさん " と呼ばれることを本人は「厳しい世界だし、そうニコニコしてはいられないんだけどね。まぁ性格的に呑気なところがあるんだろうな」とメガネの奥の目を細めて笑った。只今、打率は3割を超える。プロ入り20年の得難い代打の切り札である。「でもね、代打といのは大変。やはり野球は打って走って守るのが面白い。代打に起用される時はランナーがいてここで一発、と期待される場面が多いからプレッシャーは大きい」と淡々と話す。

○○会社の部長さんという感じがしなくもない。「そうだなぁ、プロ野球選手になってなければ今頃は平凡なサラリーマンになっていたと思うね。高校を卒業したら八幡製鉄に入って野球をしようと考えていたよ」昭和33年に柳井高を出て阪神入りしている。高校時代から長打力には定評があったが、実は投手としても有望視されていた。昭和32年のセンバツ大会に出場し2回戦で早実と対戦した。当時の早実のエースだった王選手と投げ合ったが0対4で負けた。そんな昔話をする遠井選手は青春時代を懐かしむように笑顔になった。


ベストテン2位の時
「阪神に入った時は給料が4万円で契約金は200万円だった。合宿所では上下関係も厳しく便所掃除もやったし、先輩より先に風呂に入ったら怒られたり大変だったけど楽しかった」怖かった先輩の名前を尋ねると「そうだなぁ、田宮さんが特に厳しかった印象が残ってる」と話をしながら良い表情になった。昭和41年に長嶋選手と首位打者争いをして打撃ベストテン2位の成績を残した時の話をすると表情が険しくなった。「最初は私がトップを走っていたけど怪我しちゃってね…」ランニング中に左太もも肉離れを発症し戦線離脱。その後復帰したが調子は上がらず首位打者を逃した。

練習後の爽快感が
とても練習熱心な人だ。ある日の西京極球場。グラウンドで打撃練習をしていたと思ったら休む間もなく今度はノックを受けている。その姿を山内ヘッドコーチが目を細めるように眺めながら「ゴローはベテランだが練習は人一倍熱心。若い選手以上に動いている。オールスター戦以降、バットのヘッドを上手く使って打撃に一段と磨きがかかってきた」と褒める。練習を終えて戻って来た遠井選手は拭っても拭っても滴り落ちる汗を光らせ「大変な仕事ですよプロ野球ってのは。でもね練習後の爽快感がたまらない。その感覚を味わいたくて野球をやっているような所もある」と肩で大きく息をした。

家には小学6年生の長女と1年生の長男の2人の子供がいる。「2人とも野球には関心がないようだ。カミさんによるとテレビで野球中継を見ていても私がテレビに映ることがないから飽きちゃうみたい」と苦笑いする。「長男が野球をやりたいと言ったらやはり嬉しいね。でもプロ野球選手は止めておけと言ってサラリーマンになるよう勧めるかな」とメガネの奥の目を細めて笑う。厳しい世界を知っている親としての本音だろう。自分は野球が大好きでプロの世界に入って幸せだと思っているが、先の事を考えると不安も少なくないそうだ。

「もう37歳。引退後の生活設計を考えねばならないが今は白紙状態。野球に全てを賭けているから、と言えば格好いいが考えると不安になるから意識的に考えないようにしているのも事実」と正直に言う。自由に使える時間が増えるから趣味に没頭すれば、と聞くと「趣味は特にないね。たまにドライブしたりスナックに呑みに行くくらいかな。ドライブといっても遠出はせず近くの武庫川の堤防あたりにプラッと出掛けるくらい。お酒は好きだからいっそのこと自分で呑み屋をやるっていうのも趣味と実益を兼ねて一石二鳥かも」と笑う。




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