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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 900 三井雅晴

2025年06月11日 | 1977 年 



故障に苦しめられて
大阪・本町にあるロッテオリオンズの宿舎。取材の約束時間にホテルのフロントに着いたと同時に三井投手がエレベーターから現れた。甘いマスクにスマートな身なりが育ちの良さを感じさせる。だが苦労が尽きない三井投手。今シーズンも肩やヒジの痛みに悩まされている。昨シーズン終了後に金田監督は「三井のヒジ痛さえなければ阪急に勝てた」と悔しがった。昨シーズンは開幕早々3勝し、エースに育ったと周囲は喜んだが5月に入るとヒジ痛が再発し6月には二軍に降格した。ようやく投げられるようになったのは秋風が吹く頃だった。心機一転、臨んだ今春キャンプで今度は右肩を痛めた。右腕が肩より上にあげられなくなるほど重症だった。

「肩を痛めた時は、またかと暗たんたる気持ちになった。もう自分はこのままダメになるのかと落ち込みました」と三井投手は当時を振り返る。7月末まで二軍暮らし。一軍に戻ったのは7月29日だった。復帰後は着実に勝ち星を重ねて、只今4勝。遅ればせながら阪急と後期シーズン優勝を争うチームに貢献している。「キャンプの頃の辛さを考えたら、今こうして投げられることが出来て本当に嬉しい」と話す三井投手の表情は明るく常に笑顔だ。取材日の前日に三井投手は近鉄戦に先発し6回まで近鉄打線を1点に抑えて勝利し、ロッテの優勝へのマジックナンバーを「7」に減らした。


速球投手が憧れだった
愛知県の半田商を卒業して昭和48年にロッテ入り。今年でプロ入り5年目になる。3人兄弟の真ん中で兄も弟も半田商で投手だった。その兄と弟は名古屋商科大学に進学し、今は2人とも家業を継いでいる。地元では多くの人が訪れるスーパーマーケットだが三井投手は「いやいや八百屋ですよ」と謙遜する。子供の頃からプロ野球選手になるのが夢だった。できれば地元の中日入りを願っていたがロッテにドラフト2位で指名されプロ入りした。そして入団2年目に新人王に輝いた。「たったの6勝で新人王になれたのはチームが優勝したお陰でしょう。プロ入りしていなかったら父や兄弟と一緒に働いていたでしょうね」

長身、広い肩幅、しなやかな肉体と見るからに本格派の速球投手という感じだが、本人は「胸にも下半身にも、もう一つ厚みが足りない。それが体に負担をかけて故障に繋がっているのかもしれない。またいつか痛みが襲ってくるかもしれないと常に薄氷を踏む思いがする。絶壁に立たされているような心細さもある」と不安を吐露する。だが速球投手は子供の頃からの理想で「ストレートで三振を奪うところに投手としての醍醐味がある。自分が理想とする投手はウチの監督(金田正一)と阪神時代の江夏さん」と肩やヒジの痛みの再発を恐れながらもビシビシと速球を投げ込む。


後れを取り戻したい
昨年、そして今年の前半と肩やヒジの故障に悩まされている。それが逆に野球人としての欲が湧いてきた。5年前にプロ入りした時は太く短くてもよいから活躍したいと思っていたが現在は「痛みに責められれば責められるほど1日でも長くプロの世界で頑張ろうと思うようになった」。ロッテは本拠地のないジプシー球団。それだけでもハンデであるが「自分はロッテしか知らない。プロ野球はこんな世界なんだろうと思っていてジプシー球団と言われてもピンとこない」と本人は気にしない。苦しみに耐え、三井投手は人間的に鍛えられ成長した。これは何もプロ野球の世界だけの話ではない。常に仕事というものが人を鍛え伸ばす証なのだ。

最近は女子高生からのファンレターが多い。「二軍落ちして川口市のグラウンドで練習していた時に地元の女子高生たちがよく見学していたんです。内容は早く怪我を治して一軍で頑張ってください、というのが殆どです」と三井投手は少し照れた笑顔を見せる。9月16日が誕生日でその日にファンレターが集中して届いた。「ファンて誕生日まで知っているんですね」と感心したように言いながらまた照れる。23歳・独身で現在はマンションで独り暮らし。そろそろ結婚を考えてもよい年頃だが本人は「結婚はまだまだ先の話。先ずは怪我をしっかり治して一軍でバリバリ活躍しなければ。応援してくれるファンの皆さんの為にも頑張ります」と浮ついてない。




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