へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

「依存症」と言う言葉

2008年05月13日 04時20分10秒 | Weblog
昔は「中毒」と言っていた物が、何時の間にか「依存症」と言う言葉の変わっているのだが、「トルコブロがソープランドに」、「売春が援助交際に」変わったのと同様に、本来の言葉が持っていた強さが薄められてしまっている。
「痴呆」「ボケ」などと言われていた物が「認知症」と変わったのは、「障害者に対する思いやり」と言うことでよいのだが、「アルコール中毒(アル中)」を「アルコール依存症」に、「麻薬中毒」を「薬物依存症」に変えるのはどうかと思うのだが・・・・。
突然このような話をするのは、「運転中にメールをしていて観光バスと正面衝突」と言う事件が起きたからである。
私の周りにも何人かの「携帯(メール)依存症」の人がいるのだが、私が「中毒だ!」と言っても、「中毒じゃない!」と言い張るのであるが、話をしていて感じるのは、依存症と言う言葉を「単なる言葉の一つ」と言う程度にしか感じていないようなのである。
「中毒=依存症」ではなく、「全く別物」と言う認識しかないのである。
「アルコール中毒(アル中)」と言われていた頃は、「何となく後ろめたい」と言う感じであったものが、「アルコール依存症」と言われるようになってからは、「何となく後ろめたい」と言う感覚がなくなっている。
「中国産食材の危険性」が問われているのだが、「飲酒運転」や「運転中の携帯(メール)」の方が、「遥かに危険」だと思うのだが、その事が真剣に論議されてはいないのが気になって仕方がない。
実を言うと、数日前のことなのだが、信号で止まっていた所、後ろから来た自転車にぶつけられたのである。
幸いな事に、怪我も無く、車に傷も付かなかったのだが、「メールのチェックをしていた」と言うのである。
メールに夢中になって電柱にぶつかったり、車に撥ねられそうになり、「よけた車がガードレ-ルと接触」などと言うことも目撃しているのだが、「依存症」と言う表現が、「罪の意識」を感じさせないように感じてならない。
「依存症(中毒)の危険性」と言うことを真剣に考える必要が有ると思うのだが・・・・。
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