一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ぼくには数字が風景に見える』

2007-12-26 | 乱読日記

模擬裁判シリーズをやっていたときに読んだ本の感想を。

最初は『ぼくには数字が風景に見える』

ぼくが生まれたのは1979年の1月31日、水曜日。水曜日だとわかるのは、ぼくの頭の中ではその日が青い色をしているからだ。水曜日は、数字の9や諍いの声と同じようにいつも青い色をしている。

この本はこのような文章で始まります。

著者のダニエル・タメットは、サヴァン症候群(手順や日課に極端なこだわりを持つとともに、数字を見ると色や形や感情が浮かんでくる特殊な感覚をもち、記憶・計算・芸術などの分野で超人的な才能を発揮する。)とアスペルガー症候群(いわゆる自閉症のひとつのカテゴリーで、対人相互関係、抽象的思考を苦手とする一方で論理的思考、視覚的思考を得意とする)をあわせもつ人です。

サヴァン症候群が有名になったきっかけはサヴァン症候群を主人公にした映画『レインマン』でしたが、著者も円周率の22,500桁暗唱というギネス記録を打ちたて、また語学の10ヶ国語をマスターしているいわば「天才」です。
本書の宣伝文句もそれに重点を置いているのですが、むしろ本書は、「他人と違う」ということを自覚しながら自分の他人と違う(特異/得意な)部分を生かしながら社会と適応していく若者の物語を中心に書かれています。

著者は自分のできること、できないこと、他人と異なる部分を自覚しつつ、無理のない範囲で社会に適応しようつするとともに、自分の才能が注目を浴びることを通じて社会に多様性を受け入れることの重要さを説いています。(『レインマン』のモデルの父親が全米を無償で講演して回っていることとも通じます)

本書を読んで感じたのは、特に学校教育や集団生活・社会生活におけるルールとか枠組みというものは、集団の秩序を維持するためにあるのではなく、最大公約数的な人間が自らを安心させ、努力を省くための装置なんだな、ということ。
本来は集団の秩序を維持するには最低限のルール(たとえば人を殺してはいけない、とか交通ルールを守らなければいけない)があればよかったものが、世の中が複雑になるにつれその存在意義は自明ではないがいちいち問い直すことが面倒、というようなルールが増えてきてしまっていて、それに我々凡庸な人間が安住するなかで、人間の多様性という将来への可能性の芽を自ら摘んでしまっているのではないだろうか、ということを考えさせられます。

著者は自分の努力もあり「天才」という居場所を見つけることができましたが、そこに至らない人々は未だに社会のルールから排除されがちです。

そうはいいながらも著者を受け入れていたイギリスの公立学校の懐の深さにも感心します(時代的にはブレア元首相が教育改革を唱える以前の頃だと思うのですが)。
日本ではなかなかこうはいかないのではないでしょうか。

特に日本では非寛容が蔓延しているように感じます。
ちょうどウチダ先生のblogに「接続的コミュニケーションの陥穽」というエントリがありましたが、この問題意識にも通じる部分があります。

というのは、文脈読解力は、今や「重要」という段階を通り越して、ほとんど「非寛容」の域に近づきつつあるように私には思われるからである。つまり「誤読が許されない」ということである。
現代日本のコミュニケーションの問題はどうもこのあたりにあるような気がする。
「場の周波数」にいちはやく同調すること「だけ」にコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが投じられているせいで、いったんチューニングが合ってしまうと、あとは「チューニングがまだ合っていないやつ」を探し出して「みんなでいじめる」ことくらいしか「すること」がない。


「自分と関係ない天才のこと」 と受け止めてしまうにはもったいない本です。

 






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