一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『まじめの崩壊』

2009-03-27 | 乱読日記
先日の誤審に対するスタンスとも関係ある話です。


toshiさんのブログで取り上げられていたので購入。

著者は精神医学者でシンクタンクを主宰している人です。

著者は二大精神病である躁うつ病と統合失調症にちなんでパーソナリティ・パターンを「メランコ人間」と「シゾフレ人間」に分類します。

「メランコ人間」は「自分」が主役で他人との密な付き合いを求め、論理性・一貫性にこだわり、自分の中に行動規範を持っている。反面「シゾフレ人間」は周りの世界が主役で、他人と密接な関係を作らず、論理の飛躍を気にせず、自分の中に行動規範を持っていない。

日本人は戦後の高度成長期(=まじめに働けば報われる時代)においては「メランコ人間」が多かったが、1970年代以降(=日本が豊かになり、「まじめ」が批判されるようになった時代)から「シゾフレ人間」が増えてきたといいます。
そして、今の日本の社会現象は「シゾフレ人間」が多数になったことで多くが説明
できるとします。

たとえば以前(メランコ人間が多数の社会)は建前が重視され多少の曖昧さが許容されていた(=それは個人個人の中に善悪の基準があった)のに対し、シゾフレ多数派社会は善悪の基準を周りがどう思うかによって決めるので、マスコミに取り上げられたりすると世論が極論に走りがちになる。
また、従来の警察・検察の「一罰百戒」がシゾフレ人間には効果がなくなる。つまり「一罰百戒」で自分の行為を律するのではなく「九十九は非合法が黙認されている」と考えてしまう。

そういう中でメランコ人間多数派社会を前提に作られてきた世の中の仕組みがシゾフレ人間多数派社会になって機能しなくなりつつあるということに警鐘を鳴らします。

本書の後半部は(あまりに)広範囲の事象に警鐘を鳴らすことに専念しているのでちょっと食傷気味になるところもありますが、切り口としては非常に面白いと思います。

プリンシプルベースの法律の運用が話題になっていますが、議論に当たっては本書のようにそもそもプリンシプルなんかない、という視点も意識しておく必要があると思います。

また、キリスト教・ユダヤ教的背景がないとそもそも「法化社会」は難しいんじゃないかという磯崎さんのブログでの指摘(こちらこちらのエントリ参照)なども意識しながら、メランコ人間が多数だった高度成長期には法律はどのように機能していたのか(個人の道徳観や倫理観+一罰百戒・多少の違法行為はお目こぼし、という状態はどう評価すべきなのかというところも考えると面白いですね。




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