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一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『大相続時代がやってくる すっきりわかる仕組みと対策』

2014-02-26 | 乱読日記

書名からは「売らんかな」の匂いがしますが、内容的には良書だと思います。

今回の相続税改正(基礎控除額の引き下げ)について「あなたも相続税が課税される」と あおるのではなく、相続制度と相続税全体をもれなく、かつわかりやすく解説したうえで、 著者の税理士としての経験から、トラブルになりやすい具体例をあげています。

相続税の改正により関心を持ったのであれば、これを契機に財産面での人生設計を ちゃんとしてみませんか、というのが著者の問いかけです。

よくよく考えてみてください。財産を遺す立場でいえば、相続税を心配する必要があるのは 人生で一度きりです。それよりも、消費税の増税や住宅ローンの金利変動のほうが、よほど影響が大きいはずです・・・(中略)。  
それに比べれば、税制改正による実質増税といっても、相続税などせいぜい200万円程度の上乗せです。 生前贈与の仕組みを使えば、ゆうに解決できるレベルですね。いろいろな情報が飛び交っていますが、煽られて振り回されることのないよう、 相続の本質を見据える必要があります。  
(中略)・・・結局のところ、大事なのは、自分の財産をどうしたいのかという個々人のビジョンなのです。

新書版で簡単に読めますので、資産や兄弟が多かったりする方は、まずはご自身でも読んでみられることをおすすめします。


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『英国人一家、日本を食べる』

2014-02-23 | 乱読日記
イギリス人のフードジャーナリストが、日本の食文化を知ろうと、小さい子供を連れて家族4人で、3か月かけて北は北海道から南は沖縄まで、そして超A級の料亭(これはもちろん子供抜き)からB級まで食べ回ったエッセイ。

フードジャーナリストだけあって、事前の知識もそれなりにあり、また、日本でのコーディネーターを手配して、いわゆる普通の旅行者は行かないような店や辻調や服部も訪問するなど、単なる素人の旅行とは違う。

一方、本の原題は"SUSHI AND BEYOND:What the Japanese know about Cooking"とあるが、内容は日本料理の勉強や文化的背景の解説、味の評価というものだけでなく、日本文化や子供たちの反応、日本の飲食サービスへの驚きなど内容はグルメ話だけにとどまらないし、そこが食の専門家でない自分としては面白い。

なので、この本を読んで「日本料理(文化)を語るなら○○に行かなければ本物ではない」などと目くじらを立てるのは無粋なんじゃないかと思う。


2012年は訪日観光客が1000万人突破して政府(観光庁だけ?)は喜んでいたり、2020年東京オリンピック・パラリンピックで「オ・モ・テ・ナ・シ」をアピールするなら、こういう人たちにどう楽しんでもらうかを考えるきっかけにしたらいいと思う。


このフードジャーナリスト一家も、寿司や天ぷら、懐石などを堪能したりするだけでなく、ラーメンやお好み焼きを食べたり居酒屋に行ったり、相撲部屋を見学してちゃんこ鍋を食べたり、酒蔵見学をしたり、ドッグス・ギャラリーという犬カフェのようなもの(現在閉店)に行ったりしている。
つまり、食をきっかけに「日本」を楽しんでいるわけ。

だから、おもてなす側としても、訪日客は一つのことにだけ興味があるわけではないし、なんかいろいろ面白そうだぞ、と思わせるきっかけをつくることが大事なんだと思う。
こっちが売り込もうと思っているものがウケるとは限らないし、だいたいにおいて予想は外れるものである。

聞くところによると、東南アジアの団体客の間では日本のショッピングセンターの隅に置いてある「ガチャガチャ」が親戚の子供への土産として人気らしく、春節の時期などものすごい売り上げになるらしい。
コンパクトで個別にカプセルに入っていて種類が豊富でしかも安い、というのがポイントなのだろう。


でも政府は相変わらず縦割りな感じ。
文部科学省はオリンピック・パラリンピックだけしか関心がなさげだし(それでも厚生労働省所管だったパラリンピックと一本化することになっただけでも進歩かもしれない)、観光庁(国交省)訪日観光客「数」を増やすのが目標のようだし、食文化のアピールは農水省(ユネスコ無形文化遺産に認定されて大喜びしてるけどそれでいいのか?)、「なんとかカフェ」だと「クール・ジャパン」を売り込んでいる経産省が出張って来そうだし、挙句の果てに酒蔵見学だと財務省が出てきたりしそうである(少なくとも製品になる前のしぼりたての原酒を味見させるのは酒税法違反だとかの通達ぐらいは出しそう)。


この本のように、旅行者がいろいろなことを考えて発信してくれている本はありがたいと思うし、参考にすべきだと思うのだが。






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『ブレイクアウト・ネーションズ』

2014-02-19 | 乱読日記

これ必読、と会社の若い連中にも言っていたのですが出版後1年経っての紹介になってしまいました。

本書は、モルガン・スタンレー・インベストメント・マネジメントの新興国担当ディレクターですが、 BRIC's(*)という言葉に沸いたこの2000年代-著者曰く「この10年間は、多くの国が「世界の環境がたまたまそうなった」という偶然にただ乗りして繁栄してきた」-の総括と、 次に予想成長率を上回る成長を遂げる「ブレイクアウト・ネーション」はどこかを考察するものです。
(* 今では"Fragile 5"などというのが流行のようですが、時代、というかお金の動きは本当に速いですね)

訳者もあとがきで許諾を得て紹介していますが、本書のベースになった著者の論文について かんべえ氏のブログ(この11月20日の項をご参照) で的確な紹介がされています。
私がそれ以上のまとめができるはずもないので内容の説明はそちらに譲ります。


著者は、将来を見とおすこと、また、経済成長のための的確な政策をとることは簡単なことではなく、一つの答えなどない、ということを強調します。  

ある国が成長し、あるいは成長しないのはなぜか?その理由にはさまざまな要素の組み合わせが考えられる。 誰もその正しい組み合わせを言い当てることなどできはしない。魔法の公式は存在せず、誰もが思いつきそうな、ただ長いだけのリストが示されるだけだ。モノ、金、人が自由に行き来できる自由な市場、貯蓄の奨励・・・(中略)・・・道路や学校の整備、子どもたちへの栄養補給、等々である。しかし、これだけでは机上の空論だ。こうした決まり文句は正しくても、そこには中身がない。これらがどう組み合わされれば、ある国がある時期に成長を実現できるのか、あるいはできないのか。単なる「やるべき仕事のリスト」をいくら並べたてたところで、上記のような本当の意味での深い思考や創意工夫がなされなければ意味がないのである。

「ブレイクアウト・ネーションズ」を見つけ出すには、その時々にどのような経済力や政治力が力を持っているのか(それともいないのか)を見極める判断力を持って旅することが大切である。世界経済の成長力は低下し、世の中の形が大きく変わろうとしている。そうした時代のただ中にあって、われわれは新興国を、全体としてではなく、個別に見はじめる必要がある。

そして、本書で著者独自のその国の政治経済のポテンシャル・リスクを見極めるための物の見方を、 取り上げる国に即して紹介しています。  

「百聞は一見に如かず」と言いますが、「一見」にも熟練者にはノウハウがある(しかも何回も現場に足を運んでいる)ことがよくわかりますし、 バイアスから自由になる必要があることを痛感します。  

「目から鱗」という以上に、語っている内容が濃いので、繰り返して必要なところを読み返すのにいい本です。




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『アマン伝説 創業者エイドリアン・ゼッカとリゾート革命』

2014-02-15 | 乱読日記

ずっとサボっているうちに本のレビューもしなくなってしまったので、徐々に再開します。

本書は、少数のコテージでホスピタリティあふれるサービスを提供する高級リゾートホテルというスタイルを 確立したアマン・グループの創設者であるエイドリアン・ゼッカをめぐるドキュメンタリー。

ゼッカの日本とのつながり、アマン・スタイルを作った建築課との出会い、からはじまり、 1980年代の香港の伝説のホテル、ザ・リージェントに携わってからホテル経営に 転じるあたりまで遡ります。
そこでは高級リゾートホテルの歴史だけでなく、今では有名な数々のリゾートホテルがアマンの共同経営者などが独立して設立したと知ると面白さもひとしおです。

また、日本のバブル紳士も相次いで登場したり、日本で計画されて没になった案件もいくつか紹介されています。 (本ブログでもちょっと触れた(*1 *2 *3 )アーバンコーポレーションとの提携とその倒産も影響していたようです。)


本書の出版後、アマンは東京に次いで京都への進出も発表しましたが(参照)、 本書で紹介されているゼッカと多くの共同プロジェクトを行ってきた人物の

「京都は、どんなに時間がかかっても、彼はオープンさせると思いますよ」

の言葉が裏打ちされたことになります。


アマンといえば自然環境とホスピタリティ、そして高級というイメージが浮かびますが、エイドリアン・ゼッカを取り巻く人は、アマンのビジネスモデルをこう評しています。

「アマンの凄さは、土地を見極める能力が彼にあることだと思います。でも、その土地選びの能力は、ノウハウとして確立されていないのです。それと、はっきり言ってしまえば、でき上がったものに興味はない。オペレーションでは儲かっていなかったと思います。土地を動かす時に、不動産屋として儲ける、それがエイドリアン・ゼッカの手法なんです。土地のイメージを膨らませて、こだわって、ケリー・ヒルとか使って形にしてゆく。造るまでが、アドレナリン吹きまくりなんですね」

「ゼッカはね、一部屋あたり2000万円までであれば、儲かりますって言うんですよ。最高の自然環境に安く建てるのがポイントだって言っていたね。 ・・・」

これに加え、著者は次のように分析しています。  

そもそも、アマンリゾーツの最もエッジの効いた革新は、マーケティングやPRの手法、そしてブランディングだったと思う。

いかにしてコストを削り、効率化するか、ではなく、いかにしてコストの低いものを高く売るか、ということにおいて、アマンは巧みだった。


そんなこと気にせずにリゾートホテルを楽しめばいいではないか、という考えもあるとは思います。
ただ、 まだアマンに泊まったことのない私としては、もし泊まる機会があれば楽しみが増える本だと思います。

ところで、本書でも触れられていますが、著者の山口由美氏は箱根富士屋ホテルの一族の出身で、 子供の頃リージェントの後の総支配人となったロバート・バーンズがカハラヒルトンの支配人だったころに 宿泊した思い出なども語っています。
一方で、箱根富士屋ホテルは、1966年に国際興業グループに株を譲渡し、山口一族は経営から退いています(wikipedia「富士屋ホテル ホテルヒストリー」など参照)。
その当時、国際航業はハワイのホテルを次々と買収し、一方当時のライバルの東急の五島昇はバーンズと共同出資でリージェント を立ち上げています(香港のザ・リージェント開業前に資本関係を解消)。
著者としても日本の名ホテルの軌跡や近年誕生した新しいタイプのホテル・旅館の経営についても思うところがあるでしょうが、それは次回作に期待したいと思います。


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『原発ホワイトアウト』

2013-11-13 | 乱読日記

霞が関のキャリア官僚による原発再稼働をめぐる関係者の思惑を小説仕立てにした本。

ウェブでの内容紹介によると

再稼働が着々と進む原発……しかし日本の原発には、国民が知らされていない致命的な欠陥があった!
この事実を知らせようと動き始めた著者に迫り来る、尾行、嫌がらせ、脅迫……包囲網をかいくぐって国民に原発の危険性を知らせるには、ノンフィクション・ノベルを書くしかなかった!

とあるが、これはちょっと扇動的な表現で、しかも正確ではない。


面白かったのは巨悪の摘発でも「ホワイトアウト」のところでもなく、 原子力政策・電力政策をめぐる電力会社・経産官僚・政治家などの思惑がリアリティをもって描かれている部分。

この辺が白眉  

 現在の政治システムが電力会社のレント、すなわち超過利潤に依存している以上は、覚醒剤の中毒患者が 覚醒剤を欲するように、政治家も地域社会も、電力会社のレントを必ず求めてくる。
 参院選後三年間は国政選挙がない。となると、世論の動向を注意深く読んで政権を慎重運転するインセンティブも、官邸には少なくなる。  
 さすがに、10電力体制の維持、あるいは地域独占の継続までは揺り戻されないだろうが、 「電力システム改革はやりました」と保守党政権が胸を張りつつ、細かい穴がいくつもあって、実際には競争は進展しない状態、というのが現実の落とし所だろう。
 日村(注:経産官僚、資源エネルギー庁次長)にとって譲れない一線は、あくまで競争のフレームワーク のさじ加減は官僚が決める、ということだ。


  電力会社が民間企業であることを維持しさえすれば、電力会社の調達先・取引先には「競争が始まったんだから」 と言って発注金額の割増分を削減しつつ、ある程度のレントを維持することは可能である。 そこに、政治だけでなく、行政も群がる。規模を縮小した形で電力の密は温存されることになる・・・・・・。
 それでいい、とはさすがに日村も思わない。
 ただ、国民が選挙で保守党を選んだ以上は、その論理的帰結が原発再稼働である。 保守党と民自党という二大政党のいずれもが政治献金の廃止を公約として掲げない以上は、電力システム改革は進まない。 最高裁判所も、八幡製鉄所政治献金事件のあと40年以上も、それを放置している。
 日村も巨大な政治経済システムの一歯車に過ぎない。個人でできることには限界がある。 巨悪を一役人が糺すことはできない。正義の追及は、「朝経新聞」と報道ニュース番組にお任せしていればいい。

後半に「ホワイトアウト」に向けて話が加速する。
小説としてはそちらのほうが華があるのだが、本書を味わうなら前半の部分のほうが美味だと思う。


以下は余談というか下衆の勘繰り。  

本書の発行は今年の9月。おそらく参院選後に脱稿という感じ。
ただ、7月の人事で昭和55年入省が事務次官になったのに、 ほぼ同年齢と思われるの日村の焦りのようなものが反映していないあたりは、そっちのリアルを追求したわけではないからか、 はたまた著者が若いからか。
(もっとも最後の方で、今回の若返り人事を主導したとされる官房長官に意趣返しをしているが。)  


本書の含意の一つが「官僚の言うことを額面通り受け取ってはいけない」ということだとすれば、 官僚が書いたとされる本書の中身にも、真に受けてはいけないと思われる部分がいくつかある。

一番は、何か所かに出てくる「官僚は薄給」という表現。
課長になれば世間的には「薄給」ではないし、審議官以上の指定職であれば そこそこの処遇水準だと思うのだが。
そして、出世のピラミッドから外れた人も外局にポストがあったり天下り再就職紹介など定年後も面倒を見る仕組みが整っているので、今や大手企業と比べても、 リスクの少なさも含めて考えれば悪くないのではないだろうか。 (経産省は外局などが少なくて比較的面倒見が悪いという話もあるが。)
「官僚は薄給」というテーゼがいろいろなことを正当化する前提になっていたりする感じがするが、 官僚のプライドなどとの関係も含めて、著者に次回作で掘り下げてみてほしいテーマである。

そして、巻末にあるこの一文。

* 本書の印税の一部は、「東日本大震災ふくしま子供寄附金」に寄付されます。

「印税の全部」ではないことがポイント。
官僚的な表現では寄付が100円でも「一部」にはなるわけで、 これをあえて書いた著者の意図にちょっと興味あり。


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『日本橋バビロン』

2013-10-18 | 乱読日記

作家の小林信彦が、生家の日本橋の和菓子店の明治時代の発祥から戦後の廃業までを、 関東大震災や戦争をくぐり抜けてきた日本橋地区の風物を背景に描いた自伝的小説。

あらかじめ結末がわかっているだけに、戦災から廃業に至るまで、 特に衰退した家業をとりまく親戚筋の振る舞いなどは切ない。

今では日本橋といえば橋を中心とした三越から高島屋の間の中央通り沿いを想像するが、 昔の「日本橋区」ではそこは西の端であり、そこから隅田川にかけて、茅場町、小伝馬町、人形町、兜町、 芳町(人形町の隣で花街があった)、水天宮、浜町、そして著者の生家のあった両国橋のたもとの両国(現在は東日本橋二丁目となっているが1971年までは両国という町名だった。 つまり両国橋をはさんで両国という地名が二つあったということ)まで広がっており、 特に隅田川沿いの両国橋にかけては下町のにぎやかな生活が繰り広げられていた。
その両国町が関東大震災後の区画整理、空襲による被災と復興、そして高度成長期を経て人々の生活が変わっていく様子が描かれている。

そして、戦中・戦後と著者が日本橋で育ち、そして成長する中で家業を継がずに日本橋から離れる心の動きも同時に描かれている。


「古き良き時代」というとき、どの時代が「良い」ものであるかは、語る人の経験による。
そして、大事なのは時代よりも経験の方である。

 

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『成長戦略のまやかし』

2013-10-17 | 乱読日記

どんなに給料がよくても、人がうらやむ有名外資企業でも、上司の指示通りにパワーポイントとエクセルの作業だけを行ない、 お客さんに接することも、上司とプロジェクトの意義を議論することもないような仕事なら、即刻辞めるべきだ。

歯切れのいい本。


まずはアベノミクスの「民間投資を喚起する成長戦略」について、日本経済は1960年代のように「投資が投資を呼ぶ」という状況にはなく、投資を喚起することは経済成長につながらない。 しかも特定産業や特定企業を念頭に置いた成長戦略は、現在衰退しつつある既存の企業や産業に依存するという 点でも誤っている、と 批判する。

個人的には「成長戦略」という言葉自体日本語として違和感があり-成長は目的であって戦略でない。 スポーツで「勝利戦略」というのが妙なのと同じ-で、本来は「(成長のための)○○戦略」であるべきだと思う。 なのに政府や経済界、マスコミなども「成長戦略」としか言っていないのは、戦略の少なさを本音では自覚しているようでならない。
上のアベノミクスの成長戦略も「投資乗数効果戦略」とでも言うべきだが、そう言ってしまうと、本当に喚起しようとしている投資に乗数効果があるのか というところを明確にしないといけなくなってしまう。
特に最近の「砂糖と塩」の投資促進税制などは無理やり投資をさせることだけを目的としているような感じがしてならないし、 産業競争力強化法による生産効率を上げるための設備投資は省エネにしろ省人員にしろ投資乗数効果は期待できないように思う。

「勢いをつける」にはいいかもしれない(その意味では反対はしない)が、その間に本命の成長分野が育ってきてほしいものだ。



特区戦略についても、立地競争を主とした立地戦略を批判する。
すなわち、簡単に言えば理論的にはすべての都市が優秀な企業や人を誘致しようとすれば 競争している側がすべての利益を誘致しようとする側に渡すことになり、最終的には破綻するからである。

これについては経済界が主張している法人税実効税率の引き下げについては当を得ていると思う。 (もっともこれは日本の地方自治体の財政の構造的な問題にもからんでくるし、税率下げを言いすぎると 上でいう「渡される側」としての企業に政治的に批判が高まるので、経済界も限度はわきまえていると思うのだが。)

また、国家戦略特区 については、議論されている項目がそれぞれ必要な規制緩和だとは思うが、外国人への医療・教育サービスの充実のように、こんな大がかりな仕掛けを使わなくてもとっととやってればいいと思うものが多い。
そもそも「特区」は小泉政権時の 構造改革特区 、民主党政権下の総合特区 があり、さらに今回はそれとは別に(政権の独自性を出すために?)やろうとしている感がある。
今までの特区がうまくいかなかったのか、なら今回はなぜうまくいくのか、というところが不明であるし、 そんな制度を作る前にとっとと規制緩和ができない、というところ-省庁の利権や既得権益層の存在- に問題の根源があると思うのだが。



さらに、異次元の金融緩和政策については、リフレ政策に批判的な著者は、期待で気分を動かしたことで株高とともに円安も進んだが 、副作用が大きくなる前に早く手じまいをしたほうがいい、と主張する。
特に、ほとんどの日本企業はまだ海外の生産ポートフォリオの確立-技術者・消費者・企業ネットワークのグローバルな最適戦略- が立てられていないので、今後それを進めていくためにも円安より円高が望ましいと言う。

この点については同感。
円安と株高のリンクというのは、輸出依存度が高くないうえに原発問題で化石燃料に依存している日本経済を考えると直感的に本来おかしいと思うのだが、 相場は相場のロジックがあるのだろう。



では、どうすれば成長が実現できるかについて、著者は人の育成がすべてである、と主張する。
二十数年前に登場した新経済成長理論では、資本と労働の他に知識を投入財として技術進歩-新しいものを生み出す力-を 説明しようとした。
知識を投入する方法としては次の4つの方法がある

・外から持ってくる-これは途上国の成長モデルであり日本には当てはまらない
・資本に体化させる-機械を輸入するだけでは日本経済は成長しない
・直接作る-どうやって作るかは未だわかっていない
・労働力に体化させる→これが軸となる

つまり、一人ひとりが自分の力を高めるとともに、日本経済が知識を生み出す環境を整えることが必要になる。
そのためには若年層が勉強になり、自分が成長する機会-人的資本を実践の中で積み上げられる仕事-を持ち続けられることが重要だ。 

賃金水準が高いとか、正規雇用とか、そんなことは関係ない。低くてもよいから、身分保障がされていなくてもよいから、意味のある仕事をさせてもらえる職が必要なのだ。その仕事を一所懸命やることで、次につながる、個人が成長する、次の職場に移っても、以前より人的資本を蓄積した労働力として働けるようになる機会を与える仕事が必要である。

具体的なポイントを二つだけあげると、上司あるいは同僚に尊敬できる人がいて、その人から学べる職場であること。そして仕事のなかで、お客さんと直接接する場面があることだ。仕事の上での学びは、上司または同僚(部下ということもあるが、それは日本の特徴だ)か、またはお客さんか、その二つの軸から得られる。その二つの軸の質が高いことが理想だが、そもそも、その軸に接せられることが最低条件だ。

そして、冒頭のフレーズにつながる。

ここについては、いちばん腹に落ちた。


他に「地方があっての都会である」という部分については共感するものがあるが、 「しがらみこそ信頼の基礎」というあたりは「安心社会」を評価しているようで 違和感があったりするが、そのへんは歯切れの良さの代償かとも思う。


それよりも、自分のようなオジサンは若者に「場」を与えるということを実践できているだろうかと 改めて考えることが必要だ。

 

 

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『目くらましの道』

2013-10-15 | 乱読日記

スウェーデンの作家ヘニング・マンケルの「刑事ヴァランダー」シリーズ。

本書は1995年刊行(日本語版は2007年)で、以前取り上げた『リガの犬たち』と、日本での最新刊である 『ファイアー・ウォール』の間に位置する。

このシリーズは描かれる犯罪や登場人物の人生がを通して現代スウェーデン社会を描いているところに魅力があるのだが、本作は上の2作がスウェーデンが外国の影響を受けつつある(前者はソ連邦の崩壊、後者はインターネットの普及とグローバル化)という切り口だったのに対し、本作は 国内問題-富裕層の犯罪・異常犯罪・幼児売春・DVなど-を取り上げている。


本書も小説として読みごたえがあるのであるが、話の本筋とは別に印象に残ったのが社会保障制度のありかた。

スウェーデンは日本と比べて社会保障制度が進んでいることに加え、女性の社会参加が進み、 個人が自立を尊重する文化風土からか、結婚・離婚のハードルも低い。
そのため日本では社会保障制度について「自助・共助・公助のバランス」が語られることが多いが、 ここで描かれている社会は(高負担に支えられた)厚い「公助」とそこからこぼれた場合個人の「自助」だけであり、 家族・コミュニティの「共助」は出てこない。

少子高齢化の中で日本の成長の方策として女性の就職支援や高齢者の社会参加が語られるが、 そうやって個人が自立していくにつれ、日本もそうなっていくのではないか。
一方でそれと同時に社会保障において「共助」を柱の一つにするのは、あるべき日本社会のイメージとして期待するの気持ちは分からなくもないが、現実的には無理があるのではないか、とふと思った。


 

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『友罪』

2013-08-21 | 乱読日記
上手い。が、上手さだけではない。


 -過去に重大犯罪を犯した人間が、会社の同僚だとわかったら?- 

と「作品の詳細」に書かれてしまっているので、中盤までのストーリー展開は想像できてしまう。
しかし、登場人物の行動・心理の描写が詳細までリアルに描かれ、ぐいぐいと引き込まれる。

常に「善良な人」がいるわけではなく、逆に「悪い人」が常に悪いわけではない(最初から最後まで悪人というのは一人出てくるが)、という当たり前のこと、それぞれが考え、悩み、または本能的に反応しながら生きている。善意が裏目にでてしまうこと、同じ思いなのに行き違ってしまうことなど、ディテールを積み重ねて、救いのないようなストーリーをぐいぐい進めていく。


一方で、読者に、それぞれの登場人物の立場だったらどうする、また、他の登場人物の振る舞いをどう評価する、ということを考えさせる。


そういう意味では上手い小説であるだけでなく、誠実な小説でもある。
ただ、誠実さは、必ずしも優しさを意味しない。

上手さに乗って、映画を見るように一気に最後まで読むという読み方よりは、立ち止まりながら、考えながら読むのが、この本の味わい方のように思う。





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『リガの犬たち』

2013-08-19 | 乱読日記

刑事ヴァランダーシリーズの2作目。 1992年の作品。

「リガ」はラトビアの首都のリガを指す。
ラトビアはバルト3国のひとつ(Wikipedia参照)。

舞台は、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦も崩壊の瀬戸際に立つ1991年。 ラトビアでも独立の機運が高まるが、ソ連の介入に悩まされているという時期。

スウェーデンの海岸に死体の乗った救命ボートが打ち上げられる。被害者はラトビアと関係があるようだ、というところから本作は始まる。
そして、成り行きからヴァランダーはラトビアに渡り、捜査に携わることになる。

地図を見ると、ラトビアはバルト海を挟んでスウェーデンの対岸にある。

ただ、ヴァランダーも含めスウェーデン人にとっても、ラトビアは近くて遠い国として描かれている。

そして本作は捜査そのもの以上に、ヴァランダーの目を通して描かれるソ連邦崩壊直前のラトビアの様子が読み応えがある。  

「あなたはいま、非常に貧しい国にいるのだということを理解してもらわなければならない。周囲の東ヨーロッパ諸国もみな同じです。長い間、われわれは檻の中にいるような生活をしてきた。世界の豊かさを遠くから見ているだけだった。だが突然いま、すべてが手に入れられるものになった。ただし、それには条件がある。それは金を持っていることだ。西側が壁を壊して、それまで檻の中で生活をしていたわれわれとの境目をなくす手伝いをしてくれたわけだが、そのとき同時に開けた水門が渇望の激波をもたらした。いままでは離れたところから見るだけだったもの、触ることを禁じられ、手に入れることができなかったものに対する渇望だ。われわれはいまこの国がどうなるのか、まったくわからない状態にいる」

バルト海をめぐる密貿易や麻薬の密輸、私財の拡大という共通項で結びついた犯罪組織と権力の癒着など、制度が限界に達した国の様相が描かれる。


海を挟んで向かい側の国の体制が混乱をきたしたらどうなるのか、ということに我が国は備えているのだろうか、とも考えさせられる。


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『ファイアー・ウォール』

2013-08-18 | 乱読日記
スウェーデンの作家ヘニング・マンケルのスウェーデンの地方都市イースタの警察署に勤めるヴァランダーという刑事を主人公にした警察小説のシリーズ。

スウェーデンの警察小説といえば70年代のマルティン・ベックシリーズや、ミステリだと最近のミレニアムシリーズなど、ときどき(日本にも翻訳されるような)ヒット作が生まれる。

福祉国家のさきがけとして、社会問題にも直面してきたから、ということもあるのだろうか。

本作は1998年の作品。翻訳は2012年となる。
シリーズ第1作『殺人者の顔』(1991年、翻訳は2001年)を約10年前(少なくともブログを始める前)に読んで以来。

帯を見ると、このシリーズはイギリスでドラマ化され日本でも有料放送で放映されていたりDVDにもなっているらしい。

その関係で、10年以上のタイムラグを置いて翻訳がされたのだろう。
ドラマも1話90分、ケネス・ブラナーが主演で予算もきっちりかけているようなので、今度DVDも借りてみよう。


本作は、いわゆるサイバー犯罪を題材にしている。
1998年といえば、まだ2000年問題が話題になっていた頃のことなので、取り上げ方としてはかなり早いといえる。
とはいえ、自他ともに認めるローテクのスウェーデンの地方都市のベテラン刑事(既に50台前半になっている)であるヴァランダーが主人公なので、技術的なところは詳しくは触れていない。
犯人の企てが本当に実現可能なのか、逆にもっと簡単な方法があったのではないか、というあたりは、現在からみれば突っ込みどころはあるが、サイバー犯罪の技術自体がテーマではないので深く突っ込
むところではない。

逆に、15年前の作品だが古びた感じはしない。

複数の事件が同時におこり、それらがどう関係してくるのかという、警察小説の醍醐味も味わえる。

そして、マルティン・ベックシリーズでも言えるのだが、主人公の私生活や犯罪事情からスウェーデンの社会を垣間見ることができるのもこのシリーズの魅力である。


バツ一で不器用な男は生活がすさみがちである。しかも子供とはうまくいかない。
中間管理職になると、組織の矛盾もより目に付くようになる。また、ポストをめぐる争いにも巻き込まれる。
リタイヤして別の人生を歩き出す知り合いの話を聞くと胸が騒ぐ。

そんな中でも警察という仕事に愛憎半ばの感情を抱きながら仕事をしている主人公が、本シリーズのなによりの魅力である。





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出張の供

2013-07-28 | 乱読日記
暑さでやる気が出ないうえに出張やら何やら重なってごぶさたしております。

今回も手抜きで出張に持って行った、軽く読める文庫本の紹介です。


『家日和』

奥田英朗はストーリーの構成が上手くはずれがない。
これは短編集なので細切れの時間に息抜きにも良い。
一服の清涼剤のような毒も効いているし。





『目からハム』

イタリア語通訳の田丸公実子さんのエッセイ。
著者の経験、観察眼、人生観の三拍子そろい踏みそろいぶみでとても面白い。





『もっと秘境駅に行こう!』

会社員のかたわら、「秘境駅」めぐりを趣味にしている著者の2作目。
前著『秘境駅に行こう』(ブログで取り上げるのを忘れていたようです)は秘境駅というコンセプトとそれに沿った駅の紹介に重点がおかれていたのに比べ、こちらでは著者の好みや思いがよりストレートに出ている。
ここで取り上げられている駅に行こう、というより、こういう自分の興味だけを追う(他人からは理解されないであろう)旅行をしたいな、と思わせられる。
出張中に読むと「このまま先に足を延ばせば・・・」と楽しさと残念さを同時に味わうこともできる。





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『スマイリーと仲間たち』

2013-07-17 | 乱読日記

ジョン・ル・カレ「スマイリー三部作」の3作目読了。

ストーリーの構成と展開など小説としての完成度の高さについては評判通りだが、1970年代という時代背景の重さも味わえる一冊。

現在とは情報の絶対量が異なり、人生の選択肢も限られているという状況が、人生の不条理、組織の不合理・冷酷さなどをよりクローズアップさせている。

なら情報と選択肢が多い現在の方が幸福なのか、と考えると、そうでもないところが難しいところだ。

そして、人生の智慧は、制約の多いところから生まれるものなのかもしれない。

本書に尋問される時の心得として書かれていたことが、ストックデールの逆説と符号する。

非礼に非礼をもって対さぬこと、挑発されぬこと、得点せぬこと、機知や優越感や知性を見せぬこと、怒り、絶望、あるいはたまになにかの質問でとつぜん湧き上がる希望などに惑わされぬこと。単調には単調をもって、ルーティーンにはルーティーンをもって対すること。そして胸のいちばん奥底に、ふたつの秘密をしっかり抱いていれば、そんな屈辱にも耐えられれる。ひとつは彼らへの憎しみ、もうひとつはのぞみ--水のしずくが際限もなく石にしたたるのにも似た毎日がすぎて、ついにある日、彼らは根負けし、彼らの巨大なプロセスからやっとひとつ出てきた奇跡により、奪われていた自由をとりもどすというのぞみである。

そういう時代だったのだろう。


そして、オスカー・ワイルドの言葉も引用されている。

理想のために死んだからといって、その理想が正しいとはかぎらない。
 


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『医療にたかるな』

2013-07-01 | 乱読日記

目から鱗が何枚も落ち、何度も膝を打って膝が痛くなり、という本。

著者の村上智彦氏は、夕張市の地域医療の再生に従事した医師(詳しくはwikipedia参照)で、地域医療に限らず医療制度全体の問題点を指摘しています。

医療については、行政や医師側だけでなく、利用者の患者の意識も大きな問題であること、そして利用者に誤ったインセンティブを与えている現行制度の問題を鋭く指摘しています。

著者は「戦う医療」から「ささえる医療」への転換を提唱します。
それは予防医療の重視、高度急性期医療に重点を置いている現在の医療機関の資源配分の見直しであり、それへのインセンティブを与えるための保険制度の見直しなどを通じて、医師のみならず歯科医や看護師などとも連携した地域医療の在り方へ制度を変えていこうというものです。

新書版に現行制度の問題点と将来への改善策、そして著者の怒りまで凝縮された好著です。


PS
社会保障制度改革国民会議のサイトを見ると、問題意識としては本書と同じ方向を向いているようにも見えます。

「これまでの議論の整理」(参照)では

病院で治す」医療から超高齢社会に合った「地域全体で、治し・支える医療」へ転換することが必要である。

という記述もありますし、たとえば医療の資源配分についてはこちらの14,15ページ前後に触れられています。

医療関係者だけでなく負担の増える利用者からの抵抗も大きいでしょうが、このままでは遅かれ早かれ破たんしてしまうので、きちんとした提言と実行に期待したいです。


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『小田島隆のコラム道』

2013-06-15 | 乱読日記

小田島隆のコラムは面白い。


理路の足元を照らしながら歩くような語り口についていくと、気がついたら切り口が景色として目の前に提示されている。
まあ、最後までグダグダなのもなくはないが、そのグダグダも面白い。


本書は小田島隆がコラムについて語る、という自己言及はなはだしい本。
エッフェル塔の足元ではエッフェル塔がどう見えるかというような企画である。

なので、理路グダグダ感が満載で、面白いことこのうえない。
まずは読んでいただきたい。


ネタバレになってしまうが、気に入った個所をいくつか紹介。

 どうしてアタマの良い人が、良い文章を書けないというようなことが起こりうるのだろうか。
 おそらく、このことは、魅力的な会話を成立させる能力と、マトモな文章を書くための能力が、まったくかけはなれているということに由来している。


 技巧のない書き手は、どんなに良い話を持っていてもそれを良質のテキストとして結実させることはできないし、意欲を高く保ち続けることのできない書き手は、最終的に、原稿を読める水準の作品として着地させることができない。


 つまり、モチベーションは、書きすぎると、枯渇するわけだ。
 とはいえ、書かないでいると書かないことによる枯渇が訪れる。
 ダブルバインドだ。


 ともかく、やってみればわかることだが、現実的には、「全体を受け止める」ことと、「印象的な一行を書く」ことは、非常に両立しにくい作業なのだ。っていうか、ほぼ無理だと思う。
 ・・・結局のところ、われわれは、「流れ」と「印象」のいずれかを選択せねばならないことになる。


 問題は、乗れているときに書いた原稿の出来が、必ずしも素晴らしくないことだ。


最後のは特に。

 

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