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義和団事件と柴五郎

2012年03月10日 22時27分24秒 | 歴史

メルマガ【人の心に灯をともす】http://merumo.ne.jp/00564226.html よりの転載です。

義和団の乱で、活躍した柴五郎中佐がこれ程に素晴らしい指揮官だったとは、日本人として、非常に誇らしい話です。日本軍が規律正しかったことを、絶賛されています。この規律正しい日本の軍隊の伝統が、大東亜戦争時でも、それほど変化したとは思えません。南京事件など、蒋介石の宣伝省によって雇われた人間による捏造されたプロパガンダというのが真実だという話ですし、河村市長の発言を撤回するようにというマスコミの社説などによる圧力は、日本人としてどうかしているとしか思えません。歴史の検証は、どんどんやるべきであり、こうした言論への撤回圧力は、まさにマスコミ自身が、言論の自由を封じ込めるものではないでしょうか。

 

 

【神として敬慕された駐在武官】№928


黄文雄氏の心に響く言葉より…


1900年の義和団(ぎわだん)の乱当時、北京の諸外国公使館に対する20万の義和団軍の攻撃を最後まで防ぎ、大活躍したことで世にその名を知られ、北京市民にも神として敬慕されたのが、『北京籠城(ろうじょう)記』で知られる北京公使館付武官の柴五郎中佐である。

義和団は、排外主義を掲げ、外国人や外国人になびく中国人を襲い、次第に暴徒化していった。

これにより、北京の各公使館は完全に孤立する。

これが「北京籠城」である。


当時、公使館区域には、外国人925人、中国人クリスチャン3000人ほどが逃げ込んでいたが、各公使館の護衛と義勇兵は481人に過ぎなかったという。

北京公使館区での籠城戦では、日本軍の活躍が際立った。

その日本軍を指揮したのが、柴五郎中佐である。

 


柴中佐の勇猛さや優れた指揮官ぶりは外国人の賞賛の的となった。

それだけではない。

彼は、全籠城者三千数百名の食糧の分配や傷病者の看病などにも、細かな配慮を怠らなかった。


籠城戦に参加したロンドン・タイムズの特派員モリソンは、事変後に柴中佐以下、日本人の大活躍を大々的に報じた。

こうしたことが功を奏して、イギリスの対日感情は好転し、やがて「栄光ある孤立」を謳(うた)っていた同国が、日英同盟を結ぶきっかけになったともいわれれている。


柴五郎は、1872年に開設された陸軍士官学校の3期生で、同期には明治の軍人を代表する英才、異才が多かったことで有名だ。

「坂の上の雲」で有名な、秋山好古(よしふる)も同期だった。


2ヶ月におよぶ籠城中、日本軍がもっとも規律が正しく、その占領地の北城もすぐに治安が回復したので、商店も営業を再開したという。

そのため、市民は布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのである。

それに引き替え、ロシア軍に占領された区域は悲惨であった。

その地の住民たちは続々と日本の占領区に逃げ込み、保護を求めてきた。

北京市民の駆け込み寺と化した日本軍占領区で、軍全体を指揮する柴五郎は市民にとって守護神だったのである。

柴に帰国命令が出され、それが噂として一般に伝えられると町は大騒ぎとなり、老若男女こぞって別れを惜しみ、涙ぐんだという。


イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルはこう述べている。

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。

日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。

わがイギリス水兵がこれに次ぐ。

しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」


イギリス義勇兵のシンプソンは、以下のように記している。

「少なくとも500名の兵を必要とする王府の城壁を守るのに、わずか10数人の義勇兵しかいなかったが、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。

この小男はいつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。

彼は部下を組織化し前線を強化した。

彼はなすべきことはすべてやった。

自分はこの男に傾倒してしまった。

自分はまもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるであろう。

…なぜか自分は日本兵のそばから離れることができなくなってしまった」

『世界から絶賛される日本人』徳間書店



柴五郎は、気骨の人、そして情の人であった。

そして、自らの功績は極力伏せ、あるいは功績を他者にゆずるなどした、無私の人であったという。


明治に活躍した日本人は、勇気と大胆さを合わせ持ち、同時に清廉(せいれん)潔白だった。

その人がいるだけで、その場が和やかになり、治(おさ)まった。


「柴五郎中佐」

かつて、世界から大絶賛された日本人がいたことを忘れないでいたい。



同じテーマの記事で、かつて日本は美しかったからの転載です。

世界が称賛した柴五郎。

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 明治33年(1900年)、清国で義 和団事件が起こります。義和団は排外運動を行う宗教的秘密結社で外国人宣教師等を殺害し、ドイツ公使と日本公使を殺害します。この頃、清朝は改革を推進す る光緒帝が失脚し、改革派は粛清され、西太后が実権を握っていました。政治力の落ちていた清朝は袁世凱の進言に耳を貸さず、義和団の呪術的なものを信じて 味方してしまいます。各国に宣戦布告してしまったのです。

 このとき活躍した日本人で柴五郎は有名です。柴五郎は会津藩の出身で10歳の とき戊辰戦争があり、敗れた会津藩士は青森県陸奥の不毛の地で極貧生活を強いられます。柴五郎はそれでも生き延びて東京へ出て陸軍幼年学校へ入学します。 そして義和団事件を通じてその名を世界に轟かせることになります。
 明治33年6月、北京で義和団と清国兵によって外国人への攻撃がはじまりま す。公使館付武官として赴任していた柴五郎中佐は状況を冷静に分析し、部下を叱咤激励しながら北京篭城戦を指揮します。当初白人らは日本人などあてにして いませんでしたが、やがて柴五郎の抜きん出た能力が評価されるようになります。

英国義勇兵のシンプソンという青年
「日 本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付のリュウトナン・コロネル・シバである。(中略) この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてい た。彼は部下達を組織化し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼のなすべきことをすべてやった」

英国公使館書記生ランスロット・ジャイルズ
「日本兵がもっとも優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これにつづく。しかし、日本兵はずば抜けて一番だと思う」

英国公使マクドナルド
「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

アメリカ女性 ポリー・C・スミス
「柴 中佐は、小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷(こうみんこう)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。(中略) 柴 中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をるふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援 を求めるようになったのです」

 北京篭城は55日間持ちこたえ、8月14日にはイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと日本の連合軍が北京を攻略し、翌日陥落。事態は収束し、清朝の西太后は西安に逃げてしまいます。

  この後、英国のマクドナルドは駐日大使になります。日英同盟の締結を推進していきます。脳裏には柴五郎中佐の活躍があったことでしょう。この当時、英国は 「光栄ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいませんでした。日英同盟は世界に冠たる大国イギリスが小国日本と同盟を結んだということで、世界 中が驚愕したのでした。
 この義和団事件でロシアも派兵していますが、北京の救援には行っていません。何をしていたかというと満州を制圧したのでした。そしてロシアは朝鮮半島をうかがい、日露戦争へと発展するのでした。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R.F.ジョンストン(著) 中山理(訳) 渡辺昇一(監修)
 オークラ出版「世界から愛された日本」『世界に轟いた会津武士道』岩田温
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡辺昇一
 PHP研究所「歴史街道」2010.06柴五郎と北京籠城
参考サイト
 WikiPedia「義和団の乱」「光緒帝」
添付画像
 明治35年(1902年)7月、ロシア・ペテルブルクを訪れ、歓待を受けたときの写真。中央が柴五郎。「歴史街道」2010.06より

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