小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

日本建国の理想

2013年05月12日 16時36分40秒 | 日本人と憲法

みどり松のブログに神武天皇建国の「皇都経営の詔」とその略解が書かれていましたのでそれについて、改めて、考えてみたいと思います。今、憲法改正論議が盛んですが、倉山満氏もチャンネル桜で言っておられましたが、現行憲法の改正という視点のみで改正案を考えている人が多いのはおかしいことです。

倉山氏の言葉で言えば、現行憲法は、占領軍に押し付けられたまさに憲法の素人の書いた『落書き』に過ぎないものであり、これをいくら改正しても、土台がアメリカ製の落書きでは、日本の自主憲法という名にふさわしいとは思えません。

かつて、昭和天皇が初めて御訪米された時に、 アメリカ人の多くが、昭和天皇の歩まれる姿を見て、「歴史が歩いているという実感を受けた」と語ったということです。

建国以来2600年以上にわたって万世一系の天皇を戴いている日本の、その天皇は、まさに歴史を体現しているお方だというのは過言ではありません。

当時米国は建国200年を迎えようとしていた頃ですから、まさに2600年の歴史の重みは、圧倒されるものがあったことでしょう。

そして日本においては、天皇は同時に『建国の理想』の体現者でもあられるのです。

 昭和天皇はこの年のお歌会始に

 

     
          わが庭の宮居に祭る神々に世の平らぎを祈る朝々


  と歌われました。このお歌の精神こそ、歴代天皇のお心であり、建国より代々受け継がれてきた建国の理想ともいうべきものです。

 歴代天皇が神々に誓われ、祈られ、続いてきた日本の国の建国の理想というものは、初代天皇である神武天皇の即位建都の大詔に遡るべきでありましょう。

以下転載です。

 

 神武天皇、即位建都の大詔には次の如く書かれているのであります。

  「・・・・夫れ大人(ひじり)の 制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟いやしく)も民(おほみたから)に利有らば、何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。且当(またまさ)に山林を披 (ひら)き払ひ、宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮むべし。上(かみ)は則(すな は)ち乾霊(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫正(すめみまただしき)を養ひたまふ心を弘めん。然して後に六合(くに のうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)を為(せ)むこと、亦可からずや。夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)、橿原の 地(ところ)を観れば、蓋し國の墺區(もなか)か、治(みやこつく)るべし。」



 これを略解して見ますと、

   「思うに大人(ひじり)が制度を立てるにあたっては、必ずその時勢に順応した良い制度を立てなければならぬ。

苟も人民の利益になる事であったならば、た とい聖人の制定したものであっても、その制度を変更するに何の妨げがあろうや。 〈註:ここに日本天皇の民主主義的性格があらわれているのであります。〉

  朕は、いま山林をひらき伐採して宮殿を築造経営し、恭しい心持で天皇の位に即き、人民の安寧と幸福とをはかであろう。

そして上は、神が國を授けたも うた其の御神徳に答え奉り、下は皇孫以下が正しい心を養成するよすがとし、そして天下を治める為の都をひらき、その徳をひろめて、世界の八方の荒れたる 隅々までも一つの家庭として人類は皆兄弟として互に手をつなぐべき目的を実現するために、畝傍山の東南、橿原の地に都をつくるであろう。」


  この詔勅には何処にも侵略的な精神は見られないのであります。

世界を一家族として、人類を兄弟とする其の中心地として畝傍山の東南の橿原の地に都をつくろ うと仰せられたのでありまして、

まだ此の詔には「大和國(やまとのくに)」と云う国号はあらわれておりませんが、此の橿原の地を中心に「大和國」と称せら れることになったのでありまして、

「大和(やまと)」の国号そのものにも全世界の人類が一つの家族として和合すると云う建国の理想があらわれるのでありま す。

 〈私の記憶によりますと、文書として日本の国号ヤマトと称せられている最初は日本書紀の神功皇后の條であります。〉



  兎も角、斯くして、日本の歴史は形の世界に神武天皇があろうがなかろうが、日本民族の魂の歴史に於いては、その建国の精神の擬人化として神武天皇がましま すのであります。 

神武天皇と大和(だいわ)の理想は日本民族の魂の中に厳然として存在するところの理念でありまして、

形の世界はその理念の具象化とし て、徐々に展開して行くものでありまして、

途中に色々の消長や停頓がありましても、この「神武」の理念と「大和(だいわ)」の理念とを骨子として、それに 具体的歴史が肉付けられて行くのでありますから、

神武建国の事実は歴史註中の歴史なる一大因縁の「因」をなすものとして、日本の歴史より決して抹殺し去る べきものではないのであります。



 

 

 

 

【青山繁晴】国家と戦没者と宗教と政党[桜H25/5/10]

 

 

 



最新の画像もっと見る