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学校で教えない歴史 30 (二・ニ六事件 青年将校を駆り立てたもの)

2011年08月26日 02時06分10秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。二・ニ六事件は実態がよくわからず、ただ青年将校が起したらんということしかおしえられてないので、この一連の記事で、ほんとに統制派、特に幹部である隠れ共産主義者の日本を敗戦に導くための謀略に一環だったということがよく判りました。

 

転載開始

学校で教えない歴史 30 (二・ニ六事件 青年将校を駆り立てたもの) 
 
 
 
1933年の秋の頃のこと、 
相沢三郎が統制派の池田純久に会った時、池田はこう言った。
若い連中がクーデターをやりたがっているようだが、やりたかったらやらしたらいいでしょう。
後の建設は我々(統制派)が引き受けますから・・
相沢は怒り、大蔵栄一にそのことを話したと大蔵栄一著『二・二六事件への挽歌』に書かれています。
 
その相沢も統制派の首領・永田鉄山を殺害し軍法会議にかけられていた。
この相沢事件の軍法会議場は第一師団司令部内で行われました。
裁判長は真崎甚三郎の腹心でもある第一師団長の柳川平助中将。
  
しかし、突然、青年将校に信望のあった柳川中将が12月に台湾軍司令官へ転任となりました。
そのため初公判は翌1936年1月に延期された。
後任の裁判長は新しく第一師団長となった堀丈夫(ほりたけお)中将。堀中将も親皇道派です。
すると今度は第一師団が丸ごと満州へ転出することになったのです。
 
第一師団の青年将校たちは満州に行けば維新の機会がなくなってしまう。
青年将校たちは相沢中佐を慕っていました。そして壮絶なる行動に無言の語りかけを感じていました。
どこからともなく“相沢につづけ”という声が上がった。
そして、この声に便乗して青年将校を焚きつけたのが統制派でした。
統制派軍務局員の影山は“やるならやらせて潰してしまえ”と言った。
後の二・ニ六事件の軍法会議で真崎甚三郎大将はこのような疑問を呈した。
「青年将校は相沢中佐を救うことができるとある人から騙されていた節がある」と。
 
青年将校の手にお金が渡った。
この時、青年将校側にお金を流したのではないかと、
コミンテルン工作員である白系ロシア人シロータという名前が検察文書に出ています。
 
また、二・ニ六事件の青年将校の著書には“ユダヤ”という言葉が出てきます。
彼らはこの頃すでにユダヤの陰謀を勘ぐっていたのであろうか。
そのユダヤと結託していたのが三井などの財閥であり、
その財閥に群がっていたのが政治家たちと永田はじめ軍の首脳たちであった。
さらに天皇陛下を取り巻く連中。内大臣の牧野伸顕、ユダヤの血をひく原田熊雄。
木戸幸一、西園寺公望、など陛下に群がる君側の奸。
 
皇道派は農民はじめ下級階層の生活は窮迫しているにもかかわらず、
政治家は適切な処置もせず自分たちの利殖にのみのめり込み、資本家との疑獄事件を起こして、
さらには元老や重臣、政界は天皇機関説を信じ国体明徴を明確にせずいる現状を憂い、
それに乗じて統制派で占められた軍首脳は我が国の立国の精神を解せず軍人精神に欠け、
堕落した政治家と共に皇道派排撃を画策していた。
国際連盟脱退以後、日本は孤立し対外事情は一触即発の危険があるにもかかわらず、
統制派は戦争誘発の方向に進んでいる。
しかし、現状の政界と国民の生活の実情では大戦争をするのは危険であると感じていた。
 
十一月事件以来鬱積していたものが2月下旬に第一師団が近く満州派遣を命じられたので、
「満州に行ってしまったのではどうしようもない。この機を逸したら永久に事をなす機会がない」と、
決起はやる青年将校を扇動して事件を起こさせ、事件の処罰という形で皇道派を一掃する。
そして二・二六事件を機会に陸軍統制派の政治支配は決定的になった。
その後、日本の歩む道はどうだろう。
外には永田鉄山の“支那を一度叩け”の通り支那事変(二・ニ六事件の翌年に起こる)を拡大し、
さらには大東亜戦争となり、内は国家総動員、電力国家管理、大政翼賛など社会主義的新体制になっていった。
 
二・二六事件を起こした青年将校は国家革新を行おうとした。
皇道派のいう国家革新とはまさに「維新」であって、
軍の独裁政権を樹立しようする統制派の国家革新とは本質において大きく異なっていました。
十月事件の時も橋本欣五郎一派の国家破壊計画のクーデターに対し、
皇道派青年将校は、
君等のなさんとすることはヒトラー流のクーデターであり、ソビエト流の革命であるが、
我々の志は天皇中心の維新であって革命ではない
と言って、皇道派は三月事件から統制派の破壊計画のクーデターとは袂を分かっていました。
特に統制派の幕僚たちの国家改造のためには、
陛下が許されねば短刀を突き付けてもいうことをきかせる」という言葉を平然と吐いていた。
これなどはまさに統制派の本性、国家改造の名のもとでの国体破壊であった。
 
では皇道派のいう維新とは何か?
磯部浅一の獄中手記にこのように書かれています。
「決起の真精神は大権を犯し国体をみだす君側の重臣を討って大権を守り、国体を守らんとしたのです。
ロンドン条約以来、統帥権大権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信ずる学匪、官匪が宮中にはびこって、天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
そもそも維新ということは皇権を回復奉還することであって、
・・大義を明らかにすれば直ちに国の政経、文教全てが改まるのである。これが維新である。
藤田東湖の「大義を明にし、人心を正さば、皇道あへて興起せざるを憂えん」 
これが維新の精神であり、青年将校決起の精神であるのです・・・」
  
1936年2月26日、第一師団を中心にした将校たちは1400名以上の兵を率い二・ニ六事件を起こす。
 
イメージ 1
   (磯部浅一)
 
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                        決起趣意書
 
謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
然 るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日 を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の 僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所な り。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然 も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむる、火を見るより明かなり。 内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。
恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。
皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
外 同志一同
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 



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