さくらの花びらさんの記事から転載します。地雷除去機を開発しようとプロジェクトを組んで、何とか地雷地域の子供達が安全に過ごせるように努力される雨宮さんのドキュメンタリーは、何度かテレビで見た気がします。その素直な誠実な願いに、番組を見ながら感動しました。アフガニスタンでも、夏の暑い時期に、地雷の除去された地域の小川で思いっきり水浴びが出来るようになって、喜んで泳ぐ子どもたちの姿を見ている雨宮さんの嬉しそうな顔が印象に残っています。
現在、地球上に1億個以上も放置されていると言われる地雷。
そして、地雷原を抱える国々はアフガニスタン、カンボジア、モザンビークなど、
その多くはいまだ情勢が不安定であり、医療体制も確立されていません。
ある統計によれば放置された対人地雷の事故は30分に一件の割合で起きており、
その被害者の40%が子どもだと言われている。
そして、被害者は満足な手当てが受けられず命を落とすこが多い。
そんな状況を救済すべく、独自の地雷除去機を開発したのが、
山梨日立建機株式会社の社長である雨宮 清さんです。・・・・・・
昭和22年、山梨の農家で生まれた雨宮さんは、幼いころから母親に
「陰日なたのない人になれ。人のために尽くせ」
と言い聞かされて育ちました。
そして、中学を卒業すると同時に技術を身につけるために東京の建設機械整備会社へ就職。
当時の東京は首都高速建設ラッシュでした。
雨宮さんは、昼夜を問わず働いた。
「仕事、というよりは丁稚奉公。
やらされたことは便所掃除や作業着の洗濯、道具の手入れがほとんど。
3年間はボルトひとつ回させてもらえなかった。
食事にしても寮の先輩がみんな食べちゃうから、ぼくらに回ってくるのは冷えた飯と
具のない味噌汁だけで、おかずはほとんど食べたことがなかった」
そんな修行時代を経て、1970年に雨宮さんは地元山梨で独立を果たします。
雨宮さんが地雷除去活動に取り組むようになったきっかけは、
商用で訪れたカンボジアで地雷原の恐怖を目の当たりにしたときでした。
「悲惨とは、まさにあのこと」
70年のクーデターにはじまり、90年初頭まで内戦が絶えなかったカンボジア国には、
今も600万個の対人地雷が放置されているという。
カンボジアに到着した雨宮さんが目にしたのは、
町中に溢れる、地雷によって手足を失った人々の姿でした。
住むところのない貧しい人々が追いやられるように地雷原周辺で生活していました。
そんな環境で真っ先に被害を受けるのが子供たちでした。
「中には子供の気をひくような色、形を奇抜にしたものも少なくないんです」
そんな対人地雷の被害に遭った子供たちは、足や腕を失い、
また病院が街にしかなく手当てに時間がかかり、さらには医療体制の不備から、
病院に運ばれた後に命を落とすケースが非常に多いといいます。
雨宮さんがそこで出会った負傷した女の子を連れた年老いた女性に
「この国を助けてください」と言われたときに、
亡き母親から言われた記憶がよみがえったといいます。
「人のためになるような人間になれ」
何とかこの人たちを助けてあげられないかと思ったことが、
その後、雨宮さんが地雷と関わってゆくきっかけとなりました。
しかし、当時の雨宮さんには地雷についての知識はまったくありません。
それでもカンボジアの人々が置かれている悲惨な状況を目の当たりにして、
「自分にも何かできることがあるのではないか」
と帰国後すぐに内外の地雷専門家や政府、関係機関など
あらゆる場所に赴き、地雷についての勉強を始めました。
そこで、地雷の除去には危険と隣り合わせの地道な手作業が行われており死傷者が後を絶たないということ、埋設されている地雷すべてを取り除くのには千年以上かかると言われていることを知りました。
さらに未だに対人地雷を作り続けている国があることから、
処理で減るどころか新たに埋設されてその数が増え続けているということも判ってきました。
早速、雨宮さんは社内に対人地雷除去機の開発プロジェクトを設置しました。
従業員がおよそ60名の山梨日立建機にとっては大きな経営リスクでしたが、
「田舎の小さな町工場にも国際貢献の道がある。世界の地雷と戦わせてほしい」
と訴える雨宮さんに社員とその家族は応えてくれたのです。
その後、カンボジアにも出向き、地雷原で地雷処理の現状と、
除去活動を行っている人たちの協力を仰ぎ地雷について学びました。
その結果、油圧式ショベルの先端へ高速で回転するカッターを装着した除去機のアイディアが生まれた。98年にその1号機を完成。
雨宮さんは操作する人の安全性も確実なものとするため、
自分で除去機を操作し安全性を確かめることにしました。
しかし、プノンペンでの実験処理中の地雷の爆発の影響で片方の耳の鼓膜が破れてしまいます。
この後、除去機に調整を加えるとともに、地雷処理を終えた後の除去機は、
地雷原だった土地を農地として利用するための機械に転用できるように工夫を加え、
実用可能な地雷除去機が完成しました。
この除去機が現在6カ国で稼働中だといいます。
アンゴラでの地雷除去活動
「正直、そのころにはビジネスという言葉は忘れていましたね。
かなりの開発費用もかかっていましたし、
とにかく早く完成させて、早くカンボジアに持っていきたい。
早くカンボジアの人々を危険から解放したい。
でも一方で、いや、これは仕事なんだと、だからこそ、ちゃんと費用対効果が得られて、
メンテナンスがしやすくて、使いやすい機械でなくてはと何度も自分にいい聞かせていました」
そして現在、雨宮さんは日本国内の学校をメインに、
広く世界の地雷に苦しむ人々の様子を伝えるため、また青少年の育成の一助を願い、
年間60回を超える講演活動をおこなっています。
もちろん、地雷除去という大変な仕事を通じての貴重な体験談は大事なテーマですが、
雨宮さんが子供たちに伝えていることは
「人を思いやる心、家族の大切さ、そして自分の命、他人の命の大切さ」 であるといいます。
「危険と隣り合わせの開発を続けていく中で、いつ命が果てるかはわかりません。
それでも、地雷に苦しんでいる人がいる限り、現場の声に耳を傾けながら、
これからもできることを精一杯していきたいと考えております」
日本には凄い人がたくさんいる。・・・
地雷と闘う日本の技術者(1/2)
地雷と闘う日本の技術者(2/2)
現在、地球上に1億個以上も放置されていると言われる地雷。
そして、地雷原を抱える国々はアフガニスタン、カンボジア、モザンビークなど、
その多くはいまだ情勢が不安定であり、医療体制も確立されていません。
ある統計によれば放置された対人地雷の事故は30分に一件の割合で起きており、
その被害者の40%が子どもだと言われている。
そして、被害者は満足な手当てが受けられず命を落とすこが多い。
そんな状況を救済すべく、独自の地雷除去機を開発したのが、
山梨日立建機株式会社の社長である雨宮 清さんです。・・・・・・
昭和22年、山梨の農家で生まれた雨宮さんは、幼いころから母親に
「陰日なたのない人になれ。人のために尽くせ」
と言い聞かされて育ちました。
そして、中学を卒業すると同時に技術を身につけるために東京の建設機械整備会社へ就職。
当時の東京は首都高速建設ラッシュでした。
雨宮さんは、昼夜を問わず働いた。
「仕事、というよりは丁稚奉公。
やらされたことは便所掃除や作業着の洗濯、道具の手入れがほとんど。
3年間はボルトひとつ回させてもらえなかった。
食事にしても寮の先輩がみんな食べちゃうから、ぼくらに回ってくるのは冷えた飯と
具のない味噌汁だけで、おかずはほとんど食べたことがなかった」
そんな修行時代を経て、1970年に雨宮さんは地元山梨で独立を果たします。
雨宮さんが地雷除去活動に取り組むようになったきっかけは、
商用で訪れたカンボジアで地雷原の恐怖を目の当たりにしたときでした。
「悲惨とは、まさにあのこと」
70年のクーデターにはじまり、90年初頭まで内戦が絶えなかったカンボジア国には、
今も600万個の対人地雷が放置されているという。
カンボジアに到着した雨宮さんが目にしたのは、
町中に溢れる、地雷によって手足を失った人々の姿でした。
住むところのない貧しい人々が追いやられるように地雷原周辺で生活していました。
そんな環境で真っ先に被害を受けるのが子供たちでした。
「中には子供の気をひくような色、形を奇抜にしたものも少なくないんです」
そんな対人地雷の被害に遭った子供たちは、足や腕を失い、
また病院が街にしかなく手当てに時間がかかり、さらには医療体制の不備から、
病院に運ばれた後に命を落とすケースが非常に多いといいます。
雨宮さんがそこで出会った負傷した女の子を連れた年老いた女性に
「この国を助けてください」と言われたときに、
亡き母親から言われた記憶がよみがえったといいます。
「人のためになるような人間になれ」
何とかこの人たちを助けてあげられないかと思ったことが、
その後、雨宮さんが地雷と関わってゆくきっかけとなりました。
しかし、当時の雨宮さんには地雷についての知識はまったくありません。
それでもカンボジアの人々が置かれている悲惨な状況を目の当たりにして、
「自分にも何かできることがあるのではないか」
と帰国後すぐに内外の地雷専門家や政府、関係機関など
あらゆる場所に赴き、地雷についての勉強を始めました。
そこで、地雷の除去には危険と隣り合わせの地道な手作業が行われており死傷者が後を絶たないということ、埋設されている地雷すべてを取り除くのには千年以上かかると言われていることを知りました。
さらに未だに対人地雷を作り続けている国があることから、
処理で減るどころか新たに埋設されてその数が増え続けているということも判ってきました。
早速、雨宮さんは社内に対人地雷除去機の開発プロジェクトを設置しました。
従業員がおよそ60名の山梨日立建機にとっては大きな経営リスクでしたが、
「田舎の小さな町工場にも国際貢献の道がある。世界の地雷と戦わせてほしい」
と訴える雨宮さんに社員とその家族は応えてくれたのです。
その後、カンボジアにも出向き、地雷原で地雷処理の現状と、
除去活動を行っている人たちの協力を仰ぎ地雷について学びました。
その結果、油圧式ショベルの先端へ高速で回転するカッターを装着した除去機のアイディアが生まれた。98年にその1号機を完成。
雨宮さんは操作する人の安全性も確実なものとするため、
自分で除去機を操作し安全性を確かめることにしました。
しかし、プノンペンでの実験処理中の地雷の爆発の影響で片方の耳の鼓膜が破れてしまいます。
この後、除去機に調整を加えるとともに、地雷処理を終えた後の除去機は、
地雷原だった土地を農地として利用するための機械に転用できるように工夫を加え、
実用可能な地雷除去機が完成しました。
この除去機が現在6カ国で稼働中だといいます。
アンゴラでの地雷除去活動
「正直、そのころにはビジネスという言葉は忘れていましたね。
かなりの開発費用もかかっていましたし、
とにかく早く完成させて、早くカンボジアに持っていきたい。
早くカンボジアの人々を危険から解放したい。
でも一方で、いや、これは仕事なんだと、だからこそ、ちゃんと費用対効果が得られて、
メンテナンスがしやすくて、使いやすい機械でなくてはと何度も自分にいい聞かせていました」
そして現在、雨宮さんは日本国内の学校をメインに、
広く世界の地雷に苦しむ人々の様子を伝えるため、また青少年の育成の一助を願い、
年間60回を超える講演活動をおこなっています。
もちろん、地雷除去という大変な仕事を通じての貴重な体験談は大事なテーマですが、
雨宮さんが子供たちに伝えていることは
「人を思いやる心、家族の大切さ、そして自分の命、他人の命の大切さ」 であるといいます。
「危険と隣り合わせの開発を続けていく中で、いつ命が果てるかはわかりません。
それでも、地雷に苦しんでいる人がいる限り、現場の声に耳を傾けながら、
これからもできることを精一杯していきたいと考えております」
日本には凄い人がたくさんいる。・・・
地雷と闘う日本の技術者(1/2)
地雷と闘う日本の技術者(2/2)