小さな自然、その他いろいろ

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「子供の権利」「自己決定権」「個性尊重」など の教育思想の源泉にある「空想」。

2010年12月25日 13時17分54秒 | 現代日本
 麻生内閣の時に中山国土交通相が、日教組を批判したというので辞任しました。その時に、私はフジテレビの特ダネを見ていたら、日教組は少しも悪くないということを若いアナウンサーが言っていたのを覚えています。しかし、その後何かの折に、ネットの動画をみて、びっくり仰天したことがあります。多分同じ動画だと思うのですが、それが次の動画です。





 性教育で使われる、性交人形スージーとフレッド

 子どもの権利条約というのを日本は平成6年に批准しました。私はこれを最初に聞いたときは、子どもが大人に虐待されないためとか、貧しい家の子供を援助するとか、そういう事かと思いました。ところがどうやらそれもあるかもしれませんが、かなり違ったもののようです。この会議が開かれるときには多くのグループが傍聴していて、彼らはロビー活動で、彼らの主張を「勧告」として出させるために働きます。今年行われた会議では、このロビー活動が功を奏して、日本に対して、「高校無償化に朝鮮学校を含めないのは差別です。」「朝鮮文化は日本で尊重されるべきです」とまで委員に言わせたほどの効果がありました。また子供の将来のためには、家庭や学校での教育・体育・食育・徳育といった「育てる」観点が最も重要ですが、その担い手の家庭、学校、教師、親などは殆ど議論されず、委員会は子供の権利拡大だけを対象としています。日本が条約に加入してから16年、これが日本にとって、本当に有益で、国連の勧告が日本を良くしてきたかどうかを検証しなくてはいけないと思います。日本にいるいろんな人権団体は、この権利条約を推進し、この子どもの権利という思想を日教組も進んで活用したようです。
 この子どもの権利という考え方のもとになったルソーの思想について、国際派日本人養成講座に次のような記事がありました。
 
 以下引用します。

■1.「近代教育学の祖」ルソー■

「近代教育学の祖」と言われるジャン・ジャック・ルソーは、こんな「自然人」を理想としていた。

 (理想の人間である「自然人」の)男性と女性とは出会いがしらに機会があり次第、欲望に赴くままに偶然に結合した・・・別れるのも同じように容易だった。[1,p64]

「理想」と言うより「空想」と言うべきだろう。ルソーは少年時代に、レイプしたさに、若い女性の前でズボンもパンツも脱ぎ捨てたため、警官に逮捕されたことがあった。そんな経験から生まれた空想だったのかも知れない。

 少年時代のルソーは、盗みや詐欺の常習犯でもあった。誕生時に母を亡くし、父親には10歳の時に棄てられた「一匹狼の浮浪児」だったからだ。ただ、他の浮浪児と違うのは、自分を捕らえて罰しようとする文明社会の法秩序、道徳などへの憎悪を「哲学」にしてしまう天才だったことだ。

 生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間(=文明社会の中でそれに適合するように育てられた人間)は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度(=文明社会の自生的制度)がその人の自然をしめころし(=野獣性をもつ「自然人」に成長させずに)、そのかわりに、なんにももたらさない。[1,p256,]

 ルソーは5人の子供を作ったが、この空想を実証すべく、みな生まれるとすぐに遺棄した。

 ルソーは社会の慣習や伝統への呪詛から、「わたしたちは危機の状態と革命の時代に近づきつつある」と期待した。その言葉通り、ルソーの死から11年後に、フランス革命が勃発した。そこでは保守的な農村がまるごと殲滅されたり、慣習に従順な小市民が次々とギロチンにかけられ、結局、200万人もの犠牲者が出た。[a,b]

■2.現代日本に息づくルソーの「教育思想」■

「教育学の古典」と呼ばれる『エミール』で、ルソーはこう主張した。

 教育とは自然の性、すなわち天性に従う事でなければならない。国家あるいは社会のためを目標とし、国民や公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。

 社会の道徳やルールを「子供の天性」に対する「抑圧」と捉えるルソーの空想は、そのまま現代日本の教育思想に息づいている。日教組の政策提言には、こんな一節がある。

 今、求められているのは、学校・教職員が担う役割として
「権利の主体者である子どもたちに権利を伝えること」
「子どもたちに主体者としての活動を保障すること」
「(子供の権利)条約を基準にして、学校の全教育活動を検証すること」を実践することである。[2]

 子どもは「権利の主体者」であり、そのことを知らせ、保証することが学校・教職員の役割だと言う。そこには、生徒に社会の道徳やルールを教え込むという視点はない。そうした活動は子供の「本性」を傷つけ、「国家あるいは社会のためを目標とし、国民や公民になす教育」だからである。

■3.ジュネーブで制服着用は人権侵害だと訴えた日本の高校生■

 ルソーの著書『エミール』を、理想的な教育書として教師の卵たちに叩き込んでいるのは、日本のみだそうだ。[1,p259]
そうして育てられた教師たちによって、日教組の提言は各地で実践されている。

 平成9(1997)年3月、京都府立桂高校では、制服導入を図る校長に反対する生徒たちが卒業式で「学校の主人公は生徒です」とのシュプレヒコールをあげた。同年10月には、ジュネーブで開かれた「国連<子供の権利>委員会で、この桂高校の生徒6名が制服着用の校則は人権侵害だ、と訴えた。

 生徒たちだけで、こんな事ができるわけがない。日教組の提言に忠実な教師たちに操られていたのであろう。

 だが、ジュネーブでは国連の委員から「(制服もない)自分たちの国の子供に比べたら、あなたがたは格段に幸せ」(ロシア)、「スイスに来て意見が言えること自体が恵まれている」(スウェーデン)などと諭された。[3]

 ジュネーブはルソーが生まれ、少年時代を過ごした街である。そこで生み出されたルソーの空想が、200年の時間と地球半周分の空間を超えて、日本の高校生たちをこの地に呼び寄せた訳である。

■4.マルクスとエンゲルスの家族解体論■

 ルソーは子どもを躾ける家庭教育にも反対した。

 (学校教育が皆無となれば)あとに残るのは家庭教育あるいは自然の教育だが、もっぱら自分のために(家庭で)教育された人は、ほかの人にとってどういう者になるのか。害悪の人間が育つ。とすれば選択肢は自然の教育しか残らない。[1,p258]

 ルソーの影響を受けたマルクスとエンゲルスは、『共産党宣言』で、こう宣言した。

 家族の廃止! ・・・完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。・・・両者(ブルジョアと家族)は資本の消滅とともに消滅する。[1,p62]

 親が子に伝統的価値観を教える家族の存在は、共産革命の邪魔であった。

 この宣言を実行すべく、レーニンは共産革命に成功したソ連において、家族解体法を制定した。教会での結婚式や戸籍などという社会的形式で結婚を縛る事を否定し、愛し合う二人が愛情の続く間だけ一緒になっていれば良いとする「事実婚主義」をとった。そして近親相姦、重婚、姦通を刑法から除外した。

「夫婦別姓」の旗手である現社民党党首・福島瑞穂氏はこれを賞賛して、こう言った。

 ロシア革命の後、・・・一時的であれ、事実婚主義がはっきり採用されていたとは素晴らしいことだと思う。[1,p65]

「一時的」というのは、スターリンがこの家族解体法を1936年に廃止したからである。堕胎と離婚の急増(1934年の離婚は37パーセント)、出生率の急減、婦女暴行など少年犯罪の激増、数百万もの孤児の発生などで、ソ連の国家社会そのものが揺らいでしまったからだ。[c]

 まさに、家族を解体しようとするマルクスとエンゲルスの空想を実験した結果がこれであった。福島瑞穂氏の夫婦別姓論は、この事実婚主義を「理想」としている。

■5.ミルの「自己決定権」■

 英国社会主義の開祖と言われるジョージ・スチュワート・ミルも、ルソーの影響を受けた思想家である。ミルが著書『自由論』で主張した「自己決定」、すなわち、「他人に迷惑をかけない限り、自分のことは自分で決められる権利がある」という考え方は、現代日本でも「援助交際」(女子中高生による売春)を弁護する理論として使われている。

 ミルは人妻であったハリエット・テイラーの愛人となり、その夫や子供たちと共棲する一妻二夫関係の異常な家族を築いた。当時の英国社会はこの行為に対してごうごうたる非難を浴びせたのだが、それに反駁するためにミルが持ち出したのが、「他人の自由を侵害しない限り何をやっても良い」という自己決定の概念であった。その主張は、ルソーと瓜二つである。

 単に慣習であるが故に慣習に従うということは、人間独自の天賦である資質のいかなるものをも、自己の裡に育成したり発展させたりしない。[1,p150]

■6.中学生に「性の自己決定権」■

 ミル自身は、未成年には「自己決定権」を与えるべきでないと主張したが、これを「性の自己決定権」として子供にも適用しようとしているのが、現代日本の過激な性教育である。

 その始まりは、吉祥女子中・高(東京都武蔵野市)の副校長だった山本直英氏らが昭和57年に設立した「“人間と性”教育研究協議会」(性教協)だろう。山本氏は戦前の共産主義者で「結婚制度は奴隷制」とした山本宣治を支持し、それまでの道徳主義型性教育や生徒指導型性教育を否定して「科学・人権の性教育」を掲げた。

 氏は「私の性器だから、自分がどう使おうと自由です・・・いつ、誰と、どうやって使うかも自由です」と主張。その「自己決定能力」を養うために小学校から性器や性交について教えるべきだとして、副読本に性器の詳細な図を掲載したり、人形を使った性交の実践授業を行った。[4]

 こうした過激な性教育の最大規模の実践は、厚生労働省所管の財団法人が中学生向けに130万部も作製・配布した小冊子『思春期のためのラブ&ボディBOOK』であろう。そこでは「(赤ちゃんを)産むか産まないか」は「自分で考え、自分で決めることが大事だ」と「性の自己決定権」を教え、さらに「ピルをきちんと飲めば避妊効果は抜群」などと勧めている。これは国会でも問題になり、さすがに一部の良識ある教育委員会は配布を差し止めた。[5]

■7.「個性重視の原則」■

 ミルが「自己決定」を擁護するために、さらに主張したのが、それが人間の「個性の発揮」を助長し、「幸福」や「進歩」をもたらすという事であった。

 個性が自己を主張することが望ましい・・・他人の伝統や慣習が(自己の)行為を規律するものとなっているところでは、人間の幸福の主要なる構成要素の一つが欠けているし、また実に個人と社会との進歩の最も重要な構成要素が欠けている。[1,p242]

 この「個性重視」は、現代日本の教育界で批判を許さない絶対原則となっている。それを最初に打ち出したのが、臨時教育審議会の第一次答申(昭和60年)である。そこでは「教育改革の基本的方向」の冒頭に「個性重視の原則」を掲げた。

 今次教育改革において最も重要なことは、これまでの我が国の教育の根深い病弊である画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性を打破して、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自律、自己責任の原則、すなわち個性重視の原則を確立することである。[1,p220]

 この答申が直接下敷きにしたのは、ミルというより、アメリカの教育哲学者ジョン・デューイであろう。デューイの「個性尊重」は戦前から日本の教育界で高く評価されていた。

■8.ソ連の未来をバラ色に夢想したデューイ■

 このデューイもまたミルと同様の社会主義者であった。スターリン独裁下のソ連を旅して、ひたすら称賛と感嘆の言葉に満ちた印象記を残している。たとえば、レニングラードで見た浮浪児の収容学校を参観して:

 私は未だかつてこれほど聡明な、幸福そうな、そして理智的に作業している、かくも大勢の児童を見たことがない。・・・物事を完成せしめずにはおかない彼らの揺るぎない(共産主義の)信念に対して、感銘せずにはいられなかった。[1,p228]

 その結果、デューイはソ連の未来をバラ色に夢想した。

 労働者が産業や政治を支配する時、すべてのものは自由に心ゆくばかり文化生活に参与しうるようになるだろうということである。[1,p228]

 デューイの個性とは、盲目的に慣習に従うのではなく、共産主義への「揺るぎない信念」に満ちて、集団作業に邁進している子供たちの姿であったようだ。しかし、そうして育ったソ連の子供たちが、どれだけ「自由に心ゆくばかり文化生活に参与し」、本来の個性を発揮して、社会全体の「幸福」や「進歩」を実現したのか?

 ミルの「一妻二夫主義」などという「個性」を認めずに、伝統を墨守した19世紀のイギリスは、産業革命で世界をリードし、7つの海を支配する大帝国を築いた。「画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性」という、これまでの教育の「根深い病弊」に覆われていた日本は、戦前も戦後も世界史に残る奇跡的発展を遂げている。

 近代世界史の現実を見れば、伝統に根ざして、きちんとした教育を行っている国の方が、はるかに個性的な人材を輩出し、「幸福」と「進歩」を生み出しているのである。

■9.教育の目的■

 現在の我が国の教育界を支配している「子供の権利」「自己決定権」「個性尊重」などといった考え方の源流を辿ると、ルソーやマルクスなどの「空想」にたどり着いてしまう。

 その共通的な構造は、社会の伝統や慣習、規範を「子供の天性」や「子供の権利」を抑圧するものとして罪悪視し、子供たちに反抗させて、革命の予備軍を育てる、というものである。
その目的は革命の実現であって、子供たちは革命のための将棋の駒に過ぎない。

 そんな革命が実現したソ連のような国々では、国民の「幸福」も国家の「進歩」も実現できずに衰亡している。19世紀のイギリスの思想家サミュエル・スマイルズは著書『品性論』でこう述べた。

 国民全体が、名誉、秩序、従順、貞節、忠誠、の美徳を過去の遺物に過ぎないと思うとき、国家は死に至る。この救済方法はただ一つ、各国民が品性を回復することである。 [1,p20]

 この「救済方法」の柱が、子供の品性と能力を育てる真の教育を回復することである。それが本人の幸福と、国家全体の隆盛を招くことは、19世紀の大英帝国が実証している。[d]
(文責:伊勢雅臣)


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 渡部昇一、中川八洋『教育を救う 保守の哲学』★★、
徳間書店、H15
2. 日本教職員組合ホームページ
「政策提言 02 子ども参画・学びの共同体としての学校改革」
3. 産経新聞「【主張】高知こども条例 議会の見識を示した修正」、
H16.07.27
4. 産経新聞「性教育 日本はコンドーム奨励 “性交の自由”
主張の教師集団も」、H14.12.16 

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/


門田さんより
「子供の人権」とは子供に大人の人権を与えることではなく、あくまでも社会的存在としての責任を負える人間になるべく、教育や保護を受ける権利を持つ存在としての「子供」たちのことであるはずなのに、それを意図的に曲解する大人の恥知らずの行為は非難されてしかるべきです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

「子供の人権」を声高に叫ぶ人々が子供の健全な成長を阻害するのは、平等を謳う共産主義国家が巨大な権力格差、経済格差を生み出しているのと同じ「自己矛盾」ですね。


トーマスさんより
 この稿の結びに『この「救済方法」の柱が、子供の品性と能力を育てる真の教育を回復することである。それが本人の幸福と、国家全体の隆盛を招くことは、19世紀の大英帝国が実証している』とあり、イギリスの「貴族の精神」について触れられていました。

 1908年に刊行され当時の子どもたちのベストセラーとなった『スカウティング・フォア・ボーイズ』をご存知でしょうか?
 ボーア戦争での英雄ベーデン・パウエルの著で、ボーイスカウト運動発祥のきっかけとなった本です。和訳はボーイスカウト日本連盟(http://www.scout.or.jp/)で販売されています。

 貴族の精神を貴族社会に留めず、労働者階級にも浸透させ、世界中に広めたのではないかと、改めてこの本の歴史的な意義を感じました。ボーイスカウト運動は100年にわたる青少年教育として、これまでに2億5千万人の若者が経験したと言われています。しかし、社会一般にはどのように映っているのでしょうか? 関係者の関係者による仲間づくりで終わっているのでしょうか?  またアメリカ一辺倒に見える現代の日本では、貴族の精神は過去の遺物になりつつあると思います。スカウト運動に携わりながら、そんな寂しさを感じていますが、先生にはボーイスカウト運動をどのように観ていらっしゃるか、ご指導いただければ幸いに存じます。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 ボーイスカウトが元旦に実施している国旗掲揚式を見学したことがあります。各国の青少年に、自国の国旗を尊重すべきことを教えている事だけでも、ボーイスカウトが本物の教育だと感じました。年頃の少年少女をお持ちの方は、ぜひ近所のボーイスカウト、ガールスカウトを見学されてはどうでしょうか。本物の人間教育が見つかるでしょう。
 


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