ララ・ガーデン春日部で今やってる<映画・私の中のあなた>を観ました(2009.10.16)

2009-10-16 11:36:08 | Weblog

*4番スクリーンの入り口です。

 家人に映画に誘われました、一昨日14日のことです。<明日は空いてますね>と夕食時に。題名を言わずに誘われた<おくり人>からちょうど一年目です。

 今回はタイトルを知っていました。家人が、新聞の映画評や広告をみて、春日部に来ないかなあ、と話していた映画です。<私の中のあなた(my sisters keeper)>です。
 私も、新聞を読んでいるから知っています。<病と闘う家族の絆>、暗い話のようです。私が嫌いなセリフ<ここで問題提起をします>的な映画みたいです。
 ちょっとのらなかったのですが、おつきあいです。

*お話の中心は、妹と母親です。病の姉ではありません、それはそれでいいのです。

 10時15分の朝一番の上映には間に合わず。2回目の12時15分に、ユナイテッド・シネマの4番スクリーンに入りました。シルバーチケットです。お客さんは30人ほど。みんな、女性でした。

 もう、のっけから、壊れた腎臓、腎移植の話です。私のことのようで気持ちが沈みます。
 <白血病>の少女(ケイト)の話です。臓器提供のドナーは<妹(アナ)>のようです。

 <病気と闘いながらも幸せだった家族に訪れた、突然の出来事>
 <アナ、あなたは、パパとママの愛の結晶・・・・でも、その言葉はウソだった>
 <白血病の姉ケイトを救うために、臓器を提供するドナーとして生まれてきたアナ> 
 <11歳のアナが決然と言いきります。「もう姉のドナーにはならない」>
 <アナは姉(ケイト)が大好きだった、なのに、なぜ・・・>
 ・・・・・これがチラシの文章を引用したストリーです。チラシは、こう続けています。

 <アナの決断の裏には、驚くべき真実が隠されていた>
 こういうミステリーじみた書き方は、間違っているように思います。
 暖かい家族の中の必然です。11歳は子どもではありません。

 この映画に、悪者は全くでてきません。皆、あたたかく、やさしい、いい人です。
 でも、悪魔・運命に立ち向かわなければなりません。映画の中だけの話ではありません。どこにもあることです。家族は固まって立ち向かわなければなりません。まわりの人たち(社会)もそうです。 そういうお話です。

 ご家族ご一緒に、ご覧になるようにお勧めします。
 行こうと言い出すのは、女性・お母さんでしょう。

 自分の言葉で書けないので、日経10月9日夕刊の渡辺祥子さんの映画評の最後の部分を引用します。
 <・・・・・別れの悲しみより、生きていることの幸せが心に残って幸福感が漂うのが嬉しい>。私もそう思いました。

    【おまけ】

*原作の翻訳本が紹介されていました。

* 自分の子どもたちや家族に、希望のない病を感じた時の、親のほんとうの気持ちは、私には全然わからない。この映画は、そんな時にも持てる明るさを教えてくれるように思います。でも若い人が死んでしまうことは、ほんとうに辛い、私ら世代が変わってやりたい、と本気に思います。

* 映画が終わって、<プログラム=パンフレット>を買ってしまいました。女優さんの名前を知ろうとしたのでしょう。そこに、原作本が紹介されていました。原作<my sisters keeper>作Jodi Picoult(ジョディ・ピコーは、1966年生まれの女性です)。

* 原作本の翻訳がハヤカワ文庫から出ています。翻訳者の川副智子さんが、<アナの決断の理由は、映画と原作は異なる>、それは、作者が女性・母親、映画監督は男性・父親、その違いによるのだろう、と書いています。

* 映画を見終わって、パンフレットを見ながらオムライスを食べて、原作本を買いに、ララ・ガーデンの本屋・リブロに行きました。ありませんでした。


米国の上高地・ヨセミテ風景、吉田博(版画)とアンセル・アダムス(写真)(2009.10.14)

2009-10-15 10:10:56 | Weblog

*左;吉田博の版画、右;アンセル・アダムスの写真。構図がそっくりです。左の本は、はじめてのシェラの夏(ジョン・ミュア著)

 アメリカ・カリフォルニア州、シェラ・ネバダ山系、ヨセミテ・ヴァレイ(渓谷)に行きたいと思ったのは、1970年初めでしょうか。
 アメリカの若者の意識が公民権運動やベトナム反戦運動といった政治問題から、自然・環境問題に移っていくようすが日本に伝播しはじめた頃でしょう。

 アメリカ西海岸の若者文化と一緒に、自然保護の象徴的な場所として、ヨセミテが日本に入ってきました。
 その時、私は、ジョン・ミュアの自然保護という運動・思想、登山用品のパタゴニア、アンセル・アダムスの写真、日本の雑誌での芦沢一洋さんの原稿から、ヨセミテを知り、魅かれていったのです。

 とは言っても、それから、けっこうマジメに仕事一本の生活を続け、その間のヨセミテへの思いは、通勤電車の中で読む書物での世界だけで我慢していたのです。

 それから30年、仕事を卒業する年、たまっていた有給休暇を使う<卒業旅行>で、家族(4/5)をひきつれ、ヨセミテにキャンプし、積年の思いであるハーフドームの登頂を実現したのです。

 パタゴニアが出しているのアウトドア用品のカタログ的な小雑誌の表紙に、ヨセミテの大岸壁エル・キャピタンを題材にした版画が使われていました。その版画の作者が日本人・吉田博さんの作品、そして彼は、大正時代にヨセミテを旅していたことを知ったのです。

*右の雑誌の記事で、パタゴニアのカタログの表紙に吉田博の版画が使われていることを知ったのです。

 ちょっと感動して、2年ほど前に、このブログに書いたのです。 <ここです> 
 その時、本物を見たいなあ、買えるものなら手に入れたいなあ、と思っていたのです。ネットや吉田博版画展に出かけても、本物に出会うことはなかったのです。

 ひょっとすると、国内には現存しないのではないかと思っていました。
 ところが、今年2099年6月頃、私のブログを見た<まゆみさん>という方から、
<カリフォルニア・マーセド(ヨセミテの入り口の町)から、滞在(ホームスティ)中のおウチにありますよ>とコメントで知らせてをもらったのです。

 ホームスティ先では、たぶん<このブログが話題になって>、新たに額を購入されたようです。どのようなルートで入手されたのでしょうか、の質問には、<フリー・マーケットで入手した>とのことでした。・・・・ただのフリー・マーケットから?、私が欲しかった。

 *これが本物の吉田博版画<エル・キャピタン>です。欲しいなあ・・・・。

*この写真で大きさがわかります。

*所有者のお部屋です。東洋趣味のおウチのようです。壁にかかっています。(撮影;まゆみさん)。

 今日のトップの写真を見ると、吉田博の版画の構図とアンセル・アダムスの写真の構図がよく似ていると思われたでしょう。
 もう一例を示しておきましょう。いずれも、エル・キャピタンです。

*吉田博の版画(と、ネット上にありました、作風が随分違います。ほんとに、正しいかな?)

*アンセル・アダムスの有名な写真

 (*)吉田博;1876(明治9)年生まれ、1953(昭和25)年に没。ヨセミテの出かけたのは、1924(大正13)年。
 (*)アンセル・アダムス;1902年生まれ、1984年に没。1920年に、アメリカ自然保護運動の父、ジョン・ミュアが創設したシェラ・クラブのヨセミテにある夏季ロッジの管理人になる(18歳)。

   【おまけ】

*ときどき届く楽しい旅日記です。

*連絡をいただいたまゆみさん、そのヨセミテ入り口のホームステイを8月中旬に発ち、カナダ、アイルランド、イギリス、イタリアとまわり、昨日(10月14日)に届いた、つまり10月5日発信の絵はがきは、イタリア、ヴァチカン市国で書いたものでした。<ローマでは、刑務所のとなりにある女性専用の修道院の宿泊施設に泊まっています>と。羨ましい地球自由旅行者です。

 


江戸川(彩龍の川まつり)で、ネイチュア・ミュジック・カフェをやります(2009.10.13)

2009-10-13 21:08:59 | Weblog

*江戸川土手には子どもらの歓声。

 昨日(12日)は、体育の日だから快晴。江戸川土手は、子どもたちの歓声で一日中にぎわっていました。大きな空と広い景色の中で、遊ぶ子どもらを見ていました。
 わが町(春日部市旧庄和町)の<ちょっといいとこ>のひとつです。

 よく観光スポットように雑誌のグラビア・ページに登場するのが、同じ所にある建物です。首都圏洪水対策として地下水路の江戸川への放水場所でもあります。
 地下50mに大きな空間があって、水の溜まっていない時期には、大きな地下宮殿のように見えるのです。地下見学には、予約が必要です。

*右の建物の地下に、<宮殿>が。左のログハウスでゆったりコーヒーも。

 年に1回、地下公開日があります。直近では、11月14日(土)です。
その日は、①首都圏外郭放水路特別見学会、②彩龍の川まつり、③江戸川カッパ市、3つのイベントが連携して、5000人とも8000人ともいわれる人手のでる大きなお祭りになるのです。

 共催する地元市民団体G-CANSさんの準備も今が佳境、大詰め。大忙しです。
<私>、そこでの音楽イベントをやることに(はめに?)なったのです。

すでに10余の出演バンドから手をあげてもらっています。フェアトレード・コーヒーを扱っているエルメラ・コーヒーの知人ものってくれます。

*ミュジック・イベント会場の予定地

 そこには、ちょっと起伏があるのですが、広い広場があります。ちょっといいログ・ハウスがあります。そして、大きく流れる江戸川と空につながる風景があります。

*自然の中のロック・イベントも。

 この資源をどういう風に組合せて、ミュジック・イベントに持っていこうかと思案中なのです。 
 この間ひとり、そこに立ってイメージをふくらませてきました。
 コンセプトは、<ネイチュア・ミュージック・カフェ>にしました。

 

     【おまけ】

*出演希望の、バンド、グループ、個人さん、まだまだ何とかなりますよ。ゲリラ演奏って方法もあるし、<ストリート>はいっぱいありますし、問い合わせて下さい。


春日部市立南桜井小30人31脚走で全国大会へ、町ではドタバタ運動会(2009.10.11)

2009-10-11 19:48:42 | Weblog

*2009年10月11日付朝日新聞

 今朝の朝刊に、10日「小学生クラス対抗30人31脚全国大会2009」北関東地区大会があって、春日部市立南桜井小学校が優勝した、の記事がありました。11月8日に横浜アリーナで開かれる全国大会に進むのです。全国大会は12月上旬にテレビ朝日で放送される予定です。

 6年前ぐらい、同じ町(春日部市に合併前の庄和町)の桜川小学校が、全国大会に出場し、息子の出場する知人さんは、応援にいったと聞いたことがあります。たぶん、同じ先生が南桜井小に転勤されたのでしょう。子どもたちのガンバリの前に先生の熱意が一番でしょう。

 個人競技でなく30人全員で一緒に勝ちとった栄誉が嬉しい。同じ町の住人として、とてもいい話なのです。

*こちらは、2人3脚です。

*パンがなくなる程、出場者が殺到したパン喰い競争

 さて、今日(11日)町の運動会がありました。競技役員というか、ただのお手伝いか、グラウンドの真ん中で、一日過ごしてきました。快晴、すこしあった風もいい感じで、気持ちのいい日曜日でした。
ただ競技会とは、ほど遠い、ばたばた運動会ですが、それはまあ、いいでしょう。

*空は快晴、開会式です。

 中学生や高校生が出場してくれると、きりっとしまった<お遊びでない>地区対抗の体育祭になるんですがね。


焼かりんとう、沖縄・伊江島・城山、チベット・カイラス山の三題ばなし(2009.10.8)

2009-10-08 17:42:36 | Weblog

*いくらでも食べられる焼かりんとう。

 今日(10月8日)に、かりんとうをいただきました。春日部の家人の知人さんからです。
 焼かりんとうです。油であげていないと、袋に書いてあります。

 かりんとう、は大好きです。誰も好きです。
 ところが、私も、あの固さが気になるお年頃になっています。
 ところが、そんなことを気にせず<美味しい>と秘かに思っていたら、家人が<あんたでも!食べられるでしょう>と、ぐさっと言われてしまった。

 同封されていたチラシに、<カラッと焼きあげたので歯ざわりもサクサク。堅いものが苦手な方でも、安心してお召し上がりいただけます。また、油で揚げていないのでカロリーも低くとってもヘルシー>と書いてありました。

 いくらでも食べられます。私には、どこで買っていいのかわかりません。
 幸手に売っている?。越谷に受注センターがあるようです。 

*沖縄・伊江島の黒糖を使っています。

 ポリポリ食べながら、袋をみてビックリです。
 沖縄・伊江島の地図が印刷されています。伊江島の契約農場と独自の製糖工場の <島のシンボル城山(グスクヤマ)のふもと一面に広がる畑で元気に育った良質のサトウキビを使っている>そうです。

*昨日の日経夕刊です。

 沖縄・伊江島・城山(グスクヤマ)は、昨日、ほんとに昨日(10月7日)の日経夕刊で読んだばかりです。行きたいなあ、行こう、と思ったばかりだったのです。
 島全体が、ひとつの山、岩山です。体調を壊した私でも簡単に登れそうです。
 海からの姿がいい。眺めることでも心が休まるでしょう。

 私は、鋭く尖った山、どんと存在感のある丸い岩山には、登りたいと思ってきたのです。
 そこに、神の存在を感じるのです。

 日本人は、いや人は、山や大きな岩には、神を感じてきたのです。

 その最高峰が、チベット奥地にあるカイラス山(カンリンボチェ)です。須弥山です。
 ずっと思って、接近の仕方も研究?してきました。なんとか、また元気を取り戻して、カイラス山を拝みたいと思っているのですが、もうだめかも知れません。

    【おまけ】

*著者;須田郡司(日本経済新聞出版社、2008年10月発行)

*一週間ほど前に、春日部市立図書館で、<日本石巡礼>という白いきれいな本を借りてきました。日本中の<神>として崇(あがめ)められてきた、山・岩・磐座(いわくら)を巡礼する旅日記です。著者は、一番最初に、チベット・カイラス山に出かけたことを書いているのです。

 *同じ町のブロガー、Rikaさんは、この週末3連休に、石垣島にいくのだそうです。


今日7日は初めて月の裏側の写真を撮った日とNHKラジオ、ほんと?(2009.10.7)

2009-10-07 12:31:07 | Weblog

*2009年9月11日に春日部市からみた上弦の月(知人の撮影)。10月3日の中秋の名月は、お天気が悪かった。

  私は、冬に入る今でさえ朝5時に目がさめてしまいます。朝はラジオ(NHK)の時間です。6時30分にラジオ体操、ビジネス展望があって、<今日は何の日?>という短い帯番組があります。
  その番組で、今朝、<初めて月の裏側の写真を撮った日。1959(昭和34)年のことです>とアナウンスされたのです。
  ほんと?かなと思い、今日のブログは、これで行こうと決めました 。

*1958年10月27日の毎日新聞、いまだに、古新聞を残しているのです。家人からは、大ヒンシュクです。

  10年近く前に、ある雑誌に技術史の原稿を書いていて<ソヴィエトのルナ3号が初めて月の裏側の写真撮影に成功>が、いつのことなのか、はっきりしなかったことが、あるのです。
  その時は、<10月27日に発表>と、ソヴィエトの発表日を書いたのです。日本では、 28日付朝刊で報じています。

 1959年9月12日、ソヴィエトの<月3号>は打ち上げられます。月に接近します。でも、いつ撮影かとなるとよくわかない。撮影して、処理して、ゆっくり送ってきます。だから、私の持ってる情報では、よくわからないのです。

*1958年10月27日の毎日新聞、このあたりの情報では、いつ撮影されたかは読めません。

 1959年のその時、私はこの世に生存していて、新聞を読み、このニュースを知り、新聞をスクラップしているのです。むろん深読みするのは、もっと後のことですが。

 人間、日本人と月と関係、月への思いを考えると、それが何日であっても、たいしたことではありません。はじめて月の裏側を<人類が見た年>だけで十分です。

 それから40年、今や誰でもインターネット上で、もっと精緻な月の裏側画像をみることができます。見事な月球儀を買うこともできます。

 でも私にとっては、その日から10年間は、ソヴィエトとアメリカが競った月探査、惑星探査の中で、通信社から送られてくる<月や火星の写真>にわくわくする日々だったのです。

     【おまけ】

* インターネット上には、もういろんな画像があります。しかし、一番初めの月の裏側の写真はでてきません。しかし、当時の<新聞記事のスクラップ>は出てきました。当時、都会で、朝日新聞は号外を出していますが、岡山の山中には配られません。 <ここです>

*月の話には、もっとロマンあふれる方がいいですね。それはまたにします。


10月1日の風物詩だから赤い羽根募金はしますよ(2009.10.6)

2009-10-06 19:07:17 | Weblog

*わが家には3本の赤い羽根。台紙に印刷されている<品質保証>がなんかおかしい。

 一週間遅れですが、風物詩<季語>みたいなものです。
 10月1日には、NHKのニュース系アナウンサーさんも、総理大臣さんも、胸に赤い羽根でテレビに登場です。翌日には、ばずしているようです。

 新聞にも登場していたヒマネタ記事?女子高校生さんやボーイスカウトさんの街頭での<共同募金お願いしまあす>の声をあまり聞かなくなったように思います。もっとも、あまり外に出ないのですが。

 街頭募金をするチャンスはありませんが、私には、<強請されている気分>の2つの募金機会があります。ひとつは、居住地にまわってくるもの、ひとつは、たまたまやっている<地域のお世話に関する集まり>、いずれも断る勇気を持ちません。会費・税金のたぐいと思っています。

 居住地にまわってきたチラシによると、「赤い羽根共同募金、一世帯当たり募金期待額、380円」とありました。

 赤い羽根に限らず、街頭でいろんな募金活動に出くわすことがあります。私は、まずしません。署名もしません。お話を聞くこともありません。チラシはもらいます。わりあい丁寧に読みます。
 頼まれて<活動に>寄付することはありますし、神社仏閣でのお賽銭はやります、どこででもやります、念のため書いておきます。


ウチに来た女子中学生のスニーカーのおしゃれな工夫ににっこり(2009.10.6)

2009-10-06 08:56:58 | Weblog

 一昨日の日曜日(4日)のお昼に、私のウチにお客さんがありました。
 お母さんと中学生の親子さんです。昔から知っているご町内さんです。

 娘さんは、町の中学校のブラスバンドのメンバーさんです。
 写真はもちろんのこと、楽器名を書くのもまずいでしょう。

 私は、午後から別件の用事があって出かけました。
 出がけに、玄関に脱ぎ揃えられたスニーカーを見て、にっこりしたのです。
 女の子らしい、かわいくおしゃれな工夫がしてあったのです。

 こんな風に、くつ紐をとおすこと、皆やってるんでしょうか。
 ただ、それだけのことです。


ローカル情報を居住の外国人に。春日部市のニュース・レター(2009.10.5)

2009-10-05 11:36:41 | Weblog

*春日部市居住の外国人向き月刊広報誌・NEWS-WAVE(左;9月号、右;10月号)。この写真では、各国言語の文字が読めないですが。

 先週は、ローカル情報をいかにご近所に知らせるかの課題をテーマに何本か書きましたから、そのノリでもうひとつ。地域に住む外国人への広報のお話です。

 春日部市には、2000人の外国人が住んでおられるようです。そのことに大した関心もないので正確さは欠けるかもしれません。何の特徴もない私の住む旧庄和町エリアにも200人が居住されているそうです。
 春日部市に国際交流協会という組織があります。旧庄和町にもあったようです。実は、よく知らなかったのです。

 先日、春日部市役所にいったおり、知人から外国人向きの月刊広報誌(といっていいのでしょう)を見せてもらいました。春日部市国際交流協会の発行ですが、その知人が事務局で、ひとりで編集しているようです。

 <定額給付金はもらいましたか?>、<子育てで困っていませんか?>、<ゴミを出す日はわかりますか?>と呼びかけ、<休日当番医>情報、<ハロウィン・パーティ(10月31日)>のお知らせまで、もりだくさんの情報です。

 むろん一番大事なことは、英語、中国語、ハングル、スペイン語、ペルシャア語、イタリア語、で書かれていることです。当然のことですが。

 そのとき、知人がニュースレターに<タガログ語>も入れたい、と話してくれたのです。
 タガログ語=フィリピン人程度の連想は、私にもできます。<フィリピンって、英語じゃないの?>と聞いてしまって、結果として<私の国際感覚=ゼロ>が露呈したのです。

 ただ、こうした広報が、どれほど居住する外国人の目にふれているのか、という大きな課題がありそうです。

 私が、この頃いくようになったインド人(正確には社長はパキスタン人)カレー屋さん。働いている人の日本語はダメ、英語もダメです。お昼のお客さんも皆インド人のようです。だから私は出かけるのです?が。何語かなあ、ヒンディー語でしょうか。

    【おまけ】

*左;40年前に、1968年にグアム島で買いました。まだ持っているのです。1967年初版、香港の出版社の発行。

*上記(左)の本から。

*私の英会話はフィリピン・パブ仕込みという<国際交流協会に入会資格なし>の品のない非良識人でもあります。それで、フィリピン=英語と思っていたのです。

*わが図書室から古い本(1991年発行)を出して読んでみました。フィリピンには、少なくとも80種以上の言語がある。タガログ語は、16世紀後半のスペイン統治開始以来、アメリカ植民地期を経て政治経済の中心舞台であり続けるマニラを中心としたタガログ人の言葉。戦後、タガログ語をベースにしたフィリピンの共通語が形成されてきた・・・が、フィリピン国内の国語政策の不統一を、<国語戦争>と書いていました。

*私が、初めて外国へ行ったのは、米国領<グアム=Guam島>です。1968年11月です。グアム島のアンダーソン米軍基地から、B52爆撃機が北ベトナムを空爆していた、そのグアム島です。その年の春、東京―グアムの直行便が始まりました。今は懐かしいパン・アメリカン航空です。それまでは、ハワイ経由だったのです。往復5万円。月給が3万円くらいの私でも行けそうな外国でした。ベトナム反戦ギターの気持ちを持っていったのです。

*観光ガイドブックもなし、余分なお金もなし、お土産屋もなし。グアム島らしい買い物は、アメリカ風なスーパーマケットで買った一冊の本だけです。ツーリスト・ガイド・ブックとなっていますが、現地語(チャモロ=chamorro)と英語の変換会話帳なのです。


秋の宮島・大鳥居の向こうに見える奇怪な建造物、私には景観問題(2009.10.4)

2009-10-04 09:28:57 | Weblog

*大鳥居の向こう、対岸に<めざわりな>建物。わざわざ窓枠をいれた息子の写真、現代を切り取る作品です。現代建築では、大鳥居をはるかにしのぐ高さの<後世に名を残す>建物を作ることは容易でしょう。宗教施設か?、ラブ・ホテルか?、まさか公共(県)の施設ではないでしょう。しかし、広告効果満点の場所です。

 9月のシルバー・ウィーク(老人週間?)という名の連休に、息子が中国地方を旅してきました。中国でなく中国地方です。広島から山陰をまわってきたのです。

 いつものように帰ってきたデジカメの写真を見ました。最初は、いいお天気にめぐまれた秋・安芸の宮島・大鳥居の写真が出てきました。

*船が宮島に接近、大鳥居が見えてきます。

*その昔と同じ大鳥居です。

 そして突然、いやな風景になりました。
 大鳥居の真後ろ、海の向こう、対岸に奇怪な建造物が写っていたのです。
 嫌だなと思っても、そのことを聞いてくれる人はいません。

 岡山県育ちの、私の小学校の卒業旅行は、広島(市)・宮島の1泊2日でした。それから高校(広島県)時代に一度行っていっていますから、計2度です。いわば50年前の<思い出の地>です。

 50年もたてば、現代に向かっての50年ですし、すべてのことが、すっかり変わってしまいます。どこにでも、ビルがドンドン建ちます。開発、発展というものかもしれません。

 しかし、です。国民!?の遺産、宮島・厳島神社の大鳥居の向こう側に、巨大建造物を建てなくても、いいじゃないか、と思うのです。
 私の思い出がだいなしでなく、みんなの景観だいなし、です。

  ・ ・・・といった話を聞いたこともありません。話題にもならなかったのでしょうか。
 むろん、建物の名前も、目的も、建築年代も知りません。この頃、景観に関心が集まっているように思うのに、何ら問題にならなかったのでしょうか。
 今、 私の住む春日部市にでさえ、春日部市景観保護条例(だったかな)ができそうです。

   【おまけ】

*朝日新聞2009年10月1日付夕刊。

* 先日(10月1日)、瀬戸内海の景勝地・鞆の浦(広島県)の埋め立て計画を認めないとする判決が広島地裁でありました。ほんとに良かったと思いました。

* 鞆の浦は、中学校を終える春休みに友人たちと<自転車で>お別れ遠足した、<青い思い出の地>でもあります。海なし県に長く住んでいると、海を見ると、<海だ>と声を上げたくなるのです。

* もっと近くの笠岡(山陽線笠岡駅前)の海は、埋め立てられました。向かいの島は陸続きになりました。海を埋めてコンビナートを作るという1950,60年代の動きの中のことでした。海を埋め、山を削り、日本は発展してきたのでしょうが。

* このブログ、毎度おなじみ、旅の名物<おみやげ>紹介写真は、時期を逸してしまいました。


埼玉県越谷市・春日部市ローカル、市長選挙やジャズのイベント情報(2009.10.3)

2009-10-03 10:01:43 | Weblog

*越谷市長選関連イベント情報

  このブログは、そもそも、ご近所情報を知らせることをめざして始めたのです。
  今日は、この週末、10月3日(土)、4日(日)のイベントなど情報です。

  この所、隣の越谷市に出かけることもよくあるようになりました。まず先日、手渡されたチラシの情報です。

  越谷市長選挙は、10月25日(日)が投票日です。
① 公開討論会(2009年越谷市長選に伴うローカル・マニュフェスト型) 
       10月3日(土)19時開会
       サンシティ・越谷市民ホール(小ホール)
      主催;(社)越谷青年会議所

  ② 選挙に行こう<投票率UP大作戦>セール
* 選挙の投票にいくと、協賛店(チラシには23店)の割引が受けられるというのです。たい焼き50円引き、たこ焼き・焼きそば100円引き・・・などなど。おもしろいなと思いました。<投票場で、【投票済書】をもらってお店に持っていく>のです。

   春日部市でも市長選挙があります。10月18日(日)が投票日です。
  春日部市でも、立候補予定者の公開討論会がないか、と旧春日部市の<行きつけ!>のいくつかのチラシ・ボックスを見たのですがないのです。
  しかし公開討論会はあるのです。あっと驚く所で、広報されていました。

 10月1日号の市役所で出している<広報かすかべ>にありました。
 (私は、団地内広報配達人ですから、9月30日に見ましたが、多くの市民には間に合わない?)

*春日部市長選関連イベント情報

③ 春日部市長選挙・立候補予定者公開討論会 
   10月4日(日)午後5時開場、6時開演
   春日部市民文化会館大ホール
   入場料;無料
   問い合わせ;(社)春日部青年会議所

* 市民サークルの発表会や募集案内と同列の<みんなの伝言板>です。トップ扱いにはなっていますが、正直こんな所か、と思いました。市の広報誌で大きく扱うことは、問題多いのでしょう。市の広報誌に、<今月は、市長選挙があります>の記事があってもいいのじゃあないかと思ったのです。

*このお知らせページは、市民には敷居が高く無理としても、大した広告料でもないし、せめて右下の広告欄に、載せてほしかった。今月は、空きスペースもあったし。

  むろん朝日新聞には、直前の昨日(10月2日)付ですが、埼玉東部面に掲載されています。

   【おまけ】

*行きがかり上、【おまけ】ですが、こっちのジャズ情報が<ここでは本命情報?>です。3日(土)越谷市、4日(日)春日部市での<ビッグバンド・ジャズ・コンサート>のお知らせです。

*③環境講演会、10月3日(土)、越谷中央公民館(左)、エココンサートだって?楽しみです。

*④10月4日(日)は、主催;越ヶ谷高校同窓会のイベント<白梅祭>;春日部市民文化会館です。入場無料、誰でも入場できるようです。

*いずれも知人たちの、越谷市を本拠とする<オール・スウィング・ジャズ・オーケストラ>さんが出演します。

*その知人から聞いていたのですが、まち中に貼ってあるポスターから、誰でも参加でき、入場無料と知ったのでお知らせします。見事な演奏が期待できます。

 


金曜日の新聞折込・東武朝日新聞がなくなったので地域情報不足です(2009.10.2)

2009-10-02 18:52:23 | Weblog

*9月に休刊した東武朝日新聞(2009年9月11日号)

  明日は土曜日、新聞折込がドサッと入ります。今日は金曜日で少なめですが、東武朝日新聞が楽しみであります。正確には、第2、第4金曜日の朝日新聞の折込です。

  もっと正確にいえば、今、休刊中です。
 <準備が整ったら、装い新たに、再登場します>と、この間、2009年9月11日号の最終面に社告がでました。

  東武伊勢崎線沿線に配られるこの新聞・東武朝日のファンとして、読者や地域が、何か応援できないかと思っているのです。

*一時お休みを知らせる社告

 通勤往復3時間の東京での現役を退いて、だんだんと国際情報!より地域情報を求めるようになりました。一歩もウチを出ない日々解消に、東武朝日新聞の記事をより所にするのです。

 東武朝日は、文化の香りのする、暖かい新聞でした。
 地域、ご近所に住む、ちょっと知りたい達人さん、見逃してしまう歴史を丁寧に紹介してくれました。すわってゆっくり読ませました。浦和レッズの記事もそうです。単にイベント情報をみるだけでも、主催者の思いを感じ取れる記事だったように思うのです。

 先日、知人とこんな話をしました。
 <東京まで出れば、全国レベル、いや世界レベルの美術・音楽・スポーツ、いくらでもある。どんなに感動したイベントであっても、1時間半、電車に揺られると半分は消えてしまうよ、だから、この地域に文化がほしいと思う>と。
 長く、春日部おやこ劇場をやっている知人は、<子どもたちには、東京はないんですよ、ここしかないんですよ>と応えてくれました。

 地域で、文化活動をやっている人たちの熱意はすばらしいと感じます。
 イベント情報欄を越えて、その熱意が伝わる記事のある東武朝日新聞に刺激されてきたのです。文化イベントだけの話でなく、地域で、いわゆる市民活動をやっている人たちの気持ちもそうです。ひとりでも多くの人たちに知ってもらいたいのです。
 そこに、大きな役割りを果たしてきた東武朝日新聞というメディアが、今、お休み中なのです。

 私は読者であり、時にイベント記事掲載希望者でもあります。
 休刊前号は、驚きました。イベント欄が大きく拡げてあったのです。おそらく東武朝日というメディアに掲載を期待して、情報・原稿を送った人たちの、希望を少しでも叶えるために、集まっていたイベント情報を残さず、突っ込んで下さったのでしょう。
 編集者(A)さん、(K)さん、(U)さんのこういう気持ちがわかるのです、わけもなく嬉しいのです。

 ほんとうは、中央・東京の不況の影響もあるのでしょう。新聞を維持していくのは大変なのでしょう。そうであっても、地域の気持ちは変わりません。

 私らの住む地域に、このメディアは欠かせないのです。
 ただただ復刊を待ちますが、読者や地域で、何か応援できたらいいのですが。


学童保育、放課後学級、少子化問題、日本一子育てしやすい、と連想ゲーム(2009.10.1)

2009-10-01 13:59:55 | Weblog

*1週間ほど前、午後の授業は、保護者と一緒の授業でした。皆、若いママでしたが、**くんちは、ジジでした。午後3時に、こういう風に、みんなで集まって、先生が校門から送り出します。何せ1年生ですから。

  学童保育と放課後学級(放課後教室)の違いを知らなかったのです。市町村によって呼び名が違うのだろう程度と思っていたのです。

  この(2009年)春ごろから、私の住む市の教育委員会が、放課後の子どもたちに、何か教えるだったか、面倒をみるだったかが、できる暇なヒト(老人かな)を募集していました。
  ちょうどその時期に、隣の市に住む娘の子=孫が保育園を終え小学校に入学し、放課後の<ひとり対策>に悩んでいる時でした。つまり、ちょっと事情があって、<学童保育>に入れない、待機児童だったのです。仕事は続けなければならない、放課後に一年生の子どもの<ひとり鍵っ子>をどうしようか、というわけだったのです。

  たまたまその時期、私の地域の学校で、地域住民と学校の話し合いの席にでることがあって、ウチのことを話し、<この小学校では、待機児童は何人ぐらいいますか?>と聞いてしまったのです。校長先生も教頭先生も誰からも、返事がもらえませんでした。
  会議後、知り合いのお母さんが、<小学校とは関係ない話だよ>と注意してくれたのです。

 片一方は福祉の話、市役所の福祉担当部門の所管、もう一つは、教育委員会、学校が所管だったのです。
 私は知らなかったのですが、そういっても、どっちも小学校児童の放課後の話なんだけどなあ、と思いましたが、そのブツブツを飲み込みました。

 それで、隣の市に住む私の娘は、私=ジジ、とババにSOS発信をしてきました。
 <ラージャ、了解>です。
 平日の5日間をジジ・ババの空いている方が分担して、<通いの学童保育>です。

 小学校は、3時に終わります。アパートに帰り着くのは、3時15分頃です。私のウチから車で30分弱、間に合うように出かけます。
  私の孫ですから、いい子!!です。ランドセルを放り投げて、エレクトーンの練習をちょこっとやって、宿題か、公文のプリントか、少しがんばって、遊びに行ってきます。学校の帰り道に遊びに行くウチを相談しているようです。その間30分、もうウチにいません。誰の所?と聞くことだけが、私の役割り、全く手がかかりません。


  私は、持参した本を静かに読むか、昼寝です。

  5時ごろ、娘が下の孫を保育園から引き取って、帰ってきます。
  それからすぐに、私は家に戻ります。
  ジジには、何ら負担はないのですが、娘は随分、恐縮しているようです。

  近くに親が住んでいなくて、働かなければならない<若いママ>は、どうしているんでしょうね。

*待ちに待った<お知らせ>です。

 今日10月1日から、半年待って、めでたく<学童保育>に入れることになったのです。ジジの役割り終了です。

     【おまけ】

*少子化、少子化対策といっても、働く女性が安心して、こどもを生み育てられる社会は、まだまだなんだろうな。ほんとに実感したのです。

 *わが町、春日部市は、<日本一子育てがしやすいまち>です。お困りの方は、春日部市に移住しましょう。

*今日(10月1日)に配られた<広報かすかべ10月号(13ページ)>によると、<放課後児童健全育成事業(保育課)>にこう書いてあります。

*平成20年度取り組み実績<個所数;22ヵ所、定員:1710人、入所児童数;1216人>。この数字を並べただけでは、十分なのか不十分なのか、<子育てがしやすいのか>よくわかりません。待機児童はいるのですか?いないのですか?

   【おまけのおまけ】

* 私が娘に質問しました。<教育委員会の放課後学級でなく、保育課の学童保育が必要ということだね>。娘の回答は、<学童保育は小学校3年生まで、だけだから・・・>。私、<ああ、そいうことか>。

   【10月3日に追加】

*保育課所管の<学童保育>は、春日部市では<放課後児童クラブ>と呼ぶのだそうです。ややこしい、ですね。

   【10月6日追加】

*春日部市の場合
放課後児童クラブ;福祉健康部保育課(民間委託で春日部市社会福祉協議会)
・放課後子ども教室;教育委員会社会教育課青少年教育担当


ウッドストック1969は、ジミヘン“米国国歌”とバエズ“勝利をわれらに”(2009.9.30)

2009-09-30 17:13:49 | Weblog

*朝日新聞2009年9月27日日曜版、見出しは<反戦ではなかったのか>です。

 今年は2009年だから、私らの青春ど真ん中の1969年から40年です。
 その年、アメリカであったことは全部40周年です。
 だから、ウッドストック・ミュージック・フェスティバルも40周年。あるに違いない40周年イベントには行こうと思っていたけど、行けなかったと、つい先日、このブログに書きました。

 この間(9月27日)の朝日新聞日曜版に、でっかくウッドストック1969&2009の原稿が載っていました。
 朝日の2面をつぶす原稿にしては、ちょっと軽いなあ。この記事を読んだ私ら世代、あるいは、ロック評論家さんは思ったでしょう。筆者の田中光記者はわざわざ1969年生まれと書いています。その時0歳だったなら、しょうがないでしょう。

 そこで、1969年に、ギターが質屋を出たり入ったりしていた、ごくごく普通の若者(私!のこと)にとっての、ウッドストック1969を書いておきます。

 1960年代の初め、アメリカはプロテスト・フォーク(反戦フォークでも社会派フォークでもまあいいでしょう)の時代。日本には、3~5年遅れぐらいで、その風が吹いていました。そしてアメリカでは、1965年あたりから急速にエレキ・ギターのロックに移り、若者が社会問題・時事問題を歌うことが流行らなくなりました。たぶん、そうでしょう。

 アメリカからちょっと遅れる1969年の日本は、まだまだフォークの余韻がしっかり残っていたでしょう。そんな中 1969年8月、ウッドストックでのミュージック・フェスティバルが、30万人の観客を集め開かれたのです。
 中村とうようさんのニュー・ミュージック・マガジンは、3,4ヶ月遅れで記事にしていました。 そうして、実況録音盤のLPレコードが出ます。それから、記録映画ウッドストックが日本でも上映され、そのすごさが日本人にも明らかになったのです。

*発売されたLPレコード(左;まず3枚組み、右;それから続編2枚組み)

*映画ウッドストック・パンフレットの表紙

 私が、この映画が観たのは、札幌で暮らしていた時だから1970年の秋ではなかったかな、と思います。その時、なお社会派フォークの余韻を引きずっていた私は、ジョーン・バエズやアーロ・ガスリーのステージをスクリーンに観たかもしれませんが、映画には、ステージの演奏より、とにかく観客の多さ、自由奔放さのすごさに圧倒されていました。

 そして、その余韻の中に、映画のラスト近くで、ジミー・ヘンドリックスたった独り<アメリカ国歌・星条旗よ永遠なれ>弾くの夜明けの光景にジーンと来てしまったのです。 他のミュージシャンの演奏の記憶は、完全に消えてしまったのです。
 ベトナム戦争反対なんて・・・全然なし、これが<アメリカの若者の今>なんだと思ったのです。

 そうして、日本で、だんだんウッドストックの解説記事がでます。
 ボブ・ディランのバックバンドからスタートして、カントリー・ロックで私を夢中にさせていた“ザ・バンド”も出ていたのです。その頃、3、4年遅れで、初めて知った、ジャニス・ジョプリンもそこに出ていたのです。レコードにも映画にもでてきません。マネージャー(プロダクション)との関係もあったらしい、のです。

*映画パンフレットの中のジョーン・バエズのページ

 ウッドストックの研究者やマニアが雑誌に、その全ての出演者・演奏曲を発表します。 99年の30周年の時には、レコード・コレクター誌99年10月号が、全リストを載せました。同時に、レコード会社や映画会社は、残りの映像・音を新しく売り出します。 私は、せっせと買いました。金銭的にピンチに陥るほどでした。

 ジョーン・バエズが、5曲歌っていることを知ります。
 その中には、We shall overcome(勝利をわれらに)も歌っているのです。そこ、ウッドストックで、歌っているのです。
 We shall overcome(勝利をわれらに)は、社会派フォーク<一番の曲>です。1960年代後半、私も何度も、<大阪の>集会で歌っていました。

 もし、ウッドストックの映画の中で流れれば、気分はシンクロして、涙ボロボロだったでしょう。

 日本のロック評論世界、例えば、ニューミュージック・マガジンなんかは、ジョーン・バエズを扱う時は、もうボロクソに書きはじめていた時代でした。

 私は、まだまだジョーン・バエズに未練を残していました。
 ベトナム、カンボジアから、その後も持続させていくジョーン・バエズの良心・志にひかれていました。むろん、2001年9月11日から、今もなお、志は変わりません。

 そのウッドストックでのWe shall overcome(勝利をわれらに)は、LP,CDに登場しませんが、一度だけ、ビデオになって売り出されました。
  しかし、他のCDなどで買いすぎて、ピンチで買いそびれてしまったのです。今でもその映像をみたことがないのです。

   【おまけ】

*左;ニュー・ミュージック・マガジン(70年1月号)、右;ジョーンバエズのシングル盤

*ウッドストック・ミュージック・フェスティバルと書きましたが、正確には、3days  of  Peace & Music(平和と音楽の3日間)がタイトル。会場もウッドストック近郊のベセルにある農場です。

*映画ウッドストック、後に、ビデオを買い、後に、DVDを買いましたが、いずれも見ていません。映画館のスクリーンしか、感動(?)の再現はできないでしょう。

*ウッドストックで熱狂のステージを持ったジミー・ヘンドリックスも、ジャニス・ジョプリンも、翌1970年に死んでしまいます。


少しいわくつき、頼まれ・頼み、雑草地で畑作業を始めるつもり(2009.9.27)

2009-09-27 11:59:04 | Weblog

*夏草におおわれたトモちゃんちの畑です。

 長い間、私のウチに大根を持ってきて下さっていたご近所さんがいます。
 そのご近所さん、昨(2008)年暮れに倒れて、今クルマ椅子。そして娘さんが帰ってきて介護な日々なのです。

 大根?畑の話になって、<それどころじゃあないな>と感じ、それでも<オヤジさんの畑なので続けたい>とも感じ、<手伝うよ>と言ってしまったのです。

 畑は、ウチら新興住宅民に、旧お百姓さん住民が菜園用地を提供しているものです。ウチから徒歩3分。
 子ども時代を田畑の中ですごしていた私は、畑やること自体はなんともないのですが、農業=日々の根気、に課題があって、<ご近所から届けてもらう派>だったのです。

 娘さん=トモちゃんと畑に行きました。ひと夏、手をいれずにいた結果は、見事な雑草地になっていました。 <1ヶ月かけて刈って、11月には、冬野菜を植えられるようにしようと言ってはみたのですが、こりゃ大変だ・・・>。

 私は生来、<ヒトに頼むぐらいなら自分でやる、いや自分でできることは自分でやる>主義です。やたら、ヒトにやらす、ヒトにフルえらそうなヒトは好きではないのです。

 ところが、トシのせいか、出来ないことを自分でやろうと頑張らなくなったのです。あきらめがはやいというか、<こなせるヒトに頼む>ようになったのです。
 自分の進歩はもう望めません。それは、もういいのです。

 同じ団地の中に、大き目の敷地に野菜を作っているオウチがあります。そのAさんは草刈り機を使って、よく空き地の草刈りサービスをされています。
 それで、草刈り機を貸してもらおう、と頼んだのです。

*左;どこかの畑、右;ウチラの畑

 そうして、昨日(26日)なんとオペレーター付で借りたのです。
 ちょっと教えてもらって、自分でやるつもりもあったのですが、<やってみます>とついに言い出せず、とりあえず草刈りは終わりました。

 さあ、これからです。耕して、雑草を根こそぎ抜いて、それから畑づくりです。
 草刈りをやって下さったご近所Aさんが、<雑草の種がいっぱい落ちてるから・・・ね>と。来春からは雑草との格闘の日々です。

 農家の嫁ほどいいものはない、と言ってのけた農家の嫁さんも知人です。畑の応援者は何人もいるように思います。

*雑草もこうしてみればきれいです。

 決して応援者にはならないに違いない家人も様子を見に来ました。野草というか雑草を持ち帰っていきました。

 【おまけ】

*昨日の畑の収穫は、ミニトマトです。雑草の下から出てきました。半分ほどわが家に。皮がやや硬いですが甘く美味しい。

 *トモちゃんがお礼に、(正確には、前の日のことで、逆ですが)、わが好物の豆カレーを持ってきてくれました。レンズ豆です。東京にいる時には、インド人カレー屋さんでアルバイトをしていたほどのインド・カレー好きです。春日部の藤塚橋近くのインドカレー屋さんに一緒にいったら、その後もひとりで出かけたと言っていました。