「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「極刑を」  32万人署名 -- 償いの意味 (1)

2009年06月11日 21時08分37秒 | 死刑制度と癒し
 
 読売新聞の連載 「死刑」 の 第4部が始まりました。

 今回の特集は  「償いの意味」 というテーマです。

 海外の実情も報告しながら、 死刑の意味を考えるということです。

 引き続き 紹介していきたいと思います。

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 「 愛知・ 闇サイト事件 」で

 一人娘を失った 磯谷 (いそがい) 富美子さん (57) は、

 この日届いた 3万5000人分の 署名を受け取りました。

 加害者3人の 死刑を求める署名です。

 2007年8月、 娘の利恵さん (当時31才) は

 帰宅中に 車で連れ去られ、

 ハンマーで殴打されたうえ ロープで絞殺されました。

 3人の男は 闇サイトで知り合い、 金目当てで、

 通りがかりの利恵さんを 襲ったのです。

 磯谷さんはHPで、 死刑を求める 署名活動を始めました。

 目標は3万人でしたが、 2ヶ月で20万人を超え、

 今年3月の判決公判までに 32万人に達しました。

< 「 誰でもよかった 」という言葉は ショックでした。

 ひょっとしたら 自分が殺されていたかもしれない >

< 大学生の娘を 育てております。

 娘が毎日 帰宅するまで、 気がかりでなりません >

 ネットを通じた犯罪者集団が、 見ず知らずの市民を 殺害した犯行に対する、

 切迫した不安感が にじんでいます。

 名古屋地裁は 極刑を選択した理由を こう述べました。

「 この主の犯罪は 凶悪化・ 巧妙化しやすく、 模倣される恐れも高い。

 社会の安全にとって 脅威というほかなく、

 厳罰をもって臨む必要性が 誠に高い 」

(次の記事に続く)

〔 読売新聞より 〕
 
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介護実習おわり

2009年06月09日 20時32分35秒 | 介護帳
 
 今日、 訪問介護に同行する 実習に行ってきました。

 人のお宅に 伺うのは初めてで 不安がありましたが、

 スタッフの懇切な指導と 利用者の理解で、 無事に終えることができました。

 訪問は 自転車で行きますが、

 自転車を盗まれて以来 20年近く乗っていませんでした。

 最初に “試し乗り” をしてみましたが、 全く問題なく乗れました。  (^^;)

( この時、 「全然大丈夫ですね」 と言ってしまった 自分が悲しい。 (- -;) )

 訪問介護は 身体介護と生活援助に 分けられます

 前者は 食事, 排泄, 入浴などの介助で、

 後者は 調理, 買い物, 洗濯, 掃除などです。

 今日は 2軒のお宅に伺い、 両方とも調理の手伝いでした。

 身体介護は、 実習生を受け入れてくれる 利用者の人が

 余りいないという 事情もあるようです。

 ただし 1軒目の方は、 医療上の食事制限があるため 特別食で、

 これは 「身体介護」 に当たるそうです。

 普段、 一応 簡単な自炊はしていますが、

 冷蔵庫の材料で 味噌汁を作ってくれと 言われたときは戸惑いました。

 自分のものなら 作れますが、

 いきなり 適当に見つくろって 作れと言われても。  (^^;)

 でも 好き嫌いは一切ない人で、

 普通に作ればいい ということで、 まあ 何とかやってきました。

 タマネギの切り口に ティッシュを当てて 保存されていて、

 ラップでなくていいのかと 思いましたが、

 それぞれのお宅の やり方があるので それを尊重して 従うということです。

 テキストで読んでいたことを うっかり忘れていました。 σ (^^;)

 講座の訪問同行の ノルマは2軒なのですが、

 待ち時間もなく 効率よく回れたため 午前中で終わってしまい、

 予定より相当早く 帰って来ました。

 これで 全ての過程が終わり、

 来週の終了式で ヘルパー2級の資格がもらえます。

 僕は施設での仕事を 希望していますが、

 訪問介護は 長く続けていると 人間関係も深くなると聞き、

 訪問の魅力も 感じました。

 逆に 施設でのスタッフ同士の 人間関係が難しいとか、

 施設では 利用者との関わりが 薄くなるとか、

 人によって 向き不向きや好き嫌いが あるのでしょうね。

 とにかく いよいよ介護の仕事 (バイト) に 就くことになります。

 うまくいくでしょうか。
 
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陪審員12人、 議論21時間 -- 選択の重さ (9)

2009年06月07日 11時22分09秒 | 死刑制度と癒し
 
 米国の陪審制では 量刑は裁判官が決めますが、

 死刑が求刑された 事件だけは、 陪審員が刑を決める 州が多く、

 死刑の判断を 市民に委ねています。

 昨年2月6日、 米サウスカロライナ州の評議室、

 12人の陪審員たちの 採決は大きく割れました。

 被告の男は2006年に 妻を銃殺した罪で 起訴され、

 無罪を主張しましたが、 陪審員は有罪と判断。

 何度か採決を 重ねた末、

 10人が死刑、 残る2人は 終身刑を支持しました。

 午後6時半、 評議初日が終わりました。

 2月7日、 評議2日目。

「 死刑より終身刑で、 一生罪を償わせるべきよ 」

 元刑務所職員の 60歳代の女性が言いました。

「 終身刑にしたら、 この被告は反省することもなく、

 雑居房で 無罪だと言い続けるだろう 」 と 別の陪審員が反論します。

 女性はほどなく、 終身刑から 死刑支持に回りました。

 終身刑を主張するのは、 40歳代の黒人男性 一人になりました。

 男性は 死刑の刑罰そのものを 否定して譲りません。

 2月8日、 評議3日目。

「 そもそも死刑制度に反対なら、 この事件の陪審員に なる資格はない 」

 黒人男性は、 「 皆がそれほど強く 死刑を主張するなら、

 やむを得ない 」 とつぶやきました。

 3日間で 計21時間に及んだ 評議は終わり、

 全員一致で 死刑の結論になったのです。



 日本の裁判官は、 過去の量刑例を 緻密に比較しながら、

 極刑を選択するかどうか 判断してきました。

 しかし 東京高裁の裁判長を務めた 村上光鵄 (こうし) 氏 (69) は、

 死刑に関して 職業裁判官が培ってきた感覚と、

 一般社会の処罰感情の間に 差が生じているような 気がしてなりません。

「 自分たちの結論は、 国民が考える刑より 軽いのか 」

 5月から 裁判員制度が始まりました。

 国民が選択の重みを、 裁判官とともに 噛みしめる日が来たのです。

〔 読売新聞より 〕
 
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被告の人生 変えた責任 -- 選択の重さ (8)

2009年06月06日 21時20分56秒 | 死刑制度と癒し
 
 熊本県で 87年に起きた、

 大学生誘拐殺人事件の 田本竜也被告 (当時21才)。

 小学校の同級生の男子学生を 山中に誘い出し殺害、 身代金を要求しました。

 荒木勝己氏 (81) は 熊本地裁の裁判長として、 一審を担当しました。

 被告は 反省の言葉を口にし、 写経をして 被害者の冥福を祈っています。

 荒木裁判長は 「 無期懲役でいいのでは 」と 何度も考えました。

 身代金目的の誘拐殺人を 重く見て 極刑を選択しましたが、

 言い渡し後、 「 更生の可能性は あったかもしれない 」と

 気にかかっていたのです。

 息をのむような気持ちで待った 控訴審の結果は、 一審と同じ死刑。

 ほっとする反面、

 「 死刑を回避することはできなかったか 」 と やるせなさも感じました。



 79年12月、 「 松山事件 」で 死刑が確定していた

 斎藤幸夫さんの 再審開始が決まりました。

 「 誤判ということになれば、 自分はこれから、

 どのように 身を処していけばいいのだろうか 」

 萩原金美氏 (77) は26歳の時、

 仙台地裁の陪席裁判官として、 斎藤さんの死刑判決を 出していました。

 被告が使ったとされる 布団の血痕の 鑑定が焦点となり、

 結果は 血液型は被害者と一致。

 「 本当に大丈夫だったのか 」

 萩原氏は 事件の記憶が 不意によみがえるたびに、

 鑑定結果を 自分に言い聞かせました。

 そして84年、 再審判決は 無罪を言い渡したのです。

「 一人の人生を 大きく変えてしまった責任を どうとればいいのか 」

 萩原氏は 誤判にかかわった元裁判官として、 新聞社に寄稿しました。

 その後も萩原氏は 自身の体験を講演し、

 論文で 自らの誤判に触れ、 事実認定の難しさを 訴えています。

〔 読売新聞より 〕
 
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三審、 それぞれの苦悩 -- 選択の重さ (7)

2009年06月05日 21時57分06秒 | 死刑制度と癒し
 
 91年、 広島地裁の田川雄三裁判長 (74) は、

 「 明日の判決は、 最後まで自分で読み上げたい 」 と語りました。

 喉頭がんを患い、 結審後に入院。

 明日の判決言い渡しが 終われば、 また病院に戻ります。

 初公判から被告と相対してきた 自分が言い渡すことが、

 被告に判決を 納得させることにつながると 信じたのです。

 飲食店経営者ら 一家3人を殺害した 禹 (う) 起宗被告に、

 田川裁判長は 判決理由から朗読を始めました。

 最後に  「被告人を死刑に処する」 と 主文を告げた後、 語りかけました。

「 控訴できますから、 弁護人とよく相談しなさい 」



 名古屋市内で 姉妹が拉致され、

 ドラム缶の中で 生きたまま焼き殺された事件。

 名古屋高裁の川原誠裁判長 (68) は、

「 『事実認定は高裁が最終審』 という 責任を持たなくてはならない 」

 と肝に銘じてきました。

 犯人グループは6人。

 川原裁判長は 主犯格の野村哲也, 準主犯格の川村幸也両被告に、

 一審と同じ 死刑判決を言い渡しました。



 04年秋、 最高裁の滝井繁男判事 (72) は、

 持田孝被告の上告を棄却する 判決文に署名しながら、

 背筋が伸びる思いがしました。

「 もう後戻りできない。

 これで本当に 死刑が確定する 」

 婦女暴行事件の被害者が 警察に届けたことを恨み、

 出所後に 被害者を刺殺した事件。

 一審は無期懲役、 二審は死刑でした。

「 死刑以外の選択肢はないのか 」と 考え始めると、

 いくら時間があっても 足りません。

「 被告はこれ以上、 上訴できない。

 われわれには 最終審としての苦しさがあった 」



 病が癒えて 退官した田川氏は 明かしました。

「 あの時、 控訴の手続きを説明したのは、

 高裁の判断を仰いでほしいと 本気で思ったからです。

 審理を尽くしたという 自信はあった。

 それでも、 自分たちの判断だけで

 被告の命が 絶たれてしまうというのは、 あまりに重圧が大きかった 」

〔 読売新聞より 〕
 
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極刑抑制の流れ 変わる -- 選択の重さ (6)

2009年06月04日 22時01分05秒 | 死刑制度と癒し
 
 97~98年、 検察は5つの事件で、

 無期懲役の判決を量刑不当として 異例の連続上告を行ないました。

 83年に 永山基準で示された 9つの判断基準のうち、

 「被害者の数」 を 特に重く捉える傾向が、 当時の下級審にありましたが、

 検察はそれに 一石を投じようとしたのです。

 92年に起きた 主婦殺害事件もそのひとつです。

 岡敏明被告 (52) は、 主婦を強姦したうえ 千枚通しや牛刀で刺殺。

 10歳と6歳の姉弟が、 血の海に倒れている 母親を最初に発見しました。

 一審 東京地裁の判決は死刑。

 けれども 二審の東京高裁は、 永山基準を根拠に 無期懲役に減刑しました。

 上告を受けた最高裁は 合議を重ね、 上告を棄却します。

 ただし判決には、 「 殺害された被害者が1人でも、

 極刑がやむを得ない場合が あることはいうまでもない 」

 という文言が 盛り込まれました。



 検察が連続上告した もうひとつの事件があります。

 強盗殺人罪で 無期懲役の判決を受け、

 仮釈放中だった 西山省三被告 (56) が、

 一人暮らしの女性を殺害し、 現金を奪った事件。

 一審, 二審とも 無期懲役でした。

 合議に当たった 最高裁のある判事は、 こう明かします。

「 無期懲役を破棄するのは、 断崖絶壁を跳び越えるようなもの。

 判断に悩む、 本当にしんどい事件だった 」

 けれども 被告の反社会性は軽視できず、

 99年最高裁は 高裁に差し戻して、

 07年に 西山被告の死刑が確定しました。

 検察が連続上告した 事件のうち、

 結論が死刑に変わったのは この事件だけでした。

 しかしこれ以降、 極刑に慎重な流れが 変わります。

 永山基準以後、 死刑判決は 年間4~15人。

 2000年以降は 8年連続で20人を超えています。

〔 読売新聞より 〕
 
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「永山基準」 最高裁の答え -- 選択の重さ (5)

2009年06月03日 20時57分55秒 | 死刑制度と癒し
 
 1983年、 最高裁は 二審の無期懲役判決を破棄し、

 東京高裁に差し戻しました。

 被告の名は 永山則夫。

 19歳だった68年秋、 東京,京都などで 警備員や運転手ら 4人を射殺し、

 強盗殺人などの 罪に問われました。

 83年7月の最高裁判決は、

 のちに 「永山基準」 と呼ばれる、 死刑適用の基準を示します。

 犯行の罪質, 動機, 殺害方法, 被害者の数, 遺族感情,

 社会的影響, 被告の年齢, 前科, 犯行後の情状。

 これらを総合的に考慮し、 やむを得ない場合は、 死刑の選択も許される。

 (死刑適用は) いかなる裁判所でも 死刑を選択したであろう程度の、

 情状がある時に 限られるべきだと。

 背景には、 死刑存廃論議の高まりがありました。

 イギリスやフランスで 死刑が廃止され、

 財田川事件, 免田事件, 松山事件で 再審が決定が出され、

 冤罪問題も クローズアップされていました。

 9項目のうち ことに重視されたのは、

 殺害方法の執拗性・ 残虐性と、 被害者の数だと言われます。

 そして 被害者が1人の場合、

 よほどの事情がなければ 死刑に出来ないという 傾向が生まれます。

 無学だった永山被告は、 拘置所で 哲学書を読むまでに成長し、

 獄中記 「無知の涙」 はベストセラーに。

 東京地裁の陪席裁判官は、

「 何度も 『極刑で 責任を取らせるべきなのか』 と悩んだ 」

 と振り返ります。

 それから14年後、 永山死刑囚の刑が 執行されました。

 奇しくも この年から、

 検察は 無期懲役とされた5つの事件で 上告を続けました。

 「 永山基準とは何か 」を 改めて問うことになります。

〔 読売新聞より 〕
 
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主文を後回し 「無期」 -- 選択の重さ (4)

2009年06月02日 20時12分15秒 | 死刑制度と癒し
 
 1995年1月、 鶴田小夜子検事 (57) は

 宮川豊被告 (54) に 死刑を求刑しました。

 三浦力裁判長 (74) は、 身の引き締まる思いがしたといいます。

 93年8月に起きた 甲府信用金庫OL誘拐殺人事件。

 借金に追われていた 宮川被告は、 雑誌記者を装って

 行員の内田友紀さん (当時19歳) を おびき出して殺害、

 信金に身代金を要求しました。

 事件は 全国的な注目を集めており、 三浦裁判長は

 「 死刑判決の方が 理解を得られるかもしれない 」とも 感じていました。

 しかし 宮川被告に前科はなく、 犯行前は 普通に勤務していました。

 自ら警察に出頭し、 犯行内容を 詳細に供述しています。

 無期懲役の判決文を 書き上げたのは、 判決公判の約1週間前でした。

 三浦裁判長は、 主文の言い渡しを 後回しにしました。

 「 冒頭で 『無期懲役に処する』 と告げると、

 被告は 死刑を逃れられたと思って ほっとしてしまい、

 判決理由をきちんと 聞いてくれないかもしれない。 」

 それは避けたかったのです。

 翌年4月、 東京高裁は無期懲役を維持。

 検察側は上告を断念して、 刑は確定しました。

 1審判決から14年。

 宮川受刑者は服役中ですが、 友紀さんの父親・ 邦彦さんは言います。

「 無期懲役は 仮釈放で社会に出てくる 可能性がある。

 それだけは絶対に許せない。 」

 鶴田検事は 遺族の思いに応えられなかった 無力感を忘れたことはありません。

「 被告が更生するかどうかは、 誰にもわからない。

 刑罰というのは、 被告がどんな犯行をしたかで 決めるべきではないか。 」

 退官した三浦裁判長は こう語ります。

「 少しでも被告に  『立ち直ってほしい』 という思いが伝われば

 と念じながら、 言い渡しを終えました。

 私は 法廷の力を信じています。 」

〔 読売新聞より 〕
 
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