蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「憲法第九条を守るためには、国連改革を何故言わぬ?」

2006-05-18 22:39:38 | 時事所感
 5月15日(月)晴れ、やや雲多し。暖。

 15日付けのブログ「世に倦む日日」“九条とEUと米軍―国民国家の主権制限と軍事力の一極集中”を読み出してびっくりした。そこに、ある読者からとして、私の、同ブログへのコメントの一部が、原文のまま引用、紹介されていたからだ。

 それは、5月8日アップの同ブログ“ネット企画としての5.3憲法ディー平和憲法のエバンジェリズム”を拝見して、護憲を金科玉条に叫ぶ方々のウン十年一日ごときあり方について、日ごろ、私が感じていた胡散臭さというか、展望のなさというか、歯がゆさというか、そのジリ貧的な無力さ加減について、実に見事にその病態が摘出されていて、思わずそうだ!と心の中で喝采し、一筆コメントを送られずにいられなかったからだ。
 そして、「護憲派は、国連改革と国連警察機能強化の方策をもっと積極的に提言せよというのが、この投稿者のご意見だった。全く同感である」と結ばれていた。

 このような高名なブログに、たまたま投じた自分の文章が取り上げられようなどとは、夢にも思ってみなかったので、正直嬉しかった。何よりも、私の拙い提案にご同意を得たことが、満更的外れでも無さそうなことに、いささかの自信が湧いた

 そこで改めて、わが国の今後の国連へのあり方について、一言提言してみたい。

 わが国は、皆様ご承知のとおり、国連分担金について、加盟国中、米国に次いで19.3%を負担している。謂わば、国連の大スポンサーというわけである。
にも、関らず戦後、独立後加盟を認められて半世紀近くになるというのに、未だに非常任理事国の扱いのまま、蚊帳の外に置かれた状況に放置されている。「金は出しても、口だすな」という、ひとを馬鹿にした扱いである。

  政府は、これではならじと、ようやく本気で常任理事国入りを目指すべく、先般の国連総会での立候補提案を始め、つい先ごろも、小泉首相が何を思ってか、ご近所の中国、韓国ではなく、見当違いのアフリカ諸国へ支持を求めに行った。(歴史好きな大宰相閣下が、古代中国の戦国策、遠交近攻策にならったのか?)

 しかし、日本は、一体、どんな理念をもって、常任理事国入りを目指すのか、今一つ定かではない。
  ただ、「こんなに沢山、金出しているんだから、俺にも好い席よこせよ」と言っても、それだけでは誰もどうぞとは言ってくれまい。

  そこで、今こそ世界各国に向けて、声を大にして持ち出せるのが、「日本国憲法前文の精神と第九条」ではないだろうか?。

  私は、この年になっていささかの時間の余裕もでき、ご近所の「九条の会」の熱心な勧誘もあり、改めて、昔、読みかじった、今はもう黄変してしまった「憲法Ⅰ」清宮四郎著(有斐閣法律学全集3)を取り出し、再読してみた。

  そのP.76に中ほど以降に
 『第一段の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、本文第二章第九条に規定するように、この憲法で、きわめて徹底した戦争の放棄・軍備の撤廃という、世界史上画期的なくわだてをあえてしたが、それは、単に国をあげての大戦争に敗れ、ポツダム宣言を受諾した結果、やむをえないものと認めたからではない。冷静に過去の行為を反省するとともに、国家・人類の将来進むべき道を考察してみた場合、そこにおのずから恒久平和の念願が湧きいで、また、人間相互の関係を支配する崇高な理想―友愛・協和―を深く自覚するにいたったからである。そうして、このような自覚と念願にもとづき、みずからさきがけて、非常な決意のもとに、あらゆる戦争を放棄し、いっさいの戦力を保持しないこととした。その結果、自国の安全と生存を諸外国民の公正と信義にゆだねることになるが、それは覚悟のうえである、というのである。この立言の背後には、おそらく、目前には国際連合による安全保障、遠い将来には世界連邦の構想があったであろう。…』

  また、同書P.77には、
 『第二段の「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」とは、世界各国とも、やがては、わが国とおなじように、平和主義と民主主義に専念するにいたるであろうことを信じて、すでに徹底的な平和国家となった日本は、そのような国際社会で、模範となるような、名誉ある地位を占めたいと希望しているというのである。…』

 『第三段の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とは、みずから、世界にさきがけて平和国家となるが、世界各国も同じように、戦争の恐怖と経済的欠乏からまぬかれて、平和のうちに生存する権利があるのだといい、平和国家の生存権を自他について確認し、主張するものであって、平和国の理念の普遍性を強調すると同時に、各国に対して、わが平和主義にならうことをすすめているのである。』

 とある。

  何と、立派な、高邁な誇るべき理念ではなかろうか?

  翻って、わが国は、これまで、これほど高邁なわが国の憲法のこの文言を、世界に向けてどれだけ発信してきただろうか?。
  否、むしろ、これまで第一次湾岸戦争時でも、武力出動を求められた際の、お断りの言い訳にごく控えめに、肩身の狭い思いをしながら、ぼそぼそと呟いてきたにすぎないのではなかったか?

  今こそ、わが国が、国連安全保障理事国を目指すのは、この理念を実現するためだと強く主張すべき絶好の好機ではないのか?

  しかし、理念の提示だけではどこの国も本気で相手にはしてくれまい。

  そのためには、この理念を実現し、実効あるものすべく国際警察軍の常備を併せて提案すべきではないだろうか。(以下、次回に続く。)


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