9月24日(金)曇り時々小雨、終日薄ら寒し。
菅総理大臣は、22日の午後、オバマ大統領に続いて、国連で「国連ミレニアム開発目標」への日本としての取り組みについて初の演説を行い「菅コミットメント」を発表した。
その中身は2011年からの五年間で保健分野に五十億ドル(約四千二百億円)、教育分野に三十五億ドル(約三千億円)の支援を行うとするもであった。
しかし、TVで映し出されたその演説会場を見て驚いた。オバマ大統領の演説の際には満席の会場が、終わって菅総理の番になるとまるで潮が引いたように会場の人影がチラホラといった感じになったことである。
財政危機に頭を悩ませ、国内に若い失業者が働きに行く場がなくてこれから先どうして生きていけばいいかというときに、なんで国民の血税から合わせれば、今後の為替変動如何では、五年間で一兆円近い援助をしましょうという、日本国総理大臣の初演説に、碌に耳を傾けようともしない途上国各国に、どうして援助していかなければならないのか?
我が日本国はどこまでお人よし国家なのか。
かって湾岸戦争の際にも同じ事があった。135億ドル(1兆3500億円)も拠出しておきながら、戦後、クエート政府が参戦協力国に対して決議した感謝状には、日本にの字もなかったではないか。
それでなくても、日本は国連で多い方からの2、3番目かの国連負担金を強いられながら、いつまでたっても常任理事国にも入れてもらえないのである。
なんとあほらしい計算のあわないことではないか。
日本は、世界中からいったいどこまで馬鹿にされたら目が覚めるというのだろか…。
我が国は、今やそんな金があるのなら、このへんで先ず憲法を改正し、自分の国は自分の手で守る国家として当たり前の覚悟を、全世界に示すことではないか。
そしてさらに、アメリカの核の傘から離れて、中国や北朝鮮同様、核保有国となるべきではないか。
自国民を飢えさせながらも、核爆弾何発かを保有するかのようにちらつかせて、極東アジアを、強大国家アメリカを振り回している小国北朝鮮。
この現実の姿を日夜見せ付けられれば、いかに現実の国際外交において核保有の有無が現実的な力となっているか、我々はこのへんでよくよく眼を覚まして直視するべきではないのか。
今、問題の尖閣諸島、竹島、北方領土、皆、その根っ子は同じではないか。要は日本が、一人前の独立国家と看做されず、アメリカの愛人国家ぐらいにしかみられていないからではないか。
男が本気で喧嘩すると覚悟を決めた時、懐にいざとなれば相手と刺し違える匕首の一振りも呑まずしてどうして、真っ当な理屈が通らない相手に立ち向かえるというのだろうか。
匕首を懐にすると言う事は、即、こちらが先に手をだすことではないのである。あくまでも不当な相手に対する時の覚悟のほどいかんということである。
ゆえに、懐に忍ばす匕首としての核を保有する事は、今や即それを使用することではないのである。
今の国際外交において、核保有は、その使用するとかしないとかの前に一つの方便としての必須の道具でしかないのではないか。核保有無くして外交を行う事は、金貨を持たずして貿易をしようということと同じとなっているのではないか。
私たちが本当に戦争は悲惨でやめたいとして、真に世界平和を願うならば、今や人類は国家というエゴ集団の概念を破棄し、世界政府の樹立を目指さない限り、未来永劫絶対に達成されることはないのではないか。
そのためには、我が国が率先して、国連の場(それが妥当かどうかの議論は当面置くとして)で世界政府の樹立にむけて主張するためには、絶対に現状のごとくアメリカの属国とみなされるようでは、何処の国からもまともに耳を傾け聴いてはもらえないのではないか。
我が国が、アメリカの核の傘を離れ、核保有国家となり国連の場に立ったときこそ、世界は初めて、一人前の独立国家として、その耳を貸さざるを得なくなるのでなかろうか。
ー追記ー
この記事を書いた後で、那覇地検が中国人船長を釈放した事を知った。案の定の成行きだった。
こんな事なら、最初から、どうせ当事者以外は知る由も無い海の上、はなから捕まえるなどせず、巡視船はぶつけられないように逃げ回っていればよかったではないかと嫌味の一つもいってみたくなるていたらくではないか。
中国のインターネットでは、「国は強くなければ、人民を守ることはできない」と早くも嘯いているとか。
現実はまさにそのとおりではないか。北朝鮮に拉致された平和憲法国家の日本人は、そのほとんどが未だに行方不明のままではないか。
国家の枠組みにしがみつく以上は、国家は少なくとも周辺隣国から舐められない程度には強くあらねばならないのではないか。
菅総理大臣は、22日の午後、オバマ大統領に続いて、国連で「国連ミレニアム開発目標」への日本としての取り組みについて初の演説を行い「菅コミットメント」を発表した。
その中身は2011年からの五年間で保健分野に五十億ドル(約四千二百億円)、教育分野に三十五億ドル(約三千億円)の支援を行うとするもであった。
しかし、TVで映し出されたその演説会場を見て驚いた。オバマ大統領の演説の際には満席の会場が、終わって菅総理の番になるとまるで潮が引いたように会場の人影がチラホラといった感じになったことである。
財政危機に頭を悩ませ、国内に若い失業者が働きに行く場がなくてこれから先どうして生きていけばいいかというときに、なんで国民の血税から合わせれば、今後の為替変動如何では、五年間で一兆円近い援助をしましょうという、日本国総理大臣の初演説に、碌に耳を傾けようともしない途上国各国に、どうして援助していかなければならないのか?
我が日本国はどこまでお人よし国家なのか。
かって湾岸戦争の際にも同じ事があった。135億ドル(1兆3500億円)も拠出しておきながら、戦後、クエート政府が参戦協力国に対して決議した感謝状には、日本にの字もなかったではないか。
それでなくても、日本は国連で多い方からの2、3番目かの国連負担金を強いられながら、いつまでたっても常任理事国にも入れてもらえないのである。
なんとあほらしい計算のあわないことではないか。
日本は、世界中からいったいどこまで馬鹿にされたら目が覚めるというのだろか…。
我が国は、今やそんな金があるのなら、このへんで先ず憲法を改正し、自分の国は自分の手で守る国家として当たり前の覚悟を、全世界に示すことではないか。
そしてさらに、アメリカの核の傘から離れて、中国や北朝鮮同様、核保有国となるべきではないか。
自国民を飢えさせながらも、核爆弾何発かを保有するかのようにちらつかせて、極東アジアを、強大国家アメリカを振り回している小国北朝鮮。
この現実の姿を日夜見せ付けられれば、いかに現実の国際外交において核保有の有無が現実的な力となっているか、我々はこのへんでよくよく眼を覚まして直視するべきではないのか。
今、問題の尖閣諸島、竹島、北方領土、皆、その根っ子は同じではないか。要は日本が、一人前の独立国家と看做されず、アメリカの愛人国家ぐらいにしかみられていないからではないか。
男が本気で喧嘩すると覚悟を決めた時、懐にいざとなれば相手と刺し違える匕首の一振りも呑まずしてどうして、真っ当な理屈が通らない相手に立ち向かえるというのだろうか。
匕首を懐にすると言う事は、即、こちらが先に手をだすことではないのである。あくまでも不当な相手に対する時の覚悟のほどいかんということである。
ゆえに、懐に忍ばす匕首としての核を保有する事は、今や即それを使用することではないのである。
今の国際外交において、核保有は、その使用するとかしないとかの前に一つの方便としての必須の道具でしかないのではないか。核保有無くして外交を行う事は、金貨を持たずして貿易をしようということと同じとなっているのではないか。
私たちが本当に戦争は悲惨でやめたいとして、真に世界平和を願うならば、今や人類は国家というエゴ集団の概念を破棄し、世界政府の樹立を目指さない限り、未来永劫絶対に達成されることはないのではないか。
そのためには、我が国が率先して、国連の場(それが妥当かどうかの議論は当面置くとして)で世界政府の樹立にむけて主張するためには、絶対に現状のごとくアメリカの属国とみなされるようでは、何処の国からもまともに耳を傾け聴いてはもらえないのではないか。
我が国が、アメリカの核の傘を離れ、核保有国家となり国連の場に立ったときこそ、世界は初めて、一人前の独立国家として、その耳を貸さざるを得なくなるのでなかろうか。
ー追記ー
この記事を書いた後で、那覇地検が中国人船長を釈放した事を知った。案の定の成行きだった。
こんな事なら、最初から、どうせ当事者以外は知る由も無い海の上、はなから捕まえるなどせず、巡視船はぶつけられないように逃げ回っていればよかったではないかと嫌味の一つもいってみたくなるていたらくではないか。
中国のインターネットでは、「国は強くなければ、人民を守ることはできない」と早くも嘯いているとか。
現実はまさにそのとおりではないか。北朝鮮に拉致された平和憲法国家の日本人は、そのほとんどが未だに行方不明のままではないか。
国家の枠組みにしがみつく以上は、国家は少なくとも周辺隣国から舐められない程度には強くあらねばならないのではないか。
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