蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

民主党に期待すること!官僚・公務員の意識改革にいかに取り組むか?

2009-08-25 12:06:15 | 時事所感
8月23日(日)晴れ、涼。

  散々じらされ待たされた衆議員選挙まで後7日となった。各種世論調査によれば、民主党の圧勝ということらしい。早くその結果を現実のものとして目にしたいものだ。
  以前は、事前に優勢と報じられると、有権者の天邪鬼が働いて必ずしも予想された結果に反することとなることも多かったようである。
だが、最近は誰もが勝ち馬志向となったためか、良い方はますます勢いが付く半面、悪く報じられた方はますます見放されてより悲惨な結果となる傾向にあるという。

 ということからも、よほどの突風が吹かない限り民主党圧勝はゆるがないのではないか。
さて、となると、民主党に対して、私は唯一つ期待することがる。

 それは、明治維新政府の大久保以来といわれる官僚主導政治の打破である。明治新政府時代は、まだ大久保を始めとして、政治家に明確な国家ビジョンがあり、これに基づき長期的な見地から各般の行政機構が有機的に運用され日清、日露の国家的危機を潜り抜け新生間もない日本国家を世界の大国へ仲間入りさせた。

  ところが、その成功が逆に明治維新を主導し大久保、伊藤といった大政治家が亡くなるとともに、官僚機構(軍部も含めて)が勝手に一人歩きをはじめ、先の大戦への破滅へと日本国家を引きづり落としたのではなかったか。
そして戦後、一部の指導者は、アメリカを筆頭とする占領軍により、戦犯として処刑され、公職追放とはなったものの、米ソの冷戦が始まるや否や、これら指導者はまたぞろ息を吹き返し、この間、解体された軍部を除き官僚機構は旧態依然として残された。それが今日まで続いてきたのだ。

 それでも戦前の官僚機構には、天皇の臣として、天皇への忠誠を通じて間接的には国民への奉仕というか、国民(公)のためにという観念が働いていたのではなかろうか。しかし、戦後の新憲法の下、公僕となった公務員は、天皇という目に見える国民を抽象(客体)化した存在を失った。いわば、国民という抽象化した透明な空気のようなものを主人と仰がなくてはならなくなったのだ。

 同時に、この官僚機構に君臨し使いこなさなくてはならないはずの政治家についても、戦前の明治憲法下の現人神たる天皇という厳然たるナマ身の存在を失い、自分の行為を見守り責任を問うものは、これまた透明な国民という空気でしかなくなったのだ。
 ここに両者相まっての誰からも面と向かっては責任や失政を問われることの無い無責任な政治体制が日本の戦後政治を長く支配することとなったのではなかったか。
 その結果、誰も自分たちの行為や結果責任を厳しく問うものが居なくなったのを幸いに、国民や国家利益なんてものは雲のかなたに消し飛び、誰も文句を言うもののいないところで、政治家は政治屋に堕し、公僕は私僕と化して、国家財政のつまみ食いのし放題というていたらくになったのではないか。

 戦後半世紀に渡る自民党政権は口先では靖国だの国家だの愛国心だのと格好の良いことを言いながら、その実は一見麗しい美辞麗句の大風呂敷に、自分たちががめつくあさった既得権益を後生大事につつみこんできたことにあるのではないか。
今回の敗北は、其の欺瞞性が漸く白日の下に明らかとなり国民に見放されたということではないだろうか。

  翻って、民主党は、果たして、この頭と手足がばらばらな官僚機構をいかに真に国民の手足として再生させ遣いこなせるようになるであろうか。
 そのためには、民主党の指導者が、国民を如何に可視化して自分たちを厳しく見つめる存在として誠実に意識し続けるかということではないか。
 又、官僚に対しても、国民一般というものを抽象的存在としてではなく一人ひとり生きた声を出す存在として意識し、各自の職務を通じて誠実に対応させえるかどうかではなかろうか。

 民主党が真に国民の負託にこたえ得る政権でありえるか否かは、ひとえに官僚や公務員の意識を日本国憲法にいう真の公僕に意識改革ができるかどうかにかかっているのではなかろうか。
 官僚や公務員が真の公僕意識を持って働くならば、この日本は、現下の不況や格差社会からたちまちに再生するのではなかろうか。

  それにしても民主主義国家というものは、難しいものではないか。普通の人間というもは抽象的概念に極めてなじみにくく弱いのではないか。私はこの宇宙、そして私たち人間を含めて全てのものは、我々の眼には見ることもできない絶対的創造者によって創出されたものと確信している。
  多くの宗教者はこれを神と呼び、仏とよぶのではなかろうか。だが私はその絶対的創造者というものを特定のキリストとか、釈迦とか、そうしたものに擬したいとは思はない。
  このこととは次元は違うが、国民とか国家への忠誠といった場合にも、戦前の天皇制やどこかの独裁国家ならその大将軍という目に見える存在としてならば、わが身がどんな遠い位置にあろうとも、何かを、如何ようにか誓いやすいだろう。

   だが、どこにもそんな絶対者の存在しようのない民主主義国家においては、よほど個々の人間が高尚になり抽象的概念の世界で呼吸できるようにならないかぎり至難の業ではないのだろうか。
  民主党は、果たして、この大難題にいかにこたえていこうとするのであろうか。
  私が具体的に一つ提案できることは、公務員試験を始め、あらゆる公的な職員の採用試験には、知能・知識が優れていることは勿論論だが、何よりも他人に対して思いやりのできる、想像力の豊かな人格であってほしい。そのためには、採用試験の実務上どんなに難しくとも人格考査に重きをおくべきではなかろうか。
 他人への想像力の無い、思いやりの無い人間だけには絶対に公職に就かせるべきではない。
  さらに終身雇用を廃して、全て10年単位でその間の勤務実績を審査したうえで、一定の成績を示したものだけを再任用していく有期雇用制とすべきではなかろうか。
  何故ならば、社会保険庁の事例で顕著なように、現在の仕組みでは官僚や、公務員の人事管理ができないからである。安定した条件の下では、組織をそこで働く人間を腐敗させやすいのである。
  中国共産党の腐敗、旧ソ連邦の崩壊又同じ轍ではないか。

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