わたしたちの思いとは裏腹に、いまどき武道家なんてのは普通の人から見れば浮世離れした物好きくらいにしか思われていないかもしれません。そうだとすれば反省すべきはわたしたち当事者ですが、お叱り覚悟で言えばそれは、《武》というものに対する世間の見方が皮相的だからです。
その遠因は『武という文字は戈(ほこ)を止めると書き、争いを避けることを目指す』という、大衆受けする、あるいは能天気な字義の解釈に拠るところが大きいのではないかと感じています。これはわが国において武力保持集団(武士)の正当性を説明するために特に強調され、それが今も武道界で言い続けられているからでしょう。
以前にも本欄で触れた記憶がありますが、《武》は戈と止とからなりますが、止という字は足や歩く、走るなどの字にも含まれることからわかるように、前に進む動作を意味します(止まるというのも前進することのひとつの形態です)。したがって原意は『戈を高く掲げ力強く前に進むこと』です。
武は戈を止めるという意味だとの解釈も昔の中国発のようですが、彼の国では武力集団は単なる戦闘技能者とみなされ、日本の武士のような社会的地位も倫理的素養も期待されていませんでしたから、そのような啓蒙的発想はどちらかといえば一部の知識人の恣意的解釈と考えてよいでしょう。
そんなこんなで、今のおおかたの日本人が武力あるいは武力保持者に対し、ゆがんだ期待を向けているのもむべなるかなと思われます。
世間ではいま国の集団的自衛権に関し、かまびすしい議論が展開されています。このブログで政治的テーマを取り上げるのは適切ではないと思いますが、ただ、武道家の立場から言っておきたいことがあります。
集団的自衛権の行使に関し、内閣はこれまでの法的解釈を改め、実行可能にする方針に転じました。大きな政策転換ですから様々な意見が出てくるのは当然でしょうし、そのことは健全な民主主義のあらわれだと思います。
その一連の騒動のなかで、わたしがどうしても気になるのは、記者会見での質問のレベルの低さです。朝日新聞は7月4日付けの紙面において=検証 集団的自衛権=という特集記事を組んでいます。そのなかで《血を流す覚悟 語らぬ首相》という見出しで、ある記者から【(自衛)隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まる点をどう考えるのか】という質問が出されたことに対し、【安倍は「自衛隊の皆さんは危険が伴う任務を果たしている。勇気ある活動に敬意を表する」と、正面から答えなかった】と書いています。
そもそも刀は人を斬るために、鉄砲は人を撃つために作られたのです。したがってそれらを保持し使う能力を持った者は敵と戦うことを自分の本来の立ち位置としています。現実に戦いがあれば当然血は流れるでしょう。だからといって、現今の日本的価値観の只中で、首相が『戦闘で血を流すのは当たり前だ』と答えられるわけがないではないですか。
ここにおいて、知識人とも目される新聞記者そして記事編集者が武力ないしは武力保持者について実に幼稚な認識しか持ち合わせていないことが明らかです。武力保持者(その指揮権者も含む)は自分にも敵の刃が向かってくることは自明の理として了解していると考えるのが常識であり、あらたまって覚悟などひけらかすこともないのです。
そういう質問は自分の命を的にして使命を果たそうとしている人たちを愚弄しているというべきです。記者、編集者は新聞を自分の主義主張の主武器とし、あまつさえ自衛隊員を盾として利用しているに過ぎません。実に幼稚で卑怯な行為です。幼稚はまだしも、卑怯なふるまいは武道家のもっとも忌み嫌うところです。
ただ、考えてみるに、このような《武》に対する認識、理解度の低さは政治的、思想的立場の如何を問わず現今の日本人に共通したものです。それはたぶん、《武》の最大の理解者であり体現者でもある武道家に責任の一端があるかもしれません。つまり、競技化された武道の愛好者は競技の成績のみに目を奪われ、合気道のように試合のない武道の愛好者の関心はあくまでも個人的充足感にとどまっていて、それ以外の社会的利益にあまり寄与していないからだとは言えないでしょうか。この点はおおいに反省の余地があります。
そういう意味で、わたしたちは武道修練の成果をなんらかのかたちで社会に反映させていく義務があるでしょう。その最終目標は自衛権云々も必要ない地上天国の建設ですが。