仏像鑑賞が流行っているのでしょうか、教育テレビで拝観のためのノウハウ番組のようなものをやっていますね。また先ごろ岩手県平泉の寺院や庭園等が歴史遺産に登録され、中尊寺安置の仏像群が紹介されたり、このたびはブータンの国王陛下ご夫妻が来日され、京都で寺をお訪ねになった際も仏像に合掌されたり鑿(のみ)を入れたりされる様子が放送され、なにかと仏像が映像に現れることが多かったように思います。
仏像には、究極的な悟りの境地を示す如来像、修行途中ではあるけれどいずれ如来となることを約束されている菩薩像、ありきたりの方法では救いがたい 衆生を力によってでも導こうとする明王、仏法を守護する天などがあります。
仏像にあまり興味のない方でも、それらの中には憤怒の表情をしていたり武器を持つものがあることはご存知でしょう。一番目に触れるのは寺の山門にひかえる仁王像でしょうか。そのほか明王や天と呼ばれるものの多くに武神といっていいような仏像があります。仏の教えを誹謗するものや仏法を信ずる者たちに危害を加えようとするものに敢然と立ち向かう強い意志を表したものです。穏やかな表情の如来像からはずいぶんかけ離れていますが、それらは、釈迦の教えが拡大変遷するなかで、インド在来の神が仏教に取り込まれ、それぞれの役割を担うようになったものといわれています。
ところで、どんな仏像が好きかで、その人の志向がわかるような気がします。わたしの場合は、歳のわりに血の気が多いのか、一触即発というか鎧袖一触というか、いまにも戦端が開かれるかのような明王や天の力感あふれる像に惹かれます。それらは、煩悩を離れてとり澄ましたように見える如来や、将来を約束されて希望に満ちた菩薩とは違い、わたしたちと同じ地平に立つ人間臭さが感じらます。
そして、これはまたわたしの思い込みなのかもしれませんが、その厳しい眼差しは実は外に向かっているのではなく、自分の内側に向けられたものなのではないかと感じたりします。そのように感じてしまうと、その吊り上った目はなんと悲しげに見えることか。重く大切な役目を負いながら、いまだに達しえていない己のふがいなさを嘆いているようにも思えてしまいます。そして、それはそのまま見る人自身に向けられた眼差しでもあるのです。おそらく仏師はそこまで読んで造像したのでしょう。
わたしは、仏像のありがたさはそれを作った人、あるいは作らせた人の思いを感じ取ることから生まれると思っています。さらに言えば、そのような感受性は、とりわけ武道に関わる人にとって重要なことではないでしょうか。別に、みんながみんな仏像鑑賞者になる必要はないのですが、あるひとつの物がそこにあるためには何らかの人の意思が働いているということに思い及ぶくらいの感性はなければいけません。そうような心の働きがないと武道はただの身体運動で終わります。
さて、暴力や争いからもっとも遠くに位置する仏教でも弘法(ぐほう)と救済のためには力の存在は肯定せざるを得ないのです。ただし、その力は救うべきものに対し便法として行使されるもので、そこは間違ってはいけませんが。その点、現代における武道も同じではないでしょうか。武の力というものは元々自分を守るためのものですが、それで終われば単なる武器や防具に過ぎません。自分も生き、相手も生かす心構え、これこそが合気道の愛でしょう。そのとき、わたしたちの目は明王、天の目になっているのかもしれません。
前回項において、本ブログを通じての道友 寿陵余子様がコメントをお寄せ下さり、その文末に『それにしても合気道は楽しいですね』との一行を添えてくださいました。わたしはこの短い文章に大きく心を揺さぶられました。なんと肩の力が抜けた、それでいて何ものをも障碍としない力強い言葉かと。これまで頂いているコメントから、氏はしっかりした稽古と思索を重ねられていることは承知しています。それはいつも楽しいばかりではない、むしろ相当厳しいものであろうと拝察しています。にもかかわらず、『楽しい』と言い切る強さに感銘をおぼえました。
今回、仏像しかも明王や天の憤怒相を話の材料にしたのも、寿陵余子様の示された強さに触発されたからです。本当に強いものは本当に優しいということを、わたしも広めたいと思いました。
本当は昔流行った歌謡曲『柔道一代』の歌詞≪いかに正義の道とはいえど 身に降る火の粉は払わにゃならぬ≫と同レベルの精神を語ろうと思ったのです。でも、それでは足りない、と感じたのでした。