最近とても興味をひかれたテレビ番組があります。東京大学大学院教授の佐倉統氏が進化論を語るなかで、ひとに親切にしてもらうと嬉しいという感情や、こちらが親切を施すと気持ちが良いと感ずるのは、人間が進化の過程で獲得した資質だというのです。つまり、そのような感覚を持った者が生き残ってきたということです。
同時に、敵対するものとは徹底的に戦うという性格もそれといっしょに獲得した資質だそうです。
その番組を観ていて、このブログで展開してきた武道の意味、つまり闘争技法でありながら道徳性も求められる営みの根源はここにあるのではないかと大いに気づかされるところがありました。
道徳というものの元をただせば、人間が一定の集団の中で最大多数の最大幸福を求めるために、いろいろな歴史、経験を通じて作り上げてきた、あくまでも人為的なルールだと、わたしは考えてきました。
この道徳的世界では、個々の欲求を制限しても、結果として全体の幸福が最大値になるような判断基準を善としています。
もっとも、一般的には幸福の度合いは数値で計れるものではありませんから、往々にしてそれは物や金などの経済的利益で代替されます。その場合、単なる弱肉強食ではなく、時には持てる者が持たざる者に施しを与えることが、また利益を独占したりしないほうが、全体としては長期にわたって利益を大きくできることもあります。そのような考えのもとに道徳感が培われてきたことも事実であろうと思います。情けはひとのためならずというのは、そのような状況を言い表しています。
しかし、ことはそれに止まらなかったのです。初めにあげた進化論的立場からの見解では、個々人が本来獲得できるはずの利益の放棄と引きかえに、それに相当する程度の精神的な充足感を味わうことができるように人間が進化してきたというのです。人為的に道徳、あるいは倫理とよばれるルールが築き上げられ、社会に定着するには相当の期間が必要でしょう。しかし生物進化はそれとは比べものにならない時間単位のできごとです。どちらがより根源的かは言うまでもありません。
宗教や哲学などは、仁とか愛とか慈悲とかいうものを価値判断の中心において人間のあり方を説いています。わざわざそう言うのは、そのような教えがないと人間が勝手気ままに行動するからだという考えが底辺にあるからでしょう。
しかし、先の進化論的立場からは、人間が先天的に持つ、つまり既に獲得している資質によって善(人間社会を発展維持させるために有効と思われる行為)を為すことができると考えることができます。これは、武道を通じて人格の向上に努めようとする立場の人々にとっては、論理の組み換えを迫るものではないでしょうか。
どういうことかといいますと、道徳観や倫理観は、これは言葉をもって教育しなければわからないことでしょうが、それを感受する能力はもともと人間に備わっており、武道の価値はそれを開かせてやるところにある、ということです。現代武道がなすべきことは、第一義的には体育を通じて身体能力(感受性もその一部です)を向上させることであって、道徳や倫理そのものを直接教えることとはちょっと違うということになります。
さて、敵対するものとは徹底的に戦うという資質については、佐倉氏はそれ以上には言及しませんでした。進化論における生物の戦いの歴史、すなわち生存競争の歴史は生命そのものの歴史とイコールです。これを語り始めたらとてものことテレビ番組の枠には納まりきれません。
それに比べれば人間の歴史、ましてや武術、武道の歴史などは取るに足りないものですが、そのようなちっぽけなものの積み重ねによって億年単位の歴史が作られていることも事実です。生物の進化は完了したわけではありません。ヒトもそうです。気の遠くなるような時間の流れの中で、事実上まったく目には見えませんが、進化は休むことなく進んでいます。逃れるわけにはいきません。
であるならば、わたしたちとしては、今あるこの時、この地において、そして武道家は武道の縁に依ってひとを大切にすることこそが、その流れに掉さして進化に参加するということなのではないでしょうか。