いつも言っていますように合気道は未完の武道です。未完というのは完成形がないということですから、人によって動きが違ってよいのです。それは大先生の直弟子師範方の動きが十人十色であることをみてもわかります。多くの場合、その違いはそれぞれの方の履歴(指導を受けた時期や武道歴)が影響しているようですが、そういう差異を許容する度量が大先生はじめ歴代道主にはあるということです。
しかし、動きが違ってもよいというのは何をどうやってもよいということでは決してありません。やはりそこには合気道という特定の武道としての枠組みがあり、その範囲内で自由だということです。そして、枠組みという以上はその中心に標準形があります。現在、その標準形というのは大先生監修のもとに吉祥丸先生がお示しになった一連の技法に他なりません。それは現道主が示される技法であり、また教本等に著わされていますから、原則的には合気道人どなたでも接することのできるものです。
その標準形に示されるある局面において、たとえば右足が前とされていればそれはその通りでなければなりません。しかし、そうでない場合も実際あるのです。一例をあげれば、右半身一教表において、標準形としては振りかぶりと同時に右足を進め、切り下ろしながら左足を進めます。ところが、術者においては右足を一歩進める間に振りかぶりと切り下ろしを一挙にやってしまう方もいます。かくいうわが師、黒岩洋志雄先生も転換からの片手取り一教表においてそのような運び方をします。
あらゆる動きには、そう動くべき理由があります。左足前であるべきところを右足前のままにする、はっきり言ってこれは原則に反します。もっとも、それくらいのことはどちらでもいいんだ、と考えていたころのわたしは気にもなりませんでした。しかし、技法に対する自身の理解が進むにつれ(そんなに昔のことではありません)そのままで良いとは思えなくなりました。まして、緻密な理論に裏打ちされた黒岩先生の技法が、どちらでも良いなどというレベルで表されるはずがないと思ったのです。
それでその理由をいろいろと考えてみたのですが、ついにそれは間合いと関係するのであろうという結論に達しました。黒岩先生による片手取り転換からの一教表は転換した時点で普通のやり方よりも相手と密着する位置取りをします。したがって、一歩目を踏み出すとほとんど二歩目を踏み出す間隙がありません。出したくたって出せないのです。これが、相手との間合いがある程度広ければ余裕で二歩目が出るのですが、黒岩合気道は自分と相手との間にできる空間(間合い)を自分の体で埋めるというものですから、理論上隙間ができにくいのです。
このことに気づいて思ったことは、標準形にはそうであるべき理由があるのと同様に、原則からはずれるものははずれるだけの理由があるということです。標準形からはずれた動きをする人は、その理由を自覚していなけらばならない、訊かれたらきちんと答えられなければならないでしょう。それを、何も考えず『そのように教えられたからそうしている』というのは、少なくとも上級者のあるべきかたちではありません。要するに、原則からはずれることがいけないのではなく、はずれる理由をわかっていないことがいけないということです。
標準形を教えられ、その通りにできている人は幸せです。しかし、標準形と異なる動きをしている人はもっと幸せです。なぜなら、動きが違うことの理由を考えるチャンスを与えられたということであり、それがわかったら標準形と異形のふたつを自分のものにできるからです。黒岩合気道がそうであるように。
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