合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

365≫ 正面打ちのこと

2019-09-30 19:38:56 | 日記
 先日、わたしの会の稽古で正面打ち一教の稽古をしました。主に子どもが多い時間帯ですが大人の初心者もいっしょでした。

 今回の稽古の肝心なところは、実は一教はどうでもよく、狙いは正面打ちです。正面打ちは、普段の稽古では受けが前足を一歩踏み出せば手刀が取りの額に届くという前提で行いますが、実際には間合いが遠すぎて手が届かないことのほうが多いようです。これは当会に限らずどちら様も似たようなものではないでしょうか。距離の足りない分を埋め合わせるために取りも一歩踏み出してちょうど良い間合いにしています。それもまあ悪いことではないのですが、本来作るべき間合いとは違いますので注意が必要です。

 そういうことをわかってもらった上で今回は、相手との距離を6尺(畳の長辺)くらいとって、受けは歩み足で間をつめるようにし、ちょうど良い間合いだと思ったところで正面打ちをするように指示しました。その際、取りはあえて何もしないでただ突っ立っているように命じました。すると、数歩進んでもまだ間が遠すぎて空振りする者が多いようでしたが、これこそが今回の稽古の目的です。普段の間合いのいい加減さをわかってもらいたいと考えてやったことです。全然相手に届かない打ちは正しい稽古とはいえません。取りは何もしないで良いわけですから。

 以前にも書いていることですが、片手取りや肩取りなどは相手をつかんだ(つかまれた)時点で間合いが決まってしまいます。その稽古を繰り返して自分にとって適切な間合い感覚を身につけていくわけです。ここで、間合いが自動的に決まってしまうのに自分にとって適切かどうかがわかるのかという疑問が出てくるでしょう。これはもっともですが、それは間合いというものを感じ取ることのできた次の段階の技法で解決できます。これは今回のテーマの主眼ではないので簡単に言いますと、受けが手首や肩をつかもうと思った位置(空間)を体捌きや足運びでずらしてやるのです。つまり取りたいところで取らせない動きをするということです。これは機会を改めて述べてみようと思います。

 わたしは間合い感覚の養成こそが日々の稽古の主要な目的のひとつだと考えていますので、上のような稽古の工夫も大切だと思います。正面打ちなどは入門後すぐにも教えられますが、これは実際はとても難しい技法です。間合いを自分で決めなければならないのですから、初心者のための基本技法というレベルではありません。でも、難しいからこそ入門時から時間をかけて覚えていくべきものだと考えてください。だからこそ子供と初心者の時間帯での稽古です。でも、きちんとできる大人も決して多くはないのですよね。

 正面打ちにはそれ以外にも考えるべき要素がたくさんあります。それらもいずれ機会を改めて考えてみましょう。

364≫ 過剰包装  

2019-09-09 15:47:33 | 日記
 こんな拙いブログでも、言葉を操っているので、日頃から日本語の乱れについては敏感になっています。

 先日、近隣の自治体で市長選挙があり、当選者が挨拶をしている様子がテレビで映されていましたが、そこでの言葉が引っ掛かりました。支援してくれた有権者に向けて『御礼を申し上げさせていただきます』というものでした。この、~させていただきます、というのは最近の政治家がよく使う言い回しです。戦前の最高敬語でもあるまいし、こんなものは『申し上げます』で十分謙譲の意は届くので、ほかの言葉は、言うなれば過剰包装みたいなものです。だいたい、巧言令色鮮し仁という言葉を習わなかったのでしょうか。

 でもまあ、この過剰包装、言葉なら聞き流してもさほど害にはなりませんが(わたしはひどく気になりますが)、武道、武術の世界では命とりになります。その一番にあげられるのが我が合気道ではないでしょうか。

 いらない、無駄な動きはないか。そんなところに飾りをつけたら自分の動きを邪魔しないか。熨斗を付けるならそこではなくここではないか、といった塩梅で、わたしから見ると過剰包装のオンパレードです。

 合気道がそうなる原因のひとつはやはり演武にあると思います。わたし自身があまり演武に重きを置いていないせいもあり、また演武の悪口かと思われる方もいらっしゃるでしょうが、皆様にも是非考えていただきたいと思います。

 違う例で考えてみます。来年にせまったオリンピックでは新しい競技がいくつか加えられます。たとえばスケートボードやサーフィンです。この競技は速さや強さを競うものではなく、技術の出来栄えをいかに観客に訴えるかというものです。従来の体操や飛び込み競技などもそうです。順位、評価は審査員の主観、感性に委ねられます。陸上競技の時間(タイム)や重量挙げの重さ(ウェイト)のような客観的数量とは違いますが、これらは、そういうものだとの共通理解があるので競技として成立しています。

 そこで、合気道です。合気道の演武には共通理解にもとづく採点法などありません。ですから合気道は競技ではありません。演武者は自分の合気道観にしたがって動きを作り上げています。見る目のある観覧者は、そこから演武者が何を考えているかを探り出すことができます。名人達人は演武で強さを示すことができますが、下手をすれば自分の弱点をさらすこともあるかもしれません。

 ですから我が師、黒岩洋志雄先生は演武があまり好きではありませんでした。『誰が見ているかわからないんですよ』と、特に他流の人に技を読み取られるのを大いに恐れておられました。もちろん、わたしの演武嫌いはそんな高等な理由ではなく、単なる演武下手なだけですが。

 ところで、わたしは本文において演武ならびに演武者をくさしているわけではありません。演武は合気道において重要な行為です。そして優秀な演武者は自分が演武で何をしているかをよく理解しています。過剰包装も自覚の範囲内です。

 そのことを知らず、見た目の素晴らしさだけで、これが合気道の本質だと誤解している人に注意を喚起しているのです。

 是非、合気道が武道、武術であることを前提とした演武が広まるのを望みますし、そのような目で演武を楽しんでいただきたいと思います。 

363≫ 武道家の心構え 

2019-08-22 18:36:20 | 日記
 このブログをお読みいただいている ji-ji dai-chan様から次のようなコメントをいただきました。

【この一週間テレビのワイドショーや定時のニュース報道でも取り上げられている煽り運転と暴力について考えているところです。
そもそも巻き込まれないためには五感を働かせて、そういう輩には近づかない危機察知能力を高めればよいのでしょうが、仮に運悪く遭遇してしまった場合、運転席シートに座ったままだとして、相手のストレートパンチを捕えてもう一方の手で腕の下側から肘を手前に決めたら折れますね。
しかし、あとで警察や検察で、過剰防衛は起訴できません。相手の治療代はあなたが支払ってくださいなんて言われたら茫然とします。
半身半立ち技の応用できますでしょうか。
窓を開けないのが一番ですが、腕に覚え有る人ほど
反撃したくなるのでは・・・・
だまって殴られているほど胆力がないもので。
でも、現行の法律では喧嘩両成敗とか、納得いかないですね。】

 以上のようコメントです。実はわたしもこの不条理な出来事については本ブログで取り上げようと考えていたところでした。ちょうど良い機会ですので、思うところを述べてみます。もちろんわたしは一介の市民ですので、あくまでも個人的な感想でしかないことはおことわりしておきます。

 さて、テレビにこの件の動画が流れるたび、わたしは本当に胸糞が悪くなって、チャンネルを変えていました。まことに唾棄すべき男です。しかしながら ji-ji dai-chan様と同様、武道に関わる者としては如何に対処すべきかということを考えるのは義務のような気もします。それを複数の視点から見つめなおしてみたいと思います。

 まず、あのような理不尽な人間と一方的にやられるだけの人間、その両方ができあがる根本的な原因はどこにあるのかということです。少し風呂敷を広げて言うならば、戦後70年以上にわたる平和教育にあるのではないでしょうか。いや、平和教育というのは正確ではありません。無抵抗によるその場しのぎ主義とでも言うのが当たっているかもしれません。このごろネットで言われる『お花畑』というのが近いでしょうか。被害者を責めるようで気がひけるのですが、自分が平和を唱えていれば相手は攻めてこないという楽観的状況把握のことです。
 
 要するに、何をやっても相手は反撃してこないという前提で一方的に暴力をふるう者が出現し、その餌食になる人が生まれるのです。いつもここで言っている合気道の稽古法と似ていますね。もちろん合気道は暴力ではなく理性に基づく武力であり、双方の了解のもとでやっていることなのでまったく似て非なるものではありますが。

 とにかく、一方的に暴力を受けるということは、武道家に限らず絶対にあってはいけないことです。動画で見れば、顔を殴られ、それでも軽傷のようですが、ひとつ間違えば失明したり、場合によっては命を落とすことだってあります。あの場合の両者はそのことをわかっていなければなりません。ですが、いわゆる平和教育のせいで、そのような人間世界の下世話でしかも必須の、身体生命を守る教育がなされてこなかったのです。

 それはなにも肉体的なことだけではなく、心のありよう、つまり道徳の教育もなおざりにされてきたことの帰結です。学校教育で道徳を扱うことに反対する人たちがいます。それならそれで結構ですから、そのかわり自分の子供はしっかりと真人間になる教育をしてほしいものです。

 さてここまでは事件を引き起こした背景についてでした。もう一つ、武道家としてなすべき具体的な対処法を考えてみましょう。

 ji-ji dai-chanのおっしゃっていることはその通りです。要するに、対処のしかたによっては、制圧するには力が足りなかったり、反対にやりすぎたりと、ちょうど良い塩梅にはなかなかいかないものです。それを解決する方法、それは圧倒的な実力を身につけることです。大人と子供ほどの差があれば容易に解決します。理想論と思われるかもしれませんが、わたしたちはそのために日々つらい稽古を重ねているのではありませんか。圧倒的な実力があれば逃げることも守ることも可能です。もちろん最悪の場合攻めれば容易に制圧できます。なるべくそこまではしたくありませんが。

 その反対が『生兵法は怪我のもと』ということです。生兵法を是非しっかりした兵法にしたいものです。そのしっかりした兵法を身につけた人にはそれに見合った気が表れる、というようなことを黒岩洋志雄先生はおっしゃっていました。普段の稽古で気などという言葉はめったに使わなかった黒岩先生がこれだけは言っておられましたが、よく言われるオーラのようなものだろうと思います。そういう人に勝負をしかけようという阿呆はいないでしょう。そこに至るまでの稽古、修行を積みたいとわたしは念じております。

 また普段の説教、というかお節介ですが、合気道の稽古の眼目は間合いを身につけるということです。自分の間合いの内には他人を踏み込ませない、一旦踏み込んだ者は瞬時に制圧する、身を護るためには必須の意識です。なお、通常の稽古でする技法はそのままでは実戦に投入できませんのでご留意あれ。

362≫ 技法の成り立ち   

2019-08-01 17:45:53 | 日記
 普段の稽古で、教えていて一番わかってもらえないのが技法の(合気道そのもののではなく)本質です。それがわからないと合気道はダンスの域を出ません。ではその本質とはどういうことか、これを今回のテーマとします。

 以前にも述べたことがあると記憶していますが、だいぶ前に柔道経験者の門人に一本背負いをかけてもらったことがあります。親子二代の柔道家で、子どもの頃から柔道に親しんできた若者です。『本当に投げていいですか』と聞くので『遠慮なくどうぞ』と答えました。受け身には自信がありましたし、なにしろ今どきの道場用畳は表面が柔らかくできているので心配はありませんでした。それで実際に投げてもらったのですが、わたしが驚いたのは、組んでから担ぎ上げ投げるまで、要するに一連の動きがが想像以上に速かったのです。中学生の時校内競技大会の相撲に参加し、運が悪いことに相撲部員とあたり、はっけよいのこったが聞こえたと同時に土俵下まで吹っ飛ばされたのを思い出しました。どちらも速い速い。別段、掛け手が全日本レベルとかじゃなくても、素人を投げることくらいは屁でもないのです。剣道だって空手道だって同じでしょう。みっちり稽古を積んできた人は間違いなく強いです。

 そういう目で合気道を見た場合、素人相手にも途切れることのない、流れるような動きで制することができるでしょうか。これは、できそうでなかなか難しいかもしれません。いつも上手くできているのは相手が合気道の受けを知っているからです。

 しかし、それでもなおどんな相手でもきれいに制するために必要な事、それが間合い、崩し、その上での技につながる体捌きです。合気道の稽古はそれらを身につけるためになされるものです。

 武道、武術の勘どころはなんといっても間合いです。足運びも間合いを作るための手段です。次に崩し、これがないと投げ技も固め技も成り立ちません。そして、入り身、転換に代表される体捌きです。これは間合いや崩しと一体のものですが、要するに合気道の動きを象徴する合理的な体表現です。

 間合いを意識するためには、気の合う稽古仲間に頼んで、技の途中でも隙があったら打ち込んでもらったり蹴ってもらったり、あるいは返し技でもしてもらったらよいかもしれません。すると、こんなところにいてはダメなんだとか構えがなっていないんだとか分かってくると思います。

 崩しについては、これは一般的にはあまり考慮されない要素なので、どうすればよいかわからない人が多いかもしれません。でも簡単なことです。受けが、あまり崩れていないのに容易に技にかかってあげなければよいのです。うまく崩されたときには余計な抵抗をせずに技にかかればよいでしょう。これも、やり方によっては意地悪にも見えてしまうので、事前の了解のもとに実行するのがよいでしょう。

 ちなみに、黒岩洋志雄先生の合気道では一~四教がタテの崩し、四方投げがヨコの崩し、加えて二教が奥行(前後の崩し)です。さらにわたしは入り身も奥行の崩しと理解しています。

 それらを全体を通して合気道らしく表現するのが体捌きです。わたしは合気道の滑らかな動きが好きですが、それは滑らかなほうが技が強力だと思うからです。力んだ動きは見た目ほど強力ではありません。

 さて、合気道ではいろんな目的を持って稽古に励む方がいらっしゃいます。ですから、ここでわたしが述べているようなことだけが正しいなどとは露ほども考えていません。ここで対象としているのは合気道は真に強い武道である、あるいは、そうありたいと考えておられる方です。合気道は愛の武道であるとともに強力な武術でもあります。どちらを選択するかは自由ですが、合気道はそれらを全部飲み込むだけの許容量をもっています。できれば両方選んでください。

 良かったですね、合気道家で。

361≫ かたちの理由  

2019-07-11 18:25:05 | 日記
 合気道の基本の構えは半身ですが、動きの中では局面に応じた姿勢をとることが求められます。それでは、その局面に応じた姿勢とはどのようなものであるか、よく考えてみる必要があります。そのように教えられたから、とか、その方が楽だから、というのは少なくとも中上位の人の答えとは認められません。

 はっきり言いましょう。最適な姿勢とは、相手の攻撃を防ぎ、自分の身を護ることができるかどうか、その一点にかかります。もちろん100対0と圧倒的な位置取りが理想ですが、そのようなものは実際には望むべくもありません。ですが、それを目指して努力するということが稽古の眼目です。

 いつも述べておりますように、合気道の形(かたち)には一つ一つにそうでなければならない理由があります。先日、わたしの会の少年部の稽古で天地投げを指導しました。逆半身両手取りで、取りが左半身であれば、左足を一歩進め受けの背面に入り身するわけですが、少年部くらいだと、間違えて受け正面に右足を進めてしまうことがあります(実は大人でもあります)。とりあえずそれは違うと教えますが、その理由までは言いません。自分で考えてほしいからです。しばらく考える時間を与えてから、出てきた答えを聞くと、たいていは正答ではありません。そこでわたしが受けになり、間違い天地投げをやらせてみます。そして取りが間違いの一歩を踏み出したところで、こちらは丁度よいところにある金的に蹴りを放ちます。もちろん当てませんが。そこで子供は初めて理由がわかります。蹴り一発で決まるようなものは武術ではありません。

 同じように、受けの正面に踏み込んで四方投げなり一教なりにいく時は、顔面への当て身が必須です。ただし、当て身にこだわり過ぎると動きが固くなり、合気道本来のなめらかな動きとならないので、少年部や初心者などの稽古では割愛してよいとも教えます。

 最近、60代後半の方が入会しました。その年齢で合気道に興味をもっていただいたことを誠に嬉しく思っています。年齢的に、健康法として取り組みたいことはすぐわかります。ですからこちらもその方向で技を提示しています。ただ、合気道は強さがなければいけない、ということを二代道主吉祥丸先生は仰っていますから、健康法の枠内で強さを発揮できるような指導も入れています。先日、その稽古で、実際にありそうな状況を前提に技に移行することを目指して指導しました。よくある襟取りを制圧する技です。受けは襟をつかんで引きつけるのが一般的ですが、その方は親指を下側にして襟を取りました。なにか理由があってそうするのかと思いましたが、特に理由はないようでした。要するに、これまで争いらしい争いをしたこともなく、はっきり言えば襟のつかみ方なんて知らなかったということのようです。それで、親指を下側にするようにつかんだら、一発で肘をきめられてお終いですよと教えました。ですが、これまでそのような行動をしたこともなく平和に生きてこられた方に、実際の戦いではこうですよなどと知った風にのたまうのも、わたし自身いい年をして、なにか小恥ずかしいことでした。

 とは言うものの、合気道における正しい動きや構えというものは、おしなべて戦いを前提にしたものですので、わたし自身はこの先も同じようなことを言い続けることになるでしょう。小恥ずかしさを乗り越えて、あえて必殺の技を伝えていこうと思います。技が必殺だからこそ、それをよくコントロールできる心を鍛えるのがすべての武道に課せられた義務であると思います。それをもって和の社会を築くための礎とする、それこそが武道における精神論の重要性です。